七月三十一日を待つ必要はない。
エリアスはそう判断した。
フリットウィックは、七月三十一日にロンドンへ案内すると言った。
魔法使いの商店街がある、とも言った。
多くの場合は見えないようになっている、とも言った。
それで十分だった。
ロンドンには、何かがある。
ならば、それをフリットウィックに案内される前に、自分の目で確かめるべきだった。
祖母には、図書館へ行くと言った。
嘘ではない。
ロンドンの図書館にも行くつもりだった。
ただ、本当の目的は別にある。
時計塔。
その名前を、エリアスは十年近く、心の奥に置き続けてきた。
前世の自分が通っていた場所。
届かなかった場所。
追放されるはずだった場所。
憎んでいた。羨んでいた。
それでも、そこにしか答えはないと思っていた。
もっとも、エリアスが知っている時計塔は、すべてではない。
彼は末端の学生だった。
大きな講義室。古い実習室。冷たい廊下。ロンドン本部。郊外に点在する学術都市。
そして、象徴のように記憶に残っている、ビッグ・ベンによく似た時計塔。
エリアスが知っているのは、その程度だった。
本当の中枢がどこにあるのか。
どれほど深い場所まで続いているのか。
誰が何を支配しているのか。
そんなものは、エリアスのような木っ端の学生が知ることではなかった。
だからこそ、痕跡を探すしかない。
ロンドンのどこかに残っているはずの、学術機関の影。
都市の古い地図に残るはずの歪み。
公文書や図書館の片隅に埋もれた、場違いな名前。
隠された空間へ続く、かすかな裂け目。
それらを見つければいい。
ひとつでいい。
ひとつあれば、前世とこの世界はつながる。
セント・オールバンズからロンドンまでは、子ども一人でも行けない距離ではない。
祖母は心配するだろう。
だから、詳しくは言わなかった。
朝の駅は、人で混んでいた。
新聞を抱えた男、眠そうな顔の女、学生らしい若者、ベビーカーを押す母親。
誰もエリアスを見ていない。
十一歳の少年が一人で切符を買い、列車に乗るのは不自然ではある。
だが、騒ぎになるほどではない。
窓際の席に座ると、畑、住宅、道路、駅、また住宅が、順に後ろへ流れていった。
ロンドンへ近づくにつれて、空気は重くなった。
人が増える。建物が増える。音が増える。
だが、エリアスが探しているものは増えなかった。
魔力の流れ。神秘の気配。隠された大きなものの輪郭。
何もないわけではない。
古い教会、石造りの建物、大学、博物館、古い橋。
そういうものには、長い時間が染みついている。
人の祈りや、記憶や、歴史の重みがある。
だが、それは違った。
エリアスが求めているものではない。
もっと深く、もっと組織的で、もっと冷たいもの。
魔術師が隠した教育機関。
神秘を食い込み、積み重ね、若い魔術師を選別する場所。
時計塔。
それがあるはずだった。
まず、大きな図書館へ向かった。
魔術協会。時計塔。神秘学。古い結社。錬金術。魔女狩り。
索引に出てくるのは、歴史と伝説とオカルトばかりだった。
どれも表面だけで、秘匿されたものの匂いがない。
本当に隠した者は、隠しすぎない。
存在しないように見せるのではなく、存在していても意味がないように見せる。
時計塔は、そういう場所だった。
少なくとも、前世のエリアスはそう知っていた。
だから、完全な無痕跡はおかしい。
何かがあるはずだった。
何かが。
昼過ぎ、図書館を出た。
次に向かったのは、古い大学の周辺だった。
石の壁。古い門。蔦の絡む建物。薄暗い廊下。
似ているものはあった。
だが、似ているだけだった。
学生が笑っている。
観光客が写真を撮っている。
売店で絵葉書が売られている。
神秘は、表に晒されていると薄くなる。
そう教わった。
ならば、この場所に濃い神秘があるはずがない。
地図を見て、路地を曲がり、古い建物の裏へ回り、地下へ降りる階段を探し、鉄の門の奥を覗いた。
何度も、呼吸を整えた。
吸う。止める。流す。
背骨へ。胸へ。肩へ。指先へ。
魔力の流れを細く伸ばす。
反応はない。
石は石だった。壁は壁だった。
地下鉄の風は、ただの鉄と埃の臭いだった。
時間だけが過ぎていく。
足が痛くなった。腹も減った。
それでも、歩くのをやめなかった。
この街のどこかにあるはずだ。
あるはずだった。
なければ困る。
それは、信念というより、祈りに近かった。
夕方に近づくころ、ウェストミンスターの方へ出た。
人が多い。
観光客。警官。バス。車。
川の匂い。古い石の匂い。
そして、時計塔。
大きな時計が、空に向かって立っていた。
有名な塔だということは、エリアスも知っていた。
観光本にも載っている。絵葉書にも載っている。
ビッグ・ベン。
正確には鐘の名前だ、と本で読んだこともある。
だが、誰もそんな細かいことは気にしない。
時計塔。
ただの、時計塔。
見上げるしかなかった。
似ていた。
腹立たしいほど、似ていた。
前世で見上げた校舎を、粗悪な玩具にして表へ置いたように見えた。
だが、そこに神秘はなかった。
少なくとも、エリアスが求めていたものはない。
観光客が笑っている。カメラが向けられている。子どもがアイスクリームを落として泣いている。バスが横を通り過ぎる。
時計塔は、堂々とそこに立っていた。
隠れてなどいない。
若い魔術師を選別する学び舎でもない。
隠された空間への目印でもない。
自分が戻るべき場所でもない。
ただの、古い建物だった。
その瞬間、鐘が鳴った。
低く、重い音だった。
空気を震わせる。石を震わせる。胸の奥を震わせる。
一つ。
二つ。
三つ。
音が、頭蓋の内側で反響した。
息を吸おうとして、失敗した。
呼吸が乱れる。
背骨へ流すはずの魔力が、途中で引っかかった。
胸の奥で濁る。肩で詰まる。指先へ届く前に散る。
違う。
そんなはずがない。
もう一度、息を吸う。
止める。流す。流れない。
鐘が鳴る。
また鳴る。
その音は、誰かの声に似ていた。
届かなかった者。
禁じられたものに手を伸ばした者。
やり直せば届くと信じた者。
ならば見よ、と鐘が言っているようだった。
これがお前の選んだ場所だ。
これがお前のたどり着いた世界だ。
石畳の上で、足が止まった。
周囲の人々は、誰も気にしない。
十一歳の少年の中で何が壊れかけているかなど、知るはずもない。
当然だ。
知られるはずがない。
時計塔は、なかった。
いや。まだ、そう断定するのは早い。
ロンドンは広い。
一日歩いただけで見つかるなら、そもそも秘匿など成立しない。
そう考えることはできた。
できたはずだった。
だが、内側のどこかは、もう答えを出していた。
ない。
少なくとも、自分が知っている形では存在しない。
このロンドンは、前世のロンドンではない。
足元が、少し遠くなった。
人の声が、ぼんやりと遠ざかる。
鐘の音だけが残る。
左目の傷に触れた。
古い火傷痕が、熱を持っている気がした。
あの爆心地で目覚めたときと同じように、世界がぐずぐずに溶けていく感覚があった。
前世の知識。十年の訓練。魔術回路。根源。時計塔。
そのすべてを支えていた床が、音もなく抜ける。
奥歯に力が入った。
倒れるな。
ここで倒れれば、ただの迷子だ。ただの子どもだ。
それだけは嫌だった。
呼吸を整える。
吸う。止める。流す。
流れは戻らない。
それでも、形だけは繰り返した。
何度も。何度も。
やがて、胸のざわつきが少しだけ収まった。
答えは出ていない。
むしろ、分からないことが増えた。
けれど、ひとつだけ確かだった。
フリットウィックが言った七月三十一日を待つしかない。
ロンドンには、何かがある。
だが、それはエリアスの知る時計塔ではない。
少なくとも、今日の彼には見つけられなかった。
帰らなければならない。
マーガレットが心配する。
もう一度だけ、時計塔を見上げた。
大きな時計の針は、正確に時を刻んでいる。
ただそれだけだった。
背を向け、駅へ向かって歩き出す。
ビッグ・ベンの鐘の音は、しばらく耳の奥に残っていた。
祝福ではなかった。罰でもなかった。
ただ、やり直しを望んだ者に、やり直した先を見せつける音だった。
本日2話投稿の予定です。
2本目は17:45更新となります。