防衛術の授業が終わったあとも、教室には匂いが残っていた。
ニンニク。
乾いた薬草。
古い布。
窓は開いているはずなのに、空気はすぐには動かない。
机の間を抜けていく生徒たちのローブが、その匂いを薄くかき混ぜるだけだった。
黒板には、クィレル教授の細い字が残っている。
恐怖。
発声。
杖の動き。
呪文失敗。
白いチョークの線は、ところどころ震えていた。
筆跡そのものが怯えているわけではない。
ただ、線の揺れは、書いた手が常に一定だったとは思わせなかった。
生徒たちは椅子を鳴らしながら立ち上がり、教科書や羽根ペンを鞄へ戻していた。
誰かが鼻を押さえる。
別の生徒は、黒板を見ないまま足早に扉へ向かった。
スリザリンの列は、いつもより少し早く教室から流れ出ていく。
ニンニクと薬草の匂いは、教室に残ったままだった。
ケイは教科書を胸の前に抱え、扉の方へ何度か目を向けた。
ロウルは羊皮紙をきれいに揃え、黒板の文字をもう一度見てから鞄へ入れる。
ザビニは立ち上がりながら、机の上に落ちていた乾いた薬草の欠片を指先で避けた。
「今日は鼻が疲れる授業だったな」
「内容は筋が通っていました」
ロウルが返す。
声はいつも通り整っていたが、息はわずかに浅い。
「筋が通ってても臭いものは臭いだろ」
「それは否定しません」
ケイが小さく頷いた。
「……防衛術って、もっと呪文を撃つ授業だと思ってた」
「それはこれからでしょう」
ロウルはそう言って、黒板の文字をもう一度見た。
恐怖時の反応。
杖の動き。
呪文失敗。
派手な呪文より先に、そこを見せた授業だった。
エリアスは、まだ席を立たなかった。
恐怖すると、声が震える。
息が浅くなる。
杖を握りしめる。
狙いがぶれる。
それだけなら、普通の身体反応だ。
人間の体は驚けば縮む。
痛みや危険を前にすれば、息が乱れ、手がこわばる。
問題は、その揺れが杖の応答へどこまで届くかだった。
発音が崩れるのか。
杖先が鈍るのか。
意図が切れるのか。
魔力の流れが痩せるのか。
呪文学で感じた半拍の遅れ。
Lumosの光が、同じ条件のはずなのに揺れた不快感。
その原因を、感情という曖昧な箱へ入れたくはなかった。
恐怖を消したいわけではない。
怖がらない人間になりたいわけでもない。
魔法のどこが乱れるのか。
杖は、どの瞬間に遅れるのか。
それが知りたかった。
クィレル教授は教卓の上で羊皮紙をまとめていた。
指先は細く、動きは遅い。
顔色は悪く、目の下には濃い影がある。
だが、授業中に見せた説明は、少なくとも破綻していなかった。
怖がるな、とは言っていない。
恐怖を消せ、とも言っていない。
怖がったまま、基本を崩すなと言っていた。
聞く価値はある。
エリアスは椅子を引いた。
ザビニが背後で足を止める気配がした。
「またか」
「質問するだけだ」
「箒の時もそう言って、授業の翌日に備品を借りに行っただろ」
ケイが目を丸くした。
「借りに行ったの?」
「手続きは確認した」
エリアスは答えた。
ザビニが楽しそうに口元を歪める。
「で、断られた」
「一年課程を終えるまでは、授業外使用は原則不可だった」
「そこまで正確に覚えてるのが怖いんだよ」
ロウルが静かに言った。
「当然です。学校備品ですから」
「ロウルが言うと、断った側みたいに聞こえるな」
「断るべき場面では断ります」
ケイは少し困った顔で、エリアスを見た。
「今度は、断られないといいね」
「質問は備品ではない」
「そういう返し、余計に心配になるんだけど」
ザビニの小さな笑いを背中に聞きながら、教卓の前で止まる。
「クィレル先生」
クィレル教授は、羊皮紙を重ねる手を止めた。
紙の端がずれ、乾いた音を立てる。
「な、何かな、ミスター・レン」
声は細い。
吃音もある。
だが、肩は強張っていない。
指先は紙を押さえたまま止まり、呼吸だけが少し浅くなった。
「恐怖は、魔法の発動を乱すとおっしゃいました」
「え、ええ。判断も、発声も、杖の動きも、乱れます」
「では、精神状態を意図的に整えれば、杖の応答は安定しますか」
クィレル教授はすぐには答えなかった。
紙を押さえる指が、ほんの少しだけ曲がる。
視線はエリアスの顔から、机に置かれた月桂樹の杖のあたりへ落ち、また戻った。
「……そ、それは、難しい質問ですね」
「授業後に、質問へ伺っても構いませんか」
「わ、私の研究室へ、ですか」
「はい。声と杖先の遅れを、もう少し分けたい」
ザビニが背後で、音を立てずに息を吐いた。
ロウルの視線もこちらへ向いている。
ケイは鞄の留め具に指をかけたまま、動かなかった。
クィレル教授は、羊皮紙の束を揃え直した。
紙の端が、こすれて小さく鳴る。
「危険な実技はしませんよ」
「今は望んでいません」
「……今は、ですか」
その一言だけ、吃音が薄かった。
クィレル教授はまぶたを一度閉じ、すぐ開いた。
「よ、よいでしょう。質問だけなら。今日の夕食後に来なさい」
「ありがとうございます」
エリアスが下がると、ザビニが待っていたように横へ並んだ。
「今は望んでいません、ね」
「事実だ」
「その口調、教師相手に使うなよ」
ロウルは口を挟まなかった。
だが、袖口を整える指が少し強い。
ケイは小さな声で言った。
「レンって、教師に近づくの、怖くないの?」
「怖いかどうかより、聞く必要がある」
「それが怖いから難しいって話なんだけど」
ザビニは笑ったが、教卓の方へ一度だけ目を向けた。
クィレル教授は、もう別の羊皮紙へ視線を落としている。
だが、紙を押さえる指だけが、まだ少し止まっていた。
夕食後、防衛術教授の研究室へ向かう廊下は、授業中の教室より静かだった。
窓の外はすでに暗く、城の石壁は昼より冷えている。
遠くの階段で誰かの足音がしたが、すぐに曲がり角の向こうへ消えた。
松明の火が石に揺れ、影が細く伸びる。
扉の前で、ニンニクの匂いが少しだけ強くなった。
教室ほど濃くはない。
乾いた薬草と、古い布。
その奥に、名前のつかない薄い不快感が混じっている。
扉を叩くと、中から細い声が返った。
「ど、どうぞ」
研究室は広くなかった。
壁際には本棚があり、防衛術の本が斜めに詰め込まれている。
表紙の傷んだもの。
羊皮紙が挟まったもの。
背表紙が読めないほど古いもの。
本の間には、乾いた薬草の束がいくつか押し込まれていた。
机の上には丸めた羊皮紙、小さな銀の皿、封の切られたインク瓶、古い布が置かれている。
窓は細く、夕方の光はほとんど入らない。
ランプの明かりが机の上だけを照らしていた。
部屋の隅は暗い。
ターバンの匂いは、教室ほど強くない。
それでも、クィレル教授に近い場所ほど、ニンニクと薬草が厚くなる。
隠すための匂い。
あるいは、近づけないための匂い。
エリアスは、そこまでを分類して、それ以上は止めた。
クィレル教授は机の向こうに座っていた。
紫のターバンは授業中と同じ。
顔色は悪い。
だが、教室の前で立っていた時より、声の乱れは少なかった。
「ミ、ミスター・レン。か、掛けなさい」
椅子は一脚だけ用意されていた。
座る前に、机の上を見る。
危険物は見当たらない。
杖を抜く必要がある距離でもない。
本棚との距離。
扉までの歩数。
窓の位置。
机の上の銀皿は空。
羊皮紙の端に書かれた文字は、近くからでは読めない。
確認してから腰を下ろす。
クィレル教授はそれを見ていた。
咎める様子はない。
ただ、視線が一度だけ扉と椅子の間を追った。
「君は、用心深いですね」
「知らない部屋ですから」
「よ、よいことです。防衛術では、最初に見るべきものは、相手の杖だけではありません」
その言い方には、授業での弱々しさとは別の硬さがあった。
怯えた教師が、教科書をなぞっているだけではない。
そう聞こえる瞬間がある。
「今日の授業でおっしゃっていたことですが」
「はい」
「恐怖が残ったままでも、杖先だけを動かすことはできますか」
クィレル教授の指が、机の端を一度だけ撫でた。
木の表面に、爪の先が細く当たる。
「できます。少なくとも、目指すべきです」
「消すのではなく」
「消せません」
短い答えだった。
すぐに細い声が続く。
「消したつもりでも、体には出ます。息が止まる。手に力が入る。視線が逸れる。足が動かない。声が詰まる。そこを、見るのです」
「どこに出るかを見る」
「ええ」
クィレル教授は小さく頷いた。
「怯えた時、何が最初に崩れるかは、人によって違います。声の者もいる。手の者もいる。足の者もいる。判断が先に落ちる者もいる」
授業の説明より、少し具体的だった。
教科書を読む声ではない。
少なくとも、どこかで見たか、経験したか、繰り返し考えた者の言い方に近い。
「杖先の反応が鈍る場合は」
クィレル教授の目が、こちらの手元へ落ちる。
「杖先が、鈍る?」
「同じ発音。同じ動き。同じ魔力の流れ。そのはずなのに、発動が半拍ずれることがあります」
「それを、怯えのせいだと?」
「それだけではありません。苛立ち、緊張、焦り、期待。余計なものが混ざった時、杖先の返りがずれる」
月桂樹の杖は、膝の上に置いてある。
指を触れさせると、木肌は静かだった。
「僕は、杖に振り回されるのが嫌いです」
クィレル教授はすぐに答えなかった。
ターバンの影で、目の下のくぼみが濃く見える。
机の上の銀皿に、ランプの光が細く反射していた。
遠くの廊下で、足音が一つ通り過ぎる。
その音が消えても、クィレル教授はまだ黙っていた。
「多くの生徒は、杖に助けられています」
「知っています」
「杖は、ただの棒ではありません」
「それも知っています」
「なら、なぜ嫌うのですか」
「嫌っているわけではありません」
違う。
嫌ってはいない。
だが、信用もしていない。
いや、それもまだ違う。
信用したいのなら、なおさら、条件を知る必要がある。
「原因が取り出せないのが不快です」
クィレル教授の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのか、息が漏れただけか、分からない。
「君は、珍しいところを気にしますね」
「気にするべきところです」
「そうかもしれません」
今度の声は、少しだけ薄くなった。
吃音の奥にあった震えが、一拍だけ消えていた。
「危機の中で、まず守るべきものは三つです。声。視線。杖先。声が止まれば呪文は出ない。視線が逃げれば狙いが逸れる。杖先が落ちれば、魔法は別の場所へ行く」
クィレル教授は自分の杖を取り出さなかった。
指だけで、机の上に小さな線を描くように動かす。
「心を完全に整える必要はありません。完全な平静など、危機の中では役に立たないこともあります」
「平静が役に立たない?」
「平静を作ろうとする間に、相手は動きます」
エリアスは、膝の上の杖へ指を触れさせた。
完全な制御。
完全な条件。
完全な準備。
それらを待てない場面がある。
トロールでも、闇の魔法使いでも、相手が待ってくれるとは限らない。
その前に、声が出るか。
手が落ちないか。
視線が逃げないか。
クィレル教授の声は、また細くなる。
「ですから、残ったまま動く。怖いまま、息をする。手が冷えても、杖を落とさない。声が震えても、止めない」
エリアスは羊皮紙に短く書いた。
声。
視線。
杖先。
残ったまま動く。
クィレル教授は、その文字を見ていた。
「君は、記録の仕方も変わっていますね」
「書くのは必要な単語だけで充分です」
「長い説明は不要ですか」
「後で増やせます」
「……なるほど」
その沈黙のあと、彼はゆっくり椅子へ背を預けた。
椅子の脚が、床石をかすかに鳴らす。
「今日はここまでにしましょう。初回から詰め込みすぎても、よくありません」
「また来ても構いませんか」
「き、君が危険な実技を望まないなら」
「望むかどうかは、内容によります」
クィレル教授の瞬きが、一つ遅れた。
「……そこは、望まないと言ってほしいですね」
エリアスは少しだけ考えた。
「では、今日は望みません」
「今日は、ですか」
「はい」
クィレル教授は、今度こそ小さく笑ったように見えた。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「質問なら、また来なさい。授業の妨げにならない範囲で」
「ありがとうございます」
椅子から立つ。
扉へ向かう時、背中に視線が残っていた。
振り返らない。
廊下へ出ると、ニンニクと薬草の匂いが薄くなる。
だが、羊皮紙に書いた四つの単語は、指先に残っていた。
九月が終わるまでに、エリアスは何度かクィレル教授の研究室を訪ねた。
話題はいつも、恐怖そのものではなかった。
音に驚いた時、声はどこで詰まるのか。
視線が逸れる時、杖先も同時に落ちるのか。
手に力が入りすぎた時、発動は強くなるのか、それとも鈍るのか。
意志が途切れる前に、体は何を知らせるのか。
クィレル教授は、派手な呪文を教えなかった。
危険な実技もさせなかった。
ただ、姿勢、発声、視線、手元の話をした。
細い声。
ときおり混じる吃音。
授業より少しだけ安定した説明。
それでも、彼自身の呼吸と声は、やはりどこか噛み合っていなかった。
そして、その違和感は魔力の流れにも重なっているように思えた。
十月に入る頃には、授業後や夕食前の短い時間に、研究室へ向かうことも増えていた。
廊下の空気は少し冷たくなった。
朝晩の石壁は湿り、窓の外の光も早く薄くなる。
クィレル教授の研究室を出た帰り、エリアスは羊皮紙を丸めながら扉を閉めた。
その時、廊下の先に銀色の髭が見えた。
ダンブルドア校長が、そこに立っていた。
半月型の眼鏡。
長い銀の髭。
深い色のローブ。
手には、何も持っていない。
立ち止まっていた。
ただ歩いてきた者の止まり方ではなかった。
ダンブルドアは穏やかに微笑んだ。
「こんばんは、ミスター・レン」
「こんばんは、校長先生」
「クィレル先生のところへ、よく質問に行っているそうじゃのう」
穏やかな声だった。
廊下の冷えた空気に、柔らかく落ちる。
「何度か」
「学ぶ意欲があるのは、たいへんよいことじゃ」
ダンブルドアはゆっくり近づいてきた。
足音は軽い。
しかし、距離は確実に縮まる。
「何を学んでおるのかな」
「魔法が乱れる理由です」
「ほう。恐怖ではなく?」
「恐怖は理由の一つです。知りたいのは、杖がどこで遅れるかです」
ダンブルドアの目が、半月型眼鏡の奥で細く光った。
「杖が遅れる、とな」
「はい」
「面白い言い方をする」
声は柔らかい。
だが、青い目だけは笑いきっていないように見えた。
「クィレル先生は、その答えを持っておるかね」
「一部は」
「一部」
ダンブルドアは、楽しそうに繰り返した。
「では、残りはどこにあると思う?」
「まだ分かりません」
「分からないことを分からないと言えるのは、大事なことじゃ」
好々爺の笑み。
柔らかい声。
しかし、問いの置き方は柔らかくない。
答えを褒めているのではない。
次にどこを探すのかを見ている。
「クィレル先生の授業は、役に立っておるかな」
「はい」
「それは重畳」
ダンブルドアは足を止めた。
近すぎはしない。
だが、すれ違うには近い距離だった。
「ただ、知識というものは、たいそう扱いが難しい。何を学んでいるのかを、時々確かめた方がよい」
「誰がですか」
「君自身が、じゃ」
半月型の眼鏡の奥で、青い目がきらきらと光っていた。
その目を見た瞬間、眉がわずかに動いた。
頭の奥ではない。
もっと浅い。
考えの表面に、他人の指先が触れたような感覚があった。
痛みはない。
声も出ない。
ただ、不快だった。
エリアスは視線を外さなかった。
ここで逸らせば、動きになる。
だから、止める。
呼吸が薄くなる。
余計な言葉が浮かぶ前に、喉の奥で止める。
考えるのではなく、目の前にあるものだけを拾う。
青い目。
半月型の眼鏡。
銀色の髭。
廊下の冷えた空気。
ダンブルドアの笑みは変わらなかった。
「学ぶことはよいことじゃ、ミスター・レン」
「はい」
「じゃが、学びは時に、こちらを思わぬ場所へ連れて行く。足元を見ることを忘れてはいかんよ」
「気をつけます」
「それでよい」
ダンブルドアは微笑んだまま、半歩下がった。
「では、夕食に遅れぬようにな」
「はい」
銀色の髭が廊下の奥へ遠ざかっていく。
足音は軽い。
すぐに、冷えた廊下の空気へ溶けた。
エリアスは、しばらくその背を見ていた。
顔でもない。
ローブでもない。
持ち物でもない。
もっと浅い場所を、指先で撫でられたような感触だけが残っている。
意味は分からない。
だが、次にあの青い目を見る時は、余計なことを考えない方がいい。
そう判断した。
廊下には、クィレル教授の研究室から漏れたニンニクと薬草の匂いが、まだ薄く残っていた。
エリアスは羊皮紙を握り直し、夕食へ向かった。