十月三十一日の夕方。
飛行訓練を終えたスリザリンの一年生たちは、校庭から城へ戻っていた。
外の空気は冷えている。
ローブの裾が風に揺れ、石段を上がる靴音が少しだけ軽い。
遠くの窓はもう暗く、城の中からは大広間へ向かう生徒たちの声が流れてきていた。
ハロウィーンの晩餐会。
その言葉だけで、廊下の声はいつもより少し高くなる。
どこかで誰かが、今夜は南瓜パイが出るらしい、と言っている。
別の誰かが、去年の幽霊の余興がどうだったかを話していた。
エリアスは、右手の指を一度だけ握り直した。
箒の革の感触はもうない。
だが、指先にはまだ、あの反発が残っている。
学校備品のシューティング・スターは古い。
反応は遅い。
速度を上げると、柄の奥から細かな震えが返ってくる。
穂先の曲がった個体は、旋回の時にわずかに外へ流れる。
遅れる。
流れる。
震える。
だから、補正できる。
「まだ飛んでる顔してるぞ」
ザビニが隣で言った。
「歩いている」
「そういう意味じゃないっての」
ザビニは軽く笑い、エリアスの右手へ視線を落とした。
「ポッターと飛んだの、そんなに面白かったか?」
「勝敗は比較条件の一部にすぎない」
「勝ったか負けたか聞いてないんだよ」
「ニンバス2000は応答が違った」
「ほら、戻った」
ザビニが肩を揺らす。
ケイは少し遅れて笑った。
声には出さない。
けれど、袖を握る手の力が少しだけ緩んでいる。
ロウルが後ろから静かに言った。
「大広間へ入る前に、羊皮紙はしまってくださいね」
「まだ出していない」
「出そうとしていました」
「記録すべき差分が多かっただけだ」
「食事中に記録する必要はありません」
ザビニが笑う。
ロウルも、ほんの少しだけ口元を動かした。
廊下の先から、さらに大きなざわめきが聞こえた。
大広間は、いつもの大広間ではなかった。
扉をくぐった瞬間、熱と光と甘い匂いが押し寄せてきた。
天井には、夜空が広がっている。
その下を、無数のコウモリが飛び回っていた。
本物のコウモリだ。
黒い羽が蝋燭の光を横切り、時々、生徒たちの頭上すれすれをかすめていく。
壁際には巨大なジャック・オー・ランタンがいくつも並び、くり抜かれた目と口から橙色の光が漏れていた。
浮遊するカボチャ灯が、長卓の上をゆっくり漂っている。
オレンジ色の飾り紐が梁から垂れ、蝋燭の炎が空気の流れに合わせて揺れていた。
誰かが歓声を上げる。
別の生徒が、飛んできたコウモリに肩をすくめる。
グリフィンドールの卓からは、もう笑い声が上がっていた。
エリアスは、頭上のコウモリを見た。
ぶつかりそうで、ぶつからない。
群れは乱れているように見える。
だが、個体同士の距離は奇妙に保たれている。
浮遊するカボチャ灯も、同じ高さでわずかに揺れながら、長卓の邪魔にならない位置を保っている。
制御がある。
ただの浮遊ではない。
それ以上は口にしなかった。
隣でザビニが、こちらを見てから何も言わずに肩をすくめた。
ケイは素直に天井を見上げていた。
袖を握る手が緩み、目が蝋燭の光を追っている。
「すごいね。あれ、ぶつからないんだ」
「ぶつからないようにしているのでしょう」
ロウルが答える。
ザビニは席に着きながら、カボチャ灯を一つ目で追った。
「まあ、今日くらいは楽しめばいいんじゃないか」
「君がそれを言うのですか」
ロウルが言う。
「俺はいつも楽しんでるだろ」
「節度は必要です」
「ハロウィーンに節度って言葉、似合わないな」
スリザリンの卓にも、いつもより柔らかいざわめきがあった。
普段なら声を落とすような生徒も、今日は少しだけ口数が多い。
純血の家で見た晩餐の話をする者。
去年の飾り付けを覚えている者。
初めて見るマグル育ちの生徒を横目で見る者。
エリアスが席に着くと、長卓の上は次々と料理で満たされていった。
焼いた肉。
つやのあるソース。
カボチャを使った料理。
香草の匂い。
湯気。
温められた皿の白さ。
杯の触れ合う音。
生徒たちの歓声がもう一度上がる。
ケイは皿の上の料理と長卓を見比べるように視線を動かした。
「これは、すごいね」
「語彙が減ってるぞ」
ザビニがからかう。
「だって、すごいでしょ」
「否定はしない」
ロウルの皿は、肉も付け合わせも過不足なく収まっていた。
ケイはそれを見て、自分の皿へ盛ったカボチャを少し戻していた。
エリアスは肉を切りながら、羊皮紙を出しかけた。
ロウルの視線が、すぐに飛んでくる。
「食事中です」
「食べている」
「羽根ペンを持ちながら食べることを、普通は食事とは言いません」
エリアスは羽根ペンを置いた。
「後で書く」
「そうしてください」
ザビニが小さく拍手する。
「ロウルの勝ち」
「やめてください」
皿の上の肉は柔らかかった。
甘いソースが少し強い。
カボチャの料理は、口の中でほぐれる。
近くの席では、誰かが糖蜜のかかった菓子をもう二つ目に伸ばしていた。
杯が触れ合う。
椅子が床を鳴らす。
笑い声が長卓の上を行き交い、フォークが皿に当たる音に混じる。
頭上ではコウモリの羽音が軽く、浮遊カボチャの中で蝋燭が小さく燃えていた。
しばらくの間、廊下の冷えも、午後の訓練の疲れも、遠くへ退いていた。
食事が進むにつれて、催し物が始まった。
幽霊たちが、長卓の間を抜けていく。
半透明の体が、蝋燭の光を淡く透かした。
何人かの幽霊は、天井近くまで上がり、コウモリの群れを避けるように旋回する。
一体が急に沈む。
別の幽霊がその上を通る。
三体が輪を作り、すり抜けるように交差した。
生徒たちから歓声が上がる。
幽霊の一体が近くを通った時、ケイは肩をすくめて笑った。
すぐに背筋を戻し、何事もなかったようにフォークを持ち直す。
ザビニはその横顔を見て、口元だけを動かした。
だが、何も言わずにタルトの残りへ手を伸ばす。
ロウルはそれを見て、静かに眉を動かした。
「それで三つ目です」
「数えてたのか」
「見えます」
「祝祭だぞ」
「それでも体は祝祭を理解しません」
ザビニは笑いながら、三つ目を半分に割った。
「じゃあ半分にしておく」
頭上でコウモリが大きく回り、カボチャ灯が一斉に少しだけ高く浮いた。
大広間の奥から、また歓声が上がる。
長卓のあちこちで顔が上がる。
笑い声が重なり、怖がる声さえ、すぐに隣の笑いへ混じった。
その直後、デザートが現れた。
ジャムタルト。
カボチャ菓子。
ケーキ。
糖蜜。
赤い果実のソース。
甘い匂いが、肉と香草の匂いを押し流す。
皿が現れる小さな音が、長卓のあちこちで重なる。
生徒たちの声がさらに上がった。
ザビニが早速タルトへ手を伸ばす。
「これはいいな」
「食べ過ぎないように」
ロウルが言う。
「お前は俺の母親かよ」
「なら節度は守ってください」
ケイはケーキの皿を見比べていた。
フォークを持つ手が、一つ選んでは止まり、また隣の皿へ迷う。
エリアスも、羊皮紙へ伸びかけていた手を止めた。
甘い匂い。
湯気。
皿の上に落ちるソースの光。
羽根ペンは置いたまま、ジャムタルトを一つ取った。
タルトは甘かった。
思ったより酸味がある。
ジャムの熱がまだ少し残っていて、舌の上で果実の匂いが広がった。
その瞬間だった。
大広間の扉が、乱暴に開いた。
音が先だった。
重い扉が壁に当たる音。
走る足音。
誰かの椅子が引かれる音。
それまで重なっていた笑い声が、糸を切られたように途切れる。
大広間の入り口に、クィレル教授がいた。
紫のターバン。
青白い顔。
乱れたローブ。
片手が胸のあたりを押さえ、もう片方の手が扉の縁を掴んでいる。
肩が大きく上下していた。
息は喉で引っかかり、言葉になる前から細く乱れている。
足元がふらつく。
目は大広間の奥へ向いていたが、青白い顔の上で視線だけがわずかに揺れていた。
ニンニクと薬草の匂いが、扉の方から薄く流れてきた。
甘いデザートの匂いの上に、不自然に乗る。
クィレル教授の声が、大広間へ割り込んだ。
「ト、トロールが……地下室に……」
声が裏返る。
「お、お伝えしなければと……」
言葉は最後まで整わなかった。
クィレル教授の体が崩れた。
そのまま、床へ倒れる。
一拍。
杯を持つ手が止まった。
フォークの先から、赤い果実のソースが皿へ落ちる。
次に、音が一斉に崩れた。
誰かの杯が倒れる。
金属の皿が鳴る。
椅子が床を擦る。
女子生徒の悲鳴が、別の声に重なる。
デザートの甘い匂いだけが、場違いに残っている。
ケイの手からフォークが落ちた。
小さな音だった。
だが、近くでは妙にはっきり聞こえた。
ザビニが立ち上がりかけ、すぐに座り直す。
視線が出口へ走り、教師席、上級生、監督生へ移った。
ロウルは皿の横に両手を置いたまま、背筋を伸ばした。
顔色は変えていない。
だが、指先が白い。
エリアスは、扉の方を見ていた。
クィレル教授の倒れ方。
荒い呼吸。
裏返った声。
上下する肩。
ふらつく足元。
走ってきた者の乱れはある。
だが、その乱れの中で、声と倒れる間合いだけがわずかに浮いていた。
今ここで追うことではない。
トロール。
地下室。
スリザリン寮は地下にある。
生徒たちのざわめきが膨れ上がる。
「静まれ!」
その声が、ざわめきを切った。
ダンブルドア校長が立ち上がっていた。
声が大広間に通る。
穏やかな響きではない。
短く、強い。
全員を座らせるだけの力があった。
生徒たちの動きが止まる。
悲鳴はまだ少し残っていたが、波は引き始めた。
教師席では、マクゴナガル教授がすでに動いていた。
スネイプ教授も立っている。
他の教師たちも、互いに短く何かを確認していた。
誰も、ただ立ち尽くしてはいない。
「監督生は各寮へ生徒の誘導を。先生方は、こちらへ」
ダンブルドアの指示が飛ぶ。
スリザリンの監督生が立ち上がる。
鋭い声で、一年生へ列を作るよう促した。
上級生が通路を空ける。
椅子はまだ床を擦っていたが、生徒たちは少しずつ卓の間へ並び始めている。
エリアスは立ち上がった。
戦いに行くためではない。
列へ入るためだ。
「地下へ戻るのかよ」
誰かが低く言った。
「トロールが出たの、地下室って言ったぞ」
別の声が返る。
マルフォイが不快そうに顔をしかめている。
「まったく、なぜスリザリンが地下なんだ」
クラッブとゴイルは、食べかけの菓子を手にしたまま立っていた。
その手をどうするか決められないようだった。
ザビニが小さく言う。
「今さら寮の場所に文句を言っても仕方ないな」
ケイは喉を鳴らし、ローブの袖を掴んだ。
「本当に戻るのかな」
「監督生が誘導しています」
ロウルが答える。
「教師陣も動いています。指示に従うべきです」
「うん」
ケイの声は小さかった。
だが、足は動いた。
エリアスは、教師席の方を一度だけ見た。
クィレル教授は、まだ床に倒れている。
近くの教師が膝をつき、肩へ手を伸ばしていた。
ダンブルドアは生徒全体へ視線を配っている。
マクゴナガル教授のローブが、教師席の横で翻った。
スネイプ教授の黒い影が、別の出口へ向かう。
教師たちは動いている。
なら、今の最適行動は退避だ。
スリザリンの列は、大広間を出た。
廊下に出ると、先ほどまでの熱が背中から離れた。
石壁の冷たさが戻る。
松明の火が揺れ、長い影が床に伸びる。
列は早い。
だが走らない。
監督生が何度も声をかける。
押すな。
離れるな。
一年生は前へ。
上級生は後ろを見ろ。
足音が重なる。
ローブが擦れる。
誰かが小さく文句を言う。
別の誰かが、息を飲む。
地下へ向かうたび、列の間隔が少しずつ詰まっていった。
エリアスは首を動かさずに、周囲を拾った。
前に監督生。
少し先に上級生。
右には石壁。
左には空き教室の扉がいくつか。
一列前にザビニ。
ロウルとケイは近い。
列の少し後ろには、ダフネ・グリーングラスが女子生徒たちの中にいた。
表情は見えにくい。
横顔だけだった。
金色に近い髪が、松明の光を受けて淡く光る。
背筋は伸びている。
歩幅も乱れていない。
そう見えた。
次の角を曲がる手前で、列が少し詰まった。
前方で上級生の声が短く交わされる。
一瞬だけ、人の流れが止まる。
その時、列の少し後ろで、靴底が石床を擦る音がした。
エリアスは振り向いた。
ダフネ・グリーングラスが、壁に手をついていた。
軽くではない。
肩から体重を預けるように、石壁へ寄りかかっている。
手袋の端から見える指は白い。
爪先が床を探すように動き、次の瞬間、膝が崩れた。
声は上げなかった。
ダフネはそのまま壁際へ落ちるようにしゃがみ込む。
ローブの裾が石床に広がり、片手が喉元を押さえた。
前の女子生徒たちは振り返らない。
列が動き出し、監督生の「進め」という声に押されるように、そのまま角を曲がっていく。
松明の影が何人分も重なり、ダフネの姿を一瞬隠した。
エリアスだけが足を止めた。
「グリーングラス」
ダフネの目がこちらへ向く。
一瞬、鋭い。
だが、すぐに焦点が落ちた。
「……何でもないわ」
声は低い。
いつもの静けさを保とうとしている。
けれど、言葉の終わりに息が混じった。
「そうは見えないな」
ダフネは立とうとした。
壁に手をつき、膝へ力を入れる。
できなかった。
肩が震え、息が浅くなる。
頬から色が引き、唇が薄くなっていた。
こめかみに汗が浮いている。
「少し待っていろ。ファーレイを呼んでくる」
「人を呼ばないで」
ほとんど囁きだった。
エリアスは返事をしなかった。
前方では、監督生の声がまだ響いている。
急げ。
離れるな。
一年生は前へ。
今なら、声を上げるだけで誰かが戻る。
それが通常の手順だ。
「なら、医務室へ」
「駄目」
即答だった。
普段のダフネなら、人目のある廊下でここまで強く切らない。
彼女は壁へもう一度手を伸ばした。
指先が震えている。
「少しでいいの。人のいないところへ」
「理由は」
「今は言えない」
「悪化している」
「分かってるわよ」
ダフネは、そこで一瞬だけ目を閉じた。
「お願い。今は、見られたくないの」
その言葉だけ、整っていなかった。
周囲では列が動いている。
監督生の声が前から響く。
だが、ダフネが守ろうとしているものがある。
それが何かは分からない。
分からないまま、踏み壊すこともできる。
人目を避けるだけなら、数分で済む。
状態を確認し、悪化すれば呼ぶ。
それなら、選べる。
「近くの教室に入る」
ダフネが小さく頷いた。
「悪化したら人を呼ぶ」
「それは嫌」
「なら、悪化させるな」
ダフネは答えなかった。
ただ、壁から手を離そうとして、失敗した。
エリアスは彼女の腕を支えた。
軽い。
思ったよりずっと軽い。
腕の下から、体温の低さが伝わる。
前方のザビニが、こちらを振り返った。
ロウルも気づいた。
ケイは口を開きかけて、すぐ閉じた。
だが、人波がまた動く。
エリアスは、ザビニと目を合わせなかった。
視線を返せば、足が止まる。
足が止まれば、周囲の目も止まる。
ダフネを支えたまま、近くの扉へ向かう。
肩越しに、ロウルの低い声だけが聞こえた。
「少し遅れるそうです」
誰に向けた声かまでは見なかった。
監督生か。
近くの上級生か。
それとも、ただ周囲の疑問を先に潰しただけか。
ザビニの声は聞こえない。
ケイも何も言わない。
それでよかった。
説明は後でいい。
扉の取っ手は冷たかった。
空き教室だった。
中には古い机がいくつか残されている。
椅子は壁際へ寄せられ、黒板には薄く消し残しの線がある。
窓は細く、外の光はほとんど入らない。
埃の匂いがした。
長く使われていない部屋の乾いた匂いだった。
遠くで、退避する生徒たちの足音が続いている。
大広間のざわめきはもう聞こえない。
代わりに、廊下の石が足音を細く反響させていた。
エリアスはダフネを手近な椅子へ座らせた。
「前屈みになるな。息が浅くなる」
ダフネは小さく頷いた。
だが、肩はまだ上下している。
息を吸うたび、喉の奥でかすかな音が混じった。
手袋の指先を握りしめ、膝の上に置いた手が白くなっていた。
「気付け薬は」
「要らない」
「飲めるなら飲んだ方がいい」
「今は、無理」
声が掠れている。
呼吸の合間を縫うように言葉が続く。
それでも返答だけは途切れなかった。
エリアスは杖を抜いた。
治療のためではない。
警戒のためだ。
扉。
窓。
机。
椅子。
黒板。
退路。
窓は細い。
一年生が抜けられる幅はあるかもしれないが、ダフネの状態では難しい。
扉は一つ。
机は遮蔽物になる。
椅子は邪魔にもなる。
廊下の音は、まだ人の足音が混ざっている。
「理由は後でいい」
ダフネの目がこちらへ向く。
「今は呼吸を戻せ」
「命令するのね」
声は冷たくしようとして、途中で薄くなる。
すぐに唇を噛んだ。
その動きで、また呼吸が浅くなる。
「確認だ」
「同じようなものよ」
言い終えた直後、ダフネは肩を震わせた。
笑ったのではない。
息を整えようとして、失敗しただけだった。
エリアスは少しだけ距離を詰めた。
「四つ数えて吸え」
「……できるわ」
「できていない」
ダフネの目が細くなる。
だが、反論は出なかった。
「二つでもいい。止めるな」
「分かっている」
「本当に分かっているのか」
「分かっているわ」
少しだけ、いつもの冷たさが戻った。
その方が、まだ扱いやすい。
エリアスは扉の近くへ移動した。
廊下の音を拾う。
もう、人波が動く音は聞こえない。
遠ざかる靴音も、監督生の声も消えていた。
遠くで、何かが倒れた。
木ではない。
石か、金属。
重く、硬いものが床に当たった音。
ダフネの呼吸が止まる。
エリアスは扉へ視線を向けた。
次に、石床を擦る音がした。
重い。
人間の足音ではない。
歩幅が大きい。
靴音ではなく、裸の重い足が床を押しているような音。
低い唸り。
壁が、ほんのわずかに震えた。
匂いが来た。
腐った布。
古い肉。
獣の脂。
泥を吸った木の臭い。
エリアスの指が杖を握り直す。
扉。
ダフネ。
机。
窓。
距離。
廊下の音の方向。
逃げるなら今か。
だが、廊下に出れば音の方へ近づく。
ダフネは走れない。
窓は狭い。
机を倒せば、時間を作れるかもしれない。
足音が近づく。
一歩。
床が鳴る。
もう一歩。
扉の向こうで、何かが壁に擦れた。
ダフネが息を止めている。
椅子の背を掴む指が白い。
「息を止めるな」
エリアスは低く言った。
自分の声も、思ったより小さかった。
扉の下から、影が差した。
取っ手が揺れる。
次の瞬間、扉が内側へ押し開かれた。
木が軋む。
蝶番が悲鳴を上げる。
埃が落ちる。
巨大な影が、教室の入り口を塞いだ。
低い天井に近い肩。
灰色がかった皮膚。
鈍い目。
片手には、太い棍棒。
そこから腐った木と泥の臭いが流れ込んでくる。
エリアスは杖を構えた。
背後で、ダフネの息が止まる音がした。
それが、空き教室へ入ってきた。