ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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不意の訪問

 

 

 

 

防衛術の授業が終わったあとも、教室には匂いが残っていた。

 

ニンニク。

乾いた薬草。

古い布。

 

窓は開いているはずなのに、空気はすぐには動かない。

机の間を抜けていく生徒たちのローブが、その匂いを薄くかき混ぜるだけだった。

黒板には、クィレル教授の細い字が残っている。

 

恐怖。

発声。

杖の動き。

呪文失敗。

 

白いチョークの線は、ところどころ震えていた。

筆跡そのものが怯えているわけではない。

ただ、線の揺れは、書いた手が常に一定だったとは思わせなかった。

 

生徒たちは椅子を鳴らしながら立ち上がり、教科書や羽根ペンを鞄へ戻していた。

 

誰かが鼻を押さえる。

別の生徒は、黒板を見ないまま足早に扉へ向かった。

 

スリザリンの列は、いつもより少し早く教室から流れ出ていく。

 

ニンニクと薬草の匂いは、教室に残ったままだった。

 

ケイは教科書を胸の前に抱え、扉の方へ何度か目を向けた。

ロウルは羊皮紙をきれいに揃え、黒板の文字をもう一度見てから鞄へ入れる。

ザビニは立ち上がりながら、机の上に落ちていた乾いた薬草の欠片を指先で避けた。

 

「今日は鼻が疲れる授業だったな」

「内容は筋が通っていました」

 

ロウルが返す。

声はいつも通り整っていたが、息はわずかに浅い。

 

「筋が通ってても臭いものは臭いだろ」

「それは否定しません」

 

ケイが小さく頷いた。

 

「……防衛術って、もっと呪文を撃つ授業だと思ってた」

「それはこれからでしょう」

 

ロウルはそう言って、黒板の文字をもう一度見た。

恐怖時の反応。

杖の動き。

呪文失敗。

 

派手な呪文より先に、そこを見せた授業だった。

 

エリアスは、まだ席を立たなかった。

 

恐怖すると、声が震える。

息が浅くなる。

杖を握りしめる。

狙いがぶれる。

 

それだけなら、普通の身体反応だ。

人間の体は驚けば縮む。

痛みや危険を前にすれば、息が乱れ、手がこわばる。

 

問題は、その揺れが杖の応答へどこまで届くかだった。

 

発音が崩れるのか。

杖先が鈍るのか。

意図が切れるのか。

魔力の流れが痩せるのか。

 

呪文学で感じた半拍の遅れ。

Lumosの光が、同じ条件のはずなのに揺れた不快感。

その原因を、感情という曖昧な箱へ入れたくはなかった。

 

恐怖を消したいわけではない。

怖がらない人間になりたいわけでもない。

 

魔法のどこが乱れるのか。

杖は、どの瞬間に遅れるのか。

 

それが知りたかった。

 

クィレル教授は教卓の上で羊皮紙をまとめていた。

指先は細く、動きは遅い。

顔色は悪く、目の下には濃い影がある。

だが、授業中に見せた説明は、少なくとも破綻していなかった。

 

怖がるな、とは言っていない。

恐怖を消せ、とも言っていない。

怖がったまま、基本を崩すなと言っていた。

 

聞く価値はある。

 

エリアスは椅子を引いた。

 

ザビニが背後で足を止める気配がした。

 

「またか」

「質問するだけだ」

「箒の時もそう言って、授業の翌日に備品を借りに行っただろ」

 

ケイが目を丸くした。

 

「借りに行ったの?」

「手続きは確認した」

 

エリアスは答えた。

 

ザビニが楽しそうに口元を歪める。

 

「で、断られた」

「一年課程を終えるまでは、授業外使用は原則不可だった」

「そこまで正確に覚えてるのが怖いんだよ」

 

ロウルが静かに言った。

 

「当然です。学校備品ですから」

「ロウルが言うと、断った側みたいに聞こえるな」

「断るべき場面では断ります」

 

ケイは少し困った顔で、エリアスを見た。

 

「今度は、断られないといいね」

「質問は備品ではない」

「そういう返し、余計に心配になるんだけど」

 

ザビニの小さな笑いを背中に聞きながら、教卓の前で止まる。

 

「クィレル先生」

 

クィレル教授は、羊皮紙を重ねる手を止めた。

紙の端がずれ、乾いた音を立てる。

 

「な、何かな、ミスター・レン」

 

声は細い。

吃音もある。

だが、肩は強張っていない。

指先は紙を押さえたまま止まり、呼吸だけが少し浅くなった。

 

「恐怖は、魔法の発動を乱すとおっしゃいました」

「え、ええ。判断も、発声も、杖の動きも、乱れます」

「では、精神状態を意図的に整えれば、杖の応答は安定しますか」

 

クィレル教授はすぐには答えなかった。

 

紙を押さえる指が、ほんの少しだけ曲がる。

視線はエリアスの顔から、机に置かれた月桂樹の杖のあたりへ落ち、また戻った。

 

「……そ、それは、難しい質問ですね」

「授業後に、質問へ伺っても構いませんか」

「わ、私の研究室へ、ですか」

「はい。声と杖先の遅れを、もう少し分けたい」

 

ザビニが背後で、音を立てずに息を吐いた。

ロウルの視線もこちらへ向いている。

ケイは鞄の留め具に指をかけたまま、動かなかった。

 

クィレル教授は、羊皮紙の束を揃え直した。

紙の端が、こすれて小さく鳴る。

 

「危険な実技はしませんよ」

「今は望んでいません」

「……今は、ですか」

 

その一言だけ、吃音が薄かった。

 

クィレル教授はまぶたを一度閉じ、すぐ開いた。

 

「よ、よいでしょう。質問だけなら。今日の夕食後に来なさい」

「ありがとうございます」

 

エリアスが下がると、ザビニが待っていたように横へ並んだ。

 

「今は望んでいません、ね」

「事実だ」

「その口調、教師相手に使うなよ」

 

ロウルは口を挟まなかった。

だが、袖口を整える指が少し強い。

ケイは小さな声で言った。

 

「レンって、教師に近づくの、怖くないの?」

「怖いかどうかより、聞く必要がある」

「それが怖いから難しいって話なんだけど」

 

ザビニは笑ったが、教卓の方へ一度だけ目を向けた。

クィレル教授は、もう別の羊皮紙へ視線を落としている。

だが、紙を押さえる指だけが、まだ少し止まっていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

夕食後、防衛術教授の研究室へ向かう廊下は、授業中の教室より静かだった。

 

窓の外はすでに暗く、城の石壁は昼より冷えている。

遠くの階段で誰かの足音がしたが、すぐに曲がり角の向こうへ消えた。

松明の火が石に揺れ、影が細く伸びる。

 

扉の前で、ニンニクの匂いが少しだけ強くなった。

教室ほど濃くはない。

乾いた薬草と、古い布。

その奥に、名前のつかない薄い不快感が混じっている。

 

扉を叩くと、中から細い声が返った。

 

「ど、どうぞ」

 

研究室は広くなかった。

 

壁際には本棚があり、防衛術の本が斜めに詰め込まれている。

表紙の傷んだもの。

羊皮紙が挟まったもの。

背表紙が読めないほど古いもの。

本の間には、乾いた薬草の束がいくつか押し込まれていた。

机の上には丸めた羊皮紙、小さな銀の皿、封の切られたインク瓶、古い布が置かれている。

 

窓は細く、夕方の光はほとんど入らない。

ランプの明かりが机の上だけを照らしていた。

部屋の隅は暗い。

 

ターバンの匂いは、教室ほど強くない。

それでも、クィレル教授に近い場所ほど、ニンニクと薬草が厚くなる。

隠すための匂い。

あるいは、近づけないための匂い。

 

エリアスは、そこまでを分類して、それ以上は止めた。

 

クィレル教授は机の向こうに座っていた。

紫のターバンは授業中と同じ。

顔色は悪い。

だが、教室の前で立っていた時より、声の乱れは少なかった。

 

「ミ、ミスター・レン。か、掛けなさい」

 

椅子は一脚だけ用意されていた。

 

座る前に、机の上を見る。

危険物は見当たらない。

杖を抜く必要がある距離でもない。

本棚との距離。

扉までの歩数。

窓の位置。

机の上の銀皿は空。

羊皮紙の端に書かれた文字は、近くからでは読めない。

 

確認してから腰を下ろす。

 

クィレル教授はそれを見ていた。

咎める様子はない。

ただ、視線が一度だけ扉と椅子の間を追った。

 

「君は、用心深いですね」

「知らない部屋ですから」

「よ、よいことです。防衛術では、最初に見るべきものは、相手の杖だけではありません」

 

その言い方には、授業での弱々しさとは別の硬さがあった。

怯えた教師が、教科書をなぞっているだけではない。

そう聞こえる瞬間がある。

 

「今日の授業でおっしゃっていたことですが」

「はい」

「恐怖が残ったままでも、杖先だけを動かすことはできますか」

 

クィレル教授の指が、机の端を一度だけ撫でた。

木の表面に、爪の先が細く当たる。

 

「できます。少なくとも、目指すべきです」

「消すのではなく」

「消せません」

 

短い答えだった。

 

すぐに細い声が続く。

 

「消したつもりでも、体には出ます。息が止まる。手に力が入る。視線が逸れる。足が動かない。声が詰まる。そこを、見るのです」

「どこに出るかを見る」

「ええ」

 

クィレル教授は小さく頷いた。

 

「怯えた時、何が最初に崩れるかは、人によって違います。声の者もいる。手の者もいる。足の者もいる。判断が先に落ちる者もいる」

 

授業の説明より、少し具体的だった。

教科書を読む声ではない。

少なくとも、どこかで見たか、経験したか、繰り返し考えた者の言い方に近い。

 

「杖先の反応が鈍る場合は」

 

クィレル教授の目が、こちらの手元へ落ちる。

 

「杖先が、鈍る?」

「同じ発音。同じ動き。同じ魔力の流れ。そのはずなのに、発動が半拍ずれることがあります」

「それを、怯えのせいだと?」

「それだけではありません。苛立ち、緊張、焦り、期待。余計なものが混ざった時、杖先の返りがずれる」

 

月桂樹の杖は、膝の上に置いてある。

指を触れさせると、木肌は静かだった。

 

「僕は、杖に振り回されるのが嫌いです」

 

クィレル教授はすぐに答えなかった。

 

ターバンの影で、目の下のくぼみが濃く見える。

机の上の銀皿に、ランプの光が細く反射していた。

遠くの廊下で、足音が一つ通り過ぎる。

その音が消えても、クィレル教授はまだ黙っていた。

 

「多くの生徒は、杖に助けられています」

「知っています」

「杖は、ただの棒ではありません」

「それも知っています」

「なら、なぜ嫌うのですか」

「嫌っているわけではありません」

 

違う。

 

嫌ってはいない。

だが、信用もしていない。

いや、それもまだ違う。

 

信用したいのなら、なおさら、条件を知る必要がある。

 

「原因が取り出せないのが不快です」

 

クィレル教授の口元が、ほんのわずかに動いた。

笑ったのか、息が漏れただけか、分からない。

 

「君は、珍しいところを気にしますね」

「気にするべきところです」

「そうかもしれません」

 

今度の声は、少しだけ薄くなった。

吃音の奥にあった震えが、一拍だけ消えていた。

 

「危機の中で、まず守るべきものは三つです。声。視線。杖先。声が止まれば呪文は出ない。視線が逃げれば狙いが逸れる。杖先が落ちれば、魔法は別の場所へ行く」

 

クィレル教授は自分の杖を取り出さなかった。

指だけで、机の上に小さな線を描くように動かす。

 

「心を完全に整える必要はありません。完全な平静など、危機の中では役に立たないこともあります」

「平静が役に立たない?」

「平静を作ろうとする間に、相手は動きます」

 

エリアスは、膝の上の杖へ指を触れさせた。

 

完全な制御。

完全な条件。

完全な準備。

 

それらを待てない場面がある。

トロールでも、闇の魔法使いでも、相手が待ってくれるとは限らない。

その前に、声が出るか。

手が落ちないか。

視線が逃げないか。

 

クィレル教授の声は、また細くなる。

 

「ですから、残ったまま動く。怖いまま、息をする。手が冷えても、杖を落とさない。声が震えても、止めない」

 

エリアスは羊皮紙に短く書いた。

 

声。

視線。

杖先。

残ったまま動く。

 

クィレル教授は、その文字を見ていた。

 

「君は、記録の仕方も変わっていますね」

「書くのは必要な単語だけで充分です」

「長い説明は不要ですか」

「後で増やせます」

「……なるほど」

 

その沈黙のあと、彼はゆっくり椅子へ背を預けた。

椅子の脚が、床石をかすかに鳴らす。

 

「今日はここまでにしましょう。初回から詰め込みすぎても、よくありません」

「また来ても構いませんか」

「き、君が危険な実技を望まないなら」

「望むかどうかは、内容によります」

 

クィレル教授の瞬きが、一つ遅れた。

 

「……そこは、望まないと言ってほしいですね」

 

エリアスは少しだけ考えた。

 

「では、今日は望みません」

「今日は、ですか」

「はい」

 

クィレル教授は、今度こそ小さく笑ったように見えた。

だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「質問なら、また来なさい。授業の妨げにならない範囲で」

「ありがとうございます」

 

椅子から立つ。

 

扉へ向かう時、背中に視線が残っていた。

振り返らない。

 

廊下へ出ると、ニンニクと薬草の匂いが薄くなる。

だが、羊皮紙に書いた四つの単語は、指先に残っていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

九月が終わるまでに、エリアスは何度かクィレル教授の研究室を訪ねた。

 

話題はいつも、恐怖そのものではなかった。

 

音に驚いた時、声はどこで詰まるのか。

視線が逸れる時、杖先も同時に落ちるのか。

手に力が入りすぎた時、発動は強くなるのか、それとも鈍るのか。

意志が途切れる前に、体は何を知らせるのか。

 

クィレル教授は、派手な呪文を教えなかった。

危険な実技もさせなかった。

ただ、姿勢、発声、視線、手元の話をした。

 

細い声。

ときおり混じる吃音。

授業より少しだけ安定した説明。

 

それでも、彼自身の呼吸と声は、やはりどこか噛み合っていなかった。

そして、その違和感は魔力の流れにも重なっているように思えた。

 

十月に入る頃には、授業後や夕食前の短い時間に、研究室へ向かうことも増えていた。

 

廊下の空気は少し冷たくなった。

朝晩の石壁は湿り、窓の外の光も早く薄くなる。

 

クィレル教授の研究室を出た帰り、エリアスは羊皮紙を丸めながら扉を閉めた。

 

その時、廊下の先に銀色の髭が見えた。

 

ダンブルドア校長が、そこに立っていた。

 

半月型の眼鏡。

長い銀の髭。

深い色のローブ。

手には、何も持っていない。

 

立ち止まっていた。

ただ歩いてきた者の止まり方ではなかった。

 

ダンブルドアは穏やかに微笑んだ。

 

「こんばんは、ミスター・レン」

「こんばんは、校長先生」

「クィレル先生のところへ、よく質問に行っているそうじゃのう」

 

穏やかな声だった。

廊下の冷えた空気に、柔らかく落ちる。

 

「何度か」

「学ぶ意欲があるのは、たいへんよいことじゃ」

 

ダンブルドアはゆっくり近づいてきた。

足音は軽い。

しかし、距離は確実に縮まる。

 

「何を学んでおるのかな」

「魔法が乱れる理由です」

「ほう。恐怖ではなく?」

「恐怖は理由の一つです。知りたいのは、杖がどこで遅れるかです」

 

ダンブルドアの目が、半月型眼鏡の奥で細く光った。

 

「杖が遅れる、とな」

「はい」

「面白い言い方をする」

 

声は柔らかい。

だが、青い目だけは笑いきっていないように見えた。

 

「クィレル先生は、その答えを持っておるかね」

「一部は」

「一部」

 

ダンブルドアは、楽しそうに繰り返した。

 

「では、残りはどこにあると思う?」

「まだ分かりません」

「分からないことを分からないと言えるのは、大事なことじゃ」

 

好々爺の笑み。

柔らかい声。

しかし、問いの置き方は柔らかくない。

 

答えを褒めているのではない。

次にどこを探すのかを見ている。

 

「クィレル先生の授業は、役に立っておるかな」

「はい」

「それは重畳」

 

ダンブルドアは足を止めた。

近すぎはしない。

だが、すれ違うには近い距離だった。

 

「ただ、知識というものは、たいそう扱いが難しい。何を学んでいるのかを、時々確かめた方がよい」

「誰がですか」

「君自身が、じゃ」

 

半月型の眼鏡の奥で、青い目がきらきらと光っていた。

 

その目を見た瞬間、眉がわずかに動いた。

 

頭の奥ではない。

もっと浅い。

考えの表面に、他人の指先が触れたような感覚があった。

 

痛みはない。

声も出ない。

ただ、不快だった。

 

エリアスは視線を外さなかった。

 

ここで逸らせば、動きになる。

だから、止める。

 

呼吸が薄くなる。

余計な言葉が浮かぶ前に、喉の奥で止める。

 

考えるのではなく、目の前にあるものだけを拾う。

 

青い目。

半月型の眼鏡。

銀色の髭。

廊下の冷えた空気。

 

ダンブルドアの笑みは変わらなかった。

 

「学ぶことはよいことじゃ、ミスター・レン」

「はい」

「じゃが、学びは時に、こちらを思わぬ場所へ連れて行く。足元を見ることを忘れてはいかんよ」

「気をつけます」

「それでよい」

 

ダンブルドアは微笑んだまま、半歩下がった。

 

「では、夕食に遅れぬようにな」

「はい」

 

銀色の髭が廊下の奥へ遠ざかっていく。

 

足音は軽い。

すぐに、冷えた廊下の空気へ溶けた。

 

エリアスは、しばらくその背を見ていた。

 

顔でもない。

ローブでもない。

持ち物でもない。

 

もっと浅い場所を、指先で撫でられたような感触だけが残っている。

 

意味は分からない。

だが、次にあの青い目を見る時は、余計なことを考えない方がいい。

 

そう判断した。

 

廊下には、クィレル教授の研究室から漏れたニンニクと薬草の匂いが、まだ薄く残っていた。

 

エリアスは羊皮紙を握り直し、夕食へ向かった。

 

 

 

 

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