巨大な影が、教室の入り口を塞いでいた。
低い天井に近い肩。
灰色がかった皮膚。
鈍い目。
片手には、太い棍棒。
そこから、腐った木と泥の臭いが流れ込んでくる。
甘い晩餐の匂いは、もうどこにもなかった。
魔法省分類XXXX
一人前の魔法使いでも、正面から相手にするものではない。
まして一年生が二人。
皮膚は厚い。
力は、教室ごと潰せる。
狙うなら、皮膚の薄い場所。
目。
鼻。
口。
エリアスは杖を構えた。
背後で、ダフネの息が細く詰まった。
椅子の脚が石床をわずかに擦る。
「息を止めるな」
声は低くした。
届けばいい。
大きくする必要はない。
トロールの足が、教室へ入った。
床石が鳴る。
一歩。
机が押される。
古い木が横へ滑り、脚が甲高い音を立てた。
もう一歩。
棍棒が入口の枠にぶつかり、乾いた木片がぱらぱら落ちる。
広さが足りない。
距離も足りない。
扉は塞がれた。
窓は細い。
ダフネは走れない。
倒せない。
押し返せない。
机を挟む。
視線を逸らす。
教師が来るまで、数秒ずつ奪う。
それしかない。
トロールの頭がわずかに傾いた。
臭いを嗅いでいるのか、音に反応したのか。
鈍い目が、部屋の中をゆっくり動く。
机。
椅子。
壁。
ダフネ。
そこで止まった。
エリアスは半歩、前へ出た。
トロールの目がこちらへ戻る。
遅い。
だが、戻っただけで空気が重くなる。
杖の木肌が指に食い込む。
手のひらが少し湿っていた。
ラクリマート(流涙)1
杖先が短く震えた。
白い光が、トロールの顔へ走る。
厚い皮膚には触れない。
狙いは瞼の内側。
濁った目の縁。
光が入った。
トロールが瞬いた。
一度。
二度。
鈍い目に水が浮く。
低い唸りが、喉の奥で濁った音へ変わった。
効いた。
止まらない。
トロールの肩が動く。
「伏せろ!」
ダフネの体が椅子から崩れるように低くなる。
棍棒が横へ振られた。
空気が鳴った。
エリアスは膝を沈める。
机の下へ滑り込む。
棍棒が机を砕いた。
木片。
粉塵。
割れた脚。
頬を何かが掠める。
痛みは遅れて来る。
耳の奥が鳴った。
ダフネは床に手をついている。
椅子の陰。
まだ距離はある。
トロールの棍棒は、振り抜いた位置で壁に当たり、石を削った。
破片が落ちる。
床が小さく跳ねる。
エリアスは机の残骸越しに杖を上げた。
プルーリタ(掻痒)2
今度は鼻孔。
光が当たった。
トロールの鼻が歪む。
ひしゃげた唸り。
太い指が顔へ上がる。
一瞬。
エリアスは床を蹴った。
フリペンド(衝撃)3
椅子が跳ねた。
トロールの膝へ当たる。
鈍い音。
揺れた。
だが、倒れない。
重い。
椅子は砕け、脚だけが石床を転がった。
トロールの腕が振り下ろされる。
エリアスは横へ転がった。
肩が床へ当たる。
石の冷たさ。
肺から息が抜ける。
棍棒ではない。
拳。
床石が割れた。
粉塵が上がる。
細かな欠片がローブに当たる。
腕一本でこれか。
エリアスは立ち上がりかけて、膝を一度ついた。
呼吸が速い。
喉が乾いている。
杖先が、ほんの少し下がる。
上げろ。
右手首に力を戻す。
杖先を、トロールの顔へ戻す。
トロールは顔をこすっていた。
目は潤んでいる。
鼻も歪んでいる。
それでも、床石がまた鳴った。
一歩。
床が鳴る。
もう一歩。
机の残骸が押し潰される。
ダフネの方へ行かせない。
エリアスは左へ動いた。
トロールの目が追う。
棍棒も追う。
いい。
こちらを見ろ。
「こっちだ」
声を出した瞬間、喉が痛んだ。
トロールの足が動く。
床が鳴る。
一歩で距離が詰まる。
速くはない。
だが、近い。
重さが、速さの代わりになる。
エリアスは棚へ杖を向けた。
インセンディオ(燃えよ)4
小さな火が走る。
棚の上の乾いた布へ移る。
炎は大きくない。
だが、すぐに煙が上がった。
トロールの顔がわずかに逸れる。
フリペンド
燃えた布と木片が飛ぶ。
顔面ではない。
目の前。
炎と煙が視界を切る。
トロールが腕を振る。
煙ごと薙ぐ。
風圧。
熱。
焦げた布の匂い。
エリアスは後ろへ下がる。
足が椅子の残骸に当たる。
平衡が崩れた。
まずい。
膝で受けた。
滑る。
倒れない。
トロールの棍棒が床を叩く。
衝撃が足裏から上がった。
石床が跳ねた。
耳が鳴る。
ダフネが小さく声を漏らした。
トロールの目が、そちらへ向く。
違う。
エリアスは右へ踏み出した。
ラクリマート
トロールは腕で顔を庇った。
光は皮膚へ当たる。
弾けるように散る。
効かない。
学習している。
次。
プルーリタ
腕ではなく、開いた口の奥。
唸りの隙間。
光が入る。
トロールが咳き込んだ。
喉の奥で濁った音が鳴る。
棍棒の握りが一瞬緩む。
一瞬だけ。
その一瞬で、机の残骸が視界に入った。
折れた脚。
割れた天板。
細い木片。
尖ってはいない。
ただ、乾いている。
マッチを針へ。
素材。
細さ。
硬さ。
先端。
長く考える暇はない。
エリアスは床の木片へ杖を向けた。
木片の端が震える。
細くなる。
色が抜ける。
灰色の木肌に、鈍い銀が走った。
一本では足りない。
もう一本。
もう一本。
木片が、細い針へ変わっていく。
完全ではない。
一本は歪んでいる。
一本は先端が甘い。
一本だけ、まっすぐだった。
それでいい。
ウィンガーディアム・レヴィオーサ(浮遊)5
針が浮いた。
軽い。
机よりずっと軽い。
椅子よりずっと従う。
だが、数がある。
一本ずつなら簡単だ。
三本なら少し揺れる。
杖先を下げるな。
トロールが煙を払った。
濡れた目がこちらを向く。
腕はまだ顔の近くにある。
守っている。
なら、腕の下。
肘の隙間。
目尻。
フリペンド
一本目が飛ぶ。
腕に当たった。
皮膚で止まる。
落ちる。
二本目。
腕の下を抜ける。
頬を掠める。
外れる。
三本目。
トロールが瞬いた瞬間、目元へ入った。
刺さった。
トロールが仰け反る。
咆哮。
天井の埃が落ちた。
窓の細いガラスが震える。
ダフネが椅子の脚を掴む音がした。
エリアスの喉が張りつく。
息を吸う。
短く。
浅く。
トロールは倒れない。
目の端から濁った液が流れている。
痛みはある。
唸りの音が変わった。
針は効いた。
だが、膝は折れなかった。
トロールが腕を下げた。
鈍い目が、床の木片へ動く。
次に、エリアスの杖へ戻る。
もう一度、同じ手は通らない。
トロールは顔の前に腕を上げたまま、こちらへ踏み込んだ。
棍棒が高く上がる。
エリアスは横へ走る。
足元に木片。
割れた椅子。
粉塵。
滑る。
肩が先に動く。
肘が遅れる。
棍棒の先が天井近くで弧を描く。
振り下ろし。
エリアスは机の陰へ飛び込む。
棍棒が落ちる。
机が割れる。
石床が鳴る。
衝撃が胸の奥まで入ってくる。
戻る時、棍棒の先がわずかに浮いた。
重さに引かれた腕が遅れる。
トロールの指が握り直す。
支点が、ほんの一瞬だけ遊ぶ。
今のか。
エリアスは立つ。
呼吸が浅い。
視界の端が少し狭い。
もう一度。
トロールが向きを変える。
足が床を擦る。
踵ではない。
足裏全体で押す音。
棍棒が横へ来る。
エリアスは低く沈んだ。
髪の上を風が通る。
壁に当たる。
石が砕ける。
戻る。
棍棒の先が浮く。
トロールの手の中で、太い木が一瞬遅れる。
やはり、そこだ。
だが、重すぎる。
単純に浮かせれば杖が負ける。
持ち上げるな。
重さをずらせ。
トロールが咆哮する。
顔を庇った腕が、今度は胸の前にある。
目を守る動きが残っている。
針は通りにくい。
顔への呪文も庇われる。
棍棒。
それしかない。
ダフネが壁際で息をしている。
浅い。
まだ立てない。
逃げられない。
時間がない。
トロールが踏み込む。
肩。
肘。
重心。
右足。
棍棒。
振り下ろし。
エリアスは動かなかった。
ぎりぎりまで見る。
近い。
石床が唸る。
横へ跳ぶ。
棍棒が床を割る。
破片が左頬を打つ。
戻る。
今。
ウィンガーディアム・レヴィオーサ
棍棒の先が浮いた。
重い。
ただ、魔力が足りないわけではない。
込めようと思えば、もっと流せる。
だが、杖が嫌がっていた。
指先から杖身へ流した魔力が、途中でざらつく。
水路に砂が詰まるように、細い抵抗が返ってくる。
これ以上押せば、浮く前に弾ける。
棍棒ではなく、机も床もダフネも巻き込む。
引き上げるな。
軽くしろ。
奪うのではなく、重さをずらす。
棍棒の軌道がわずかに上がる。
トロールの拳が遅れる。
フリペンド
衝撃を、棍棒の横腹へ。
棍棒が跳ねた。
トロールの手から半分外れる。
指が握り直そうとする。
もう一度。
フリペンド
棍棒が浮いた。
完全に離れる。
教室の中央で、太い木が不自然に浮かんだ。
トロールの鈍い目が、それを追う。
エリアスの呼吸が詰まる。
右腕が重い。
杖先が震える。
棍棒は制御できる重さではない。
だが、一度だけなら。
エリアスは歯を噛んだ。
フリペンド
棍棒が射出された。
真っ直ぐではない。
わずかに横へ流れる。
重さに杖が負けている。
それでも飛ぶ。
トロールが拳を上げた。
衝突。
木が爆ぜた。
棍棒の中央が割れ、破片が四方へ飛ぶ。
太い半分が床へ落ち、跳ねる。
もう半分が壁に当たり、松明を揺らした。
静かになった。
一瞬だけ。
粉塵が落ちる。
焦げた布の小さな火が、床で細く燃えている。
トロールの手には何もない。
ダフネの呼吸が聞こえた。
エリアスも息を吸った。
終わっていない。
トロールが、空の手を見た。
それから、割れた棍棒を見た。
低い唸りが、喉の奥で膨れ上がる。
次の瞬間、咆哮になった。
教室の埃が震え、窓の細いガラスが鳴る。
背後で、ダフネが短く悲鳴を上げた。
掠れた、喉を裂くような声だった。
トロールの目が、そちらへ動く。
まずい。
「退がれ!」
声が掠れた。
ダフネが動こうとする。
椅子が鳴る。
足がもつれる。
遅い。
トロールが踏み込んだ。
左腕が大きく振り上がる。
肘が外へ開く。
マケラート(軟化せよ)6
エリアスは、トロールの足元へ杖を向けた。
踏み込んだ石床の目地が崩れる。
灰色の粉が跳ね、重い足が半ば沈んだ。
巨体がわずかに傾く。
だが、止まらない。
ただ、肩の線がずれた。
拳の軌道が、半歩だけ外に流れる。
それでも、拳はダフネに迫る。
エリアスはダフネへ跳んだ。
サリヴァート(ぬめり)7
左肩。
左袖。
左腕。
左脇。
ローブの表面が、濡れたように光る。
皮膚の上に、薄いぬめりが走る。
左半身だけ、空気との触れ方が変わった。
右腕でダフネの肩を抱え込む。
胸元へ引く。
自分の体を、左側へ残す。
即死の線を、少しでも外す。
トロールの拳が来た。
中心は外れた。
左腕へ触れた瞬間、表面を滑った。
肩から腕へ、衝撃が流れる。
ローブが裂ける。
皮膚が引き攣る。
逸れた。
だが、逃げきれない。
重さだけが残った。
骨の奥で、何かが折れる音がした。
肩から先が熱い。
肘が逆へ持っていかれる。
前腕が潰れる。
指先の感覚が一瞬で消える。
左腕が、腕ではなくなる。
身体が横へ飛ぶ。
右腕だけでダフネを抱える。
離すな。
壁が来る。
背中が叩きつけられた。
息が出ない。
視界が白くなる。
膝が落ちた。
杖。
落とすな。
右手の指が、木肌に食い込んだ。
爪の下が痛い。
それでも離れない。
エリアスは右腕でダフネを押し込んだ。
彼女が床へ崩れかける。
肩で受ける。
左腕は下がったまま揺れない。
痛みだけが遅れて来る。
喉が勝手に鳴った。
トロールが、もう一歩進む。
足音。
床。
重さ。
ダフネの息が、背後で震えている。
まだ動く。
エリアスは背中でダフネを庇い、身体を半分だけ前へ出した。
杖先を上げる。
震えていた。
狙いは定まらない。
それでも、下げなかった。
トロールの影が落ちる。
その時、扉の外で声がした。
低い声。
鋭い声。
複数。
光が走った。
赤。
白。
青。
トロールの肩が跳ねる。
膝が沈む。
もう一発。
低い衝撃。
床が鳴る。
トロールの巨体が横へ崩れた。
倒れる音が、教室を揺らした。
粉塵が舞う。
机の残骸が跳ねる。
松明の火が大きく揺れた。
誰かが名前を呼んだ。
「レン!」
耳がうまく拾わない。
黒いローブが視界に入る。
スネイプ教授。
その後ろに、マクゴナガル教授の鋭い影。
フリットウィック教授の小さな杖先が、まだ光を残している。
倒れたトロールは動かなかった。
エリアスはそれを確認して、次にダフネを見た。
彼女は床に座り込んでいた。
顔は白い。
目は大きく開かれている。
唇が何かを言おうとして、音にならない。
エリアスの左腕を見ていた。
視線を追わなくても分かる。
そこに、まともな形は残っていない。
痛みが戻った。
喉が詰まる。
胃が縮む。
床が傾く。
マクゴナガル教授の声が飛ぶ。
スネイプ教授が何かを言う。
フリットウィック教授が杖を上げる。
エリアスは答えようとした。
声が出ない。
右手だけが、まだ月桂樹の杖を掴んでいた。
離してもいいはずなのに、指が開かない。
生きている。
それだけだった。
左腕だけが、遅れて脈を打つように熱を持っていた。