白い天井が見えた。
石ではない。
木でもない。
布で区切られた淡い影が、視界の端で揺れている。
薬草の匂いがした。
清潔な布の匂い。
それから、苦い薬を煮詰めたような、舌の奥に残る匂い。
医務室だ。
そう判断するまでに、二呼吸かかった。
息を吸うと、背中が痛んだ。
深く吸えない。
肩甲骨の下あたりで、鈍いものが軋むような痛みがあり、胸まで広がってくる。
左腕は、自分の身体とは思えなかった。
熱を持った重い塊が、肩から先に縫い付けられている。
包帯と固定具の重さがある。
動かそうとした瞬間、肩の奥から肘の先まで、白い火花のような痛みが走った。
視界が揺れる。
動かせない。
喉の奥で、声にならない息が詰まった。
少し待つ。
息を細く吐く。
もう一度、今度は指先だけを探る。
左手の先に、感覚はあった。
鈍い。
遠い。
だが、完全に消えてはいない。
それを確認してから、右手を少し動かそうとした。
右腕は動く。
だが、体全体が重い。
少し持ち上げただけで、背中が痛み、腹の奥に力が入らなくなる。
頬に触れようとして、途中で諦めた。
触れなくても分かる。
頬を裂いていたはずの痛みがない。
頭の奥には鈍さが残っているが、血が流れる感覚もない。
皮膚が引き攣る痛みもない。
ローブの下で乾いた血がこびりついている感覚もない。
治っている。
どうやって。
肉を戻したのか。
皮膚を作ったのか。
傷つく前の状態へ戻したのか。
分からない。
血の匂いはしない。
かわりに、薬草と清潔な布の匂いがある。
枕元のどこかで、ガラス瓶が小さく触れ合う音がした。
便利だ、とは思わなかった。
先に、背筋の奥へ冷たいものが落ちた。
人間の体に、どこまで触れている。
どこまで変えている。
どこまで戻している。
答えは見えない。
分からないものに、自分の体が処置されている。
その事実だけで、呼吸が少し浅くなった。
左手の指先に、体温があった。
包帯の外へ出ている指を、誰かが握っている。
強くはない。
逃がさないほどではない。
だが、ただ触れているだけでもない。
離すには少し惜しいくらいの力だった。
首を動かそうとして、すぐにやめた。
背中が痛む。
肩まで動かすと、左腕の奥が白く弾けそうになる。
起き上がるのは無理だ。
エリアスは目だけを横へ向けた。
ダフネ・グリーングラスが、ベッド脇に突っ伏して眠っていた。
椅子に座ったまま、上半身をベッドの端へ預けている。
顔は横を向いていた。
淡い髪が頬にかかり、唇が少しだけ開いている。
寝息は規則正しい。
布の上で、かすかに揺れていた。
顔色は悪くない。
少なくとも、廊下で壁に崩れかけた時の白さではなかった。
指先も、あの時のように紙のような色ではない。
生きている。
まず、それを確認した。
次に、彼女の手を見る。
ダフネは、エリアスの左手の指先を握っていた。
包帯に触れないようにしているのか、出ている指だけを両手で包むようにしている。
指先に力が入っているわけではない。
ただ、眠っても離れていなかった。
エリアスは、左手の指をわずかに動かした。
痛みはない。
いや、腕全体の痛みが大きすぎて、指先だけの痛みは分からない。
だが、動いた。
ほんの少しだけ。
その動きに、ダフネの睫毛が震えた。
ダフネは顔を上げた。
一瞬、どこを見ているのか分からない目だった。
次の瞬間、焦点が合う。
「エリアス」
声が掠れていた。
眠っていた声、だけではない。
喉の奥が乾いているような、少し削れた声だった。
ダフネはすぐに姿勢を正そうとした。
だが、片手がまだエリアスの指先を握っていることに気づき、動きが止まる。
離そうとした。
けれど、完全には離さなかった。
指先の温度が残る。
エリアスは起き上がろうとした。
背中が裂けたように痛んだ。
左腕の奥が白く爆ぜる。
肩が持ち上がらず、息だけが喉で止まる。
視界が滲む。
「動かないで」
ダフネの手が伸びた。
エリアスの肩に触れる直前で止まる。
触れていい場所が分からないように、指先が宙で迷っていた。
エリアスは息を整えた。
「顔色は戻っているな」
「……最初に言うことがそれ?」
「確認事項だ」
ダフネの視線が、エリアスの顔から左腕へ落ちる。
包帯と固定具の上で止まった。
すぐに戻る。
戻るのが少しだけ遅かった。
「あなた、自分の状態は分かっているの?」
「左腕が動かない。背中も痛む。体に力が入らない。指先の感覚はある」
「そういうことではなくて」
「ここが天国じゃない、ということくらいだな」
ダフネは唇を結んだ。
言い返す言葉を選んだように見えたが、結局、何も言わなかった。
エリアスは目だけで医務室を見た。
白いカーテン。
棚に並ぶ薬瓶。
磨かれた金属の盆。
遠くのベッド。
窓の外は暗い。
夜だ。
ただし、どの夜かは分からない。
「どれくらい寝ていた」
「……ほとんど二日」
ダフネの声は低かった。
「今は十一月二日の夜よ」
「二日」
口の中で転がす。
二日。
自分の感覚では、床へ叩きつけられてから、まだ数分も経っていない。
だが、窓の外は夜で、体は動かず、傷の一部は消えている。
「授業は」
「私は出たわ」
「君も医務室にいたのでは」
「ポンフリー先生に追い出されたの。ここで倒れかけたから」
ダフネの指が、エリアスの指先から少しだけ離れた。
完全には離れない。
ただ、力が弱くなる。
「夕食の後に、また来た」
「許可は」
「もらったわ。短時間だけ」
短時間。
そのわりに、彼女は眠っていた。
椅子に座ったまま、エリアスの指先を握って。
「君の体調は」
「戻っている」
「昨日の廊下と同じ症状は」
「ないわ」
即答だった。
声は乱れていない。
だが、間がなさすぎた。
「本当に」
「本当よ」
「……ならいい」
ダフネの眉がほんの少し寄った。
「それで済ませるの?」
「今は」
エリアスは、左腕を見ようとして失敗した。
首を動かすだけで背中が痛む。
視線だけを下げても、包帯と固定具の一部しか見えない。
「左腕は」
「酷く折れているそうよ」
ダフネの声は一段低くなった。
「しばらく動かせない。背中の打撲も残っている。切り傷は、処置されたって」
「しばらく」
「ポンフリー先生が詳しく説明すると言っていたわ。あなたが起きたら」
詳しく説明する。
つまり、まだ聞かされていない情報がある。
左腕の重さ。
肩から肘にかけての熱。
指先の遠さ。
背中の痛み。
体力の消耗。
十分に悪い。
だが、正式な状態はまだ分からない。
エリアスは目を閉じた。
怠けていたわけではない。
呪文は試した。
杖の反応も記録した。
魔法薬学の工程も、防衛術の恐怖反応も、箒の応答も、できる限り切り分けていた。
学ぶべき場所で、学ぶべきことを学んでいた。
その判断自体は、誤りではない。
ここは学校だった。
教師がいて、監督生がいて、校長がいて、授業があり、寮がある。
十一歳の生徒が、入学して二か月も経たないうちから、怪物との実戦を前提に手札を揃える方がおかしい。
そう判断するだけの理由はあった。
一年で習う呪文を、百に近い精度で理解する。
杖の癖を見極める。
現象を飛ばさず、足元から積む。
探究としては正しい。
学業としても、研究としても間違ってはいない。
安全な学校なら、それでよかった。
だが、現実は違った。
トロールは教室まで来た。
四階の廊下に入れば悲惨な死に方をする。
校長が、入学初日にそう言った。
あれは、子どもを脅すための大げさな言葉ではなかった。
この学校では、ひょんなことで死ぬ。
安全な学校だという前提は、完全な誤りではない。
ただ、それだけでは足りない。
探究を優先したことは間違いではなかった。
自衛を後回しにしてよい理由には、ならなかった。
エリアスは、右手の指を少し動かした。
月桂樹の杖は、ベッド脇の小さな台に置かれていた。
手を伸ばせる距離ではない。
それでも、木肌の色は見える。
魔力が尽きたわけではない。
あの時も、体の内側にはまだ余力があった。
流そうと思えば、もっと流せた。
だが、杖は受け付けなかった。
指先から杖身へ送った魔力が、途中でざらつく。
水路に砂を詰められたように、細い抵抗が返ってくる。
押せば、通る前に弾ける。
トロールではなく、自分や周囲を巻き込んで。
必要な量だけは通る。
呪文としての形は崩れない。
魔法の発動に必要な量なら、むしろ安定している。
だが、それ以上を流そうとすると拒む。
高出力で魔法耐性を突き抜ける。
そういう使い方を、杖が許さない。
本当に、この杖には辟易させられる。
ただ、それを言ったところで、腕は戻らない。
杖を屈服させるのか。
杖に合わせたまま、手札を増やすのか。
あるいは、別の形で逃げ道を作るのか。
まだ整理できていない。
ただ、最低限の方針は決まった。
次は、同じ条件で戦わない。
それだけは決まった。
「何を考えているの」
ダフネの声がした。
エリアスは目を開けた。
「自分の間違いと、間違いではなかった部分」
「……何それ」
「全部を間違いにすると、次も踏み外す」
ダフネは返事をしなかった。
指先を握る力が、少しだけ強くなる。
エリアスは息を吸った。
背中が痛む。
少し浅く吐く。
「次は、君の番だ」
「何の話」
「昨日、なぜ倒れた」
ダフネの指が止まった。
体温はある。
だが、動きだけが止まった。
「それは」
「答えられないなら、答えられないと言えばいい」
「……言えない」
声は小さかった。
「理由も」
「言えない」
エリアスは彼女を見る。
目元には疲れが残っている。
髪は少し乱れている。
それでも、背筋を伸ばそうとしている。
普段の形に戻ろうとしているように見えた。
「左腕一本分の情報としては、割に合わないな」
「分かってるわ」
「謝罪も足りない」
「それも、分かってる」
ダフネは俯いた。
握っていた指先に、ほんの少しだけ力が入った。
「ごめんなさい」
謝罪は短かった。
声は震えていない。
だが、言い終えたあとも顔は上がらなかった。
「謝罪では情報が増えない」
「知っているわ」
「なら、情報を出せ」
「出せない」
早い。
嘘ではない。
少なくとも、ただ隠しているだけの速度ではない。
言いたくない、よりも、言えない、の方が近い。
「君一人で決められる話ではないのか」
ダフネの睫毛が動いた。
一拍。
長い一拍だった。
「……それも、言えない」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
今の状態で追い詰めても、情報は増えない。
ダフネが崩れるだけなら、損だ。
ただし、何もなかったことにはできない。
「次に同じことが起きたら、人を呼ぶ」
「それは」
「拒否は聞かない」
「エリアス」
「左腕は一本しかない」
ダフネの口が止まった。
視線が、また左腕へ落ちる。
包帯。
固定具。
動かない腕。
彼女は、そのまま数秒動かなかった。
「……分かったわ」
声は、ほとんど息に近かった。
「ただし」
「まだ何かあるの?」
「ある」
エリアスは、右手の指を少し動かした。
喉が乾いている。
水も欲しい。
だが、先に言う。
「君が倒れる前に、自分で言え」
「できるかは分からない」
「できるようにしろ」
「命令?」
「条件だ」
ダフネは小さく息を吐いた。
笑ったのではない。
泣いたのでもない。
ただ、呼吸が抜けただけだった。
「あなた、本当に怪我人なの」
「怪我人だ」
「怪我人は、もう少し弱っているものよ」
「弱っている。起きる努力はした。失敗した」
ダフネの口元が、ほんの少しだけ動いた。
すぐに消える。
「水を取るわ」
「ああ、助かる」
ダフネは立ち上がろうとした。
その動作が速い。
椅子が小さく鳴る。
彼女はすぐに水差しへ手を伸ばした。
グラスへ水が注がれる。
水面が揺れ、ガラスの縁に小さく当たる音がした。
ダフネはグラスを持って戻ってくる。
だが、エリアスの体を起こそうとして、手が止まった。
どう飲ませるか。
どこを支えていいか。
そこを迷っているのが、手の位置で分かった。
「起きるのは無理だな」
「……分かっているわ」
ダフネの手が、グラスを持ったまま少し下がる。
「ストローか何かを探してくれ」
「医務室にあるかしら」
「なければポンフリー先生を呼べ」
「今?」
「今」
ダフネは一瞬ためらい、カーテンの向こうへ視線を向けた。
「呼ぶわ」
「頼む」
彼女はグラスを置き、立ち上がった。
その時、カーテンの向こうで足音がした。
「呼ぶ必要はありません」
厳しい声だった。
マダム・ポンフリーがカーテンを開けて入ってきた。
白いエプロン。
きちんとまとめられた髪。
手には小さな盆。
盆の上には薬瓶と、細い管のついた器具が載っている。
彼女の目が、まずエリアスの顔を見た。
次に左腕。
包帯。
固定具。
ベッド脇のダフネ。
「目を覚ましましたね。動こうとしましたか」
「失敗しました」
「そのようですね」
声は低くない。
だが、次に同じことをすれば叱られると分かる硬さがあった。
「動いてはいけません。左腕はもちろん、背中にもかなりの衝撃を受けています。体力も戻っていません。今夜は寝台の上で大人しくしていること」
ポンフリーは枕元の薬瓶を確認し、手早く何かを混ぜた。
甘くない匂いがした。
苦い。
粘るような薬草の匂い。
「水の前にこれです」
「何ですか」
「薬です」
「それは見れば分かります」
「なら飲みなさい」
反論する前に、細い管の先が口元へ運ばれた。
エリアスは少しだけ目を細めた。
飲む。
舌に触れた瞬間、後悔した。
苦い。
ただ苦いだけではない。
粘りがあり、舌の上に張り付き、喉を通ってからも残る。
薬草を焦がして、泥に混ぜたような味だった。
「まずい」
「効きます」
ポンフリーは平然と言った。
「左腕はしばらく固定します。詳しい話は明日、もう少し意識がはっきりしてからです。今夜は眠ること。分かりましたね」
「どの程度」
「今夜は眠ること」
質問は切られた。
ポンフリーの視線がダフネへ移る。
「ミス・グリーングラス。あなたも長くはいられません」
「はい」
「昨夜のように倒れかけるのは困ります」
「……はい」
ダフネの声は小さかった。
昨夜。
エリアスはその言葉だけ拾った。
やはり、彼女はここにいた。
少なくとも、倒れかけるほどには。
「話しすぎてもいけません」
「質問が残っています」
「明日です」
「重要です」
「命に関わる質問なら今聞きます。そうでないなら明日です」
命に関わるか。
ダフネの不調。
左腕。
杖。
どれも、次があれば関わる。
だが、今ここで答えが返るものは少ない。
「明日にします」
「賢明です」
ポンフリーは短く頷いた。
そのまま薬瓶を片付け、固定具を確認する。
左腕へ触れられているはずなのに、感覚は遠い。
ただ、肩の奥が鈍く反応し、額に汗が浮く。
「痛むでしょう」
「はい」
「痛み止めも効かせています。それでも痛むなら、相当です」
「便利ではありますね」
「何がです」
「医療魔法です」
ポンフリーは眉を上げた。
「便利でなければ、あなたはもっと大変な状態でした」
「それは分かります」
分かる。
分かるから怖い。
頬の裂傷はない。
頭の傷も閉じている。
血の匂いも残っていない。
それなのに、体力は戻っていない。
左腕は動かない。
背中は痛む。
どこまで治し、どこから残っているのか。
それはまだ、分からない。
分からないまま、自分の体だけが結果を受け取っている。
ポンフリーは何か言いたげに見えたが、結局、薬瓶を盆へ戻しただけだった。
「もう少ししたら眠くなります。逆らわないこと」
「努力します」
「努力ではなく従いなさい」
白いカーテンが小さく揺れた。
ポンフリーが出ていく。
医務室に、薬草と清潔な布の匂いが戻った。
ダフネは椅子に座り直した。
今度は、エリアスの指を握らなかった。
代わりに、布団の端を少しだけ整える。
枕の位置を見て、手を伸ばしかける。
けれど、触れる前に止める。
「そこまでは頼んでいない」
「何もしていないわ」
「しようとしていた」
「枕がずれていたの」
「首は動かしていない」
「見れば分かるわ」
少しだけ、声が戻っている。
だが、視線はすぐ左腕へ落ちる。
戻る。
また落ちる。
「明日、説明を聞く」
エリアスは言った。
「左腕のことを」
「……私のことは」
「今は後だ」
「え」
ダフネの声が、小さく止まった。
「言えないことを、今聞いても増えない」
「……」
「腕の状態と治療の手順を先に確認する」
ダフネは目を伏せた。
「それでいいの」
「よくはない。ただの順番だ」
沈黙が落ちる。
遠くで、別の薬瓶が鳴った。
医務室のどこかで、布が擦れる音がした。
夜の窓は暗い。
エリアスは、右手の指を少し曲げた。
月桂樹の杖はまだ台の上にある。
届かない。
届かないものは多い。
左腕。
言えない事情。
杖の本当の使い方。
この学校の危険の底。
「グリーングラス」
「何」
「明日は授業に出ろ」
「……今それを言うの」
「出ないと目立つ」
「あなたの見舞いに来る方が目立つわ」
「それもそうだ」
ダフネは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
すぐに表情は戻った。
「来るわ」
「授業後でいい」
「決めるのは私よ」
「倒れるな」
「それも、あなたが決めることではないわ」
その返答は静かだった。
エリアスは彼女を見た。
言えない理由がある。
自分だけの問題ではない。
少なくとも、その可能性は高い。
なら、焦っても言葉は出ない。
代わりに、行動が出る。
水差しへ向かう速さ。
枕へ伸びる手。
左腕へ落ちる視線。
謝罪で埋められないものを、別の何かで埋めようとする動き。
今後、面倒なことになる。
そう判断した。
眠気が、薬の底から上がってきた。
まぶたが重くなる。
痛みは消えない。
ただ、輪郭が少し丸くなる。
ダフネの声が少し遠くなった。
「眠って」
「命令するな」
「今は従って」
「状況による」
「お願い」
その言葉だけ、近かった。
エリアスは目を閉じた。
左腕は熱い。
背中は痛む。
喉には苦い薬が残っている。
それでも、指先にはまだ感覚がある。
生きている。
次は、それだけで済ませない。
そう考えたところで、医務室の白い匂いが遠ざかった。