ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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漏れ鍋

 

 

 

 

七月三十一日。

 

フリットウィックは、約束の時間より少し早く来た。

 

マーガレットは朝から落ち着かなかった。

紅茶を淹れる。冷める。淹れ直す。また冷める。

それを何度か繰り返してから、とうとうカップを棚へ戻した。

 

玄関の近くでは、鞄の中身をもう一度確かめていた。

手紙。持参品リスト。少しの現金。メモ帳。鉛筆。ロンドンの地図。

必要最低限だった。

 

「忘れ物はない?」

 

マーガレットが聞いた。

 

「ないよ」

「本当に?」

「うん」

「お金は?」

「ある」

「切符は?」

「今日はフリットウィック先生がいる」

「そう、ね」

 

会話は、そこで途切れた。

マーガレットは、何かを言いたそうにしていた。

 

行かないで、と言いたいのかもしれない。

気をつけて、と言いたいのかもしれない。

それとも、もっと別の言葉かもしれない。

 

分からなかった。

分かるのは、祖母が自分を手放したくないということだけだった。

 

呼び鈴が鳴った。

マーガレットの肩が震える。

 

扉を開けると、そこにはフリットウィックが立っていた。

小柄な体。明るい目。整った服装。

そして、穏やかな笑み。

 

前と同じだった。

ただ、今日はどこか外出向きに見えた。

 

「おはようございます、レン君。ヘイルさん」

「おはようございます」

 

マーガレットは少し遅れて、小さく頭を下げた。

フリットウィックは、その不安を見落とさなかった。

 

「今日は、必要な道具をそろえるだけです。夕方までには必ずお送りします」

 

「……お願いします」

マーガレットの声は細かった。

「この子を、どうか」

 

そこで言葉が切れた。

 

フリットウィックは、笑わなかった。

 

「責任を持って」

 

短い言葉だった。

それで、マーガレットは少しだけうなずいた。

 

二人のやり取りから、祖母がこの小柄な教師を信じているわけではないことは分かった。

だが、完全に拒むこともできない。

それだけは分かった。

 

セント・オールバンズからロンドンへ向かう道のりで、フリットウィックは多くを話さなかった。

無口なのではない。

必要なことだけを、必要な時に話す人間だった。

 

駅。切符。人の流れ。乗り換え。

どれも、フリットウィックの動きには無駄がなかった。

小柄な体は人混みに紛れやすい。

だが、見失うことはなかった。

 

彼は、人にぶつからない。立ち止まらない。急がない。

なのに、気づけば人混みの先にいる。

 

空間の読み方がうまい。

 

いや、読んでいるだけではない。

周囲の動きに、自分の動きを合わせている。

流れを押しのけず、流れの隙間を抜ける。

 

教師というより、決闘家の歩き方に近い。

エリアスはそう判断した。

 

ロンドンへ着くと、空気が変わった。

以前、一人で来た時と同じ街だった。

人が多い。音が多い。建物が多い。

だが、その日は違って見えた。

 

フリットウィックが隣にいる。

それだけで、街の表面に、薄い膜が張っているように思えた。

 

「どこへ行くんですか?」

 

そう尋ねると、フリットウィックは少しだけ楽しそうにした。

 

「とても古いパブです」

「パブ?」

「ええ」

「学校用品を買うために?」

「そこが入口なのです」

 

入口。

それ以上は聞かなかった。

入口という言葉には、説明よりも観察が必要だった。

 

やがて、フリットウィックは大通りから少し外れた場所で足を止めた。

 

店が並んでいる。

本屋。レコード店。喫茶店。古い建物。看板。人の流れ。

何もない。

少なくとも、普通の目に映る範囲では。

 

フリットウィックは、何気ない様子で歩き出した。

その後に続いた瞬間、世界の輪郭が少しだけずれた。

 

ほんの少しだった。

目眩に近い。

だが、目眩ではない。

 

視界の端にあるはずの建物が、少し遅れて追いついてくる。

人の流れが、そこだけ避けている。

 

誰も見ていないのではない。

見る、という行為そのものが、そこへ届かないように曲げられている。

 

息が止まった。

 

認識阻害。

いや、それだけではない。

そこにあるものを、ないものとして処理させている。

しかも、無理やりではない。

自然に。日常の一部として。

 

フリットウィックは振り返らなかった。

 

「こちらです」

 

その声に導かれ、古い扉の前に立った。

看板があった。

 

 

漏れ鍋

 

奇妙な名前だった。

 

薄汚れた、小さなパブ。

外から見れば、それ以上のものには見えない。

 

古い。暗い。狭い。看板もくすんでいる。

窓も、通りを歩く人間の目を引くようにはできていない。

 

だが、分かった。

 

目立たないのではない。

見落とすように作られている。

 

フリットウィックが扉を開けた。

 

中へ入った瞬間、空気が変わった。

 

古い木の匂い。酒の匂い。火の匂い。煮込み料理の匂い。湿った外套の匂い。

そして、人の声。

 

狭い店内には、思ったより多くの客がいた。

カウンターで酒を飲む男。隅の席で新聞を広げている老婆。顔を寄せ合って何かを話す二人組。

 

壁際には、古い額縁がいくつも掛けられている。

誰かの肖像画。薄く色あせた紙。手配書のように見えるものもあった。

 

普通のパブだ。

そう言い切るには、あまりにも普通でなかった。

 

新聞の写真が動いていた。

紙面の中で、小さな男が帽子を押さえ、こちらに背を向けて歩き去る。

文字の端では、何かの広告がちかちかと色を変えている。

 

カウンターの奥では、使い終わったグラスがひとりでに水へ沈んだ。

泡が立つ。

布巾が勝手に動き、濡れた木の台を拭く。

 

棚の端では、瓶が一本、音を立てずに元の場所へ戻った。

 

客席のすぐそばではない。

カウンターの内側。棚の陰。客の手が届きにくい場所。

そこでだけ、物がひとりでに動いている。

 

偶然ではない。

風が吹いているわけでもない。

紐や仕掛けの類にも見えない。

 

テーブルの一つでは、ティースプーンがカップの中で独りでにくるくると回っていた。

主は新聞を読んでいて、手を触れていない。

それでも砂糖は溶け、湯気はゆっくり揺れている。

 

足が止まった。

 

 

――これは、何だ。

 

 

神秘とは、秘匿されるべきものだった。

隠し、薄めず、守り、継承する。

それが魔術師の常識だった。

 

なのに、ここでは違う。

 

カップを混ぜる。グラスを洗う。棚へ戻す。新聞の写真を動かす。

そんなことに、何らかの術が使われている。

 

無造作に。雑に。

何でもない日常の作業として。

 

喉が、少しだけ乾いた。

 

これは自分がよく知る魔術結社ではない。

結社の隠れ家でもない。

研究者たちの密会場でもない。

儀式の前室でもない。

 

パブだ。

 

客は酒を飲み、新聞を読み、愚痴を言い、食事をしている。

そのすべての隣に、あの手紙が魔法と呼んでいたものがある。

 

隠されているのは、店そのものだけだ。

 

一度内側へ入れば、神秘は隠されていない。

少なくとも、隠しているようには見えない。

消費され、使われ、生活の一部になっている。

 

魔術師が見れば卒倒するかもしれない。

少なくとも、前世のエリアスなら怒ったか、笑ったか、まずは術式の出所を疑った。

 

今のエリアスは、どれもできなかった。

 

フリットウィックが少しだけ横を見る。

 

「驚きましたか?」

 

「……はい」

 

正直に答えるしかなかった。

 

「かなり」

「それはよろしい」

 

なぜそれがよろしいのか、分からなかった。

 

店内は、妙にざわついていた。

エリアスたちが入る少し前まで、何かがあったようだった。

 

人々はまだ扉の方を見ている。

奥の方で、誰かが興奮気味に話している。

カウンターの近くには、妙な熱が残っていた。

祝祭の後に似ている。

だが、祭りそのものはもう終わっていた。

 

「本当に、あの子だったのか?」

「額の傷を見たぞ」

「ハグリッドが連れていた」

「ポッターだ」

 

小さな声が、いくつか耳に入った。

 

ポッター。

 

その名は、頭に残った。

知らない名前だ。

だが、この店にいる者たちの反応を見る限り、ただの子どもではない。

 

店の奥へ視線を向けると、裏口へ通じる方で、巨人のように大きな男の背中が見えた。

その前に、小柄な少年の後ろ姿が一瞬だけ見える。

 

黒い髪。細い肩。

それだけだった。

 

すぐに二人は、店の奥へ消えた。

追う理由はない。

まだ。

 

けれど、奇妙なものが残っていた。

少年が通ったあたりの空気が、少しだけ違っている。

強い魔力ではない。

むしろ、魔力の形としては掴みにくい。

 

呪いでもない。防壁でもない。

祝福というには、あまりに静かだ。

だが、確かに何かがあった。

誰かを守るために、世界の側が少しだけ歪んだような痕跡。

 

眉が寄った。

 

説明できない。

説明できないものは嫌いだった。

 

「レン君?」

 

フリットウィックが声をかけた。

 

「今の少年は?」

「ふむ」

 

フリットウィックは、少し考えるような顔をした。

 

「いずれ、学校で会うことになるでしょう」

 

答えになっていない。

だが、答えないという選択もまた情報だった。

 

フリットウィックは、その少年について、この場で説明するつもりがない。

 

有名すぎるからか。危険だからか。

それとも、十一歳の子ども同士として会わせるべきだと思っているのか。

判断できない。

 

ただ、店内のざわめきと、空気に残った不可解な痕跡は、頭の中に残った。

 

ポッター。

額の傷。

ハグリッド。

そして、説明できない保護のようなもの。

 

メモ帳を取り出したくなった。

だが、やめた。

今は観察する時だ。

 

フリットウィックは、店の奥へ進んだ。

 

中庭のような場所に出る。

 

そこには、ただのレンガの壁があった。

少なくとも、エリアスにはそう見えた。

 

フリットウィックは、壁の前で立ち止まった。

 

「さて」

 

彼は、少しだけ楽しそうに言った。

 

「お楽しみはここからが本番ですよ」

 

壁を見る。

レンガ。古い。煤けている。ところどころ欠けている。

ただの壁に見える。

だが、ここまで来て、ただの壁であるはずがなかった。

 

フリットウィックが、傘立ての上を示し、いくつかのレンガを軽く叩いた。

すると、壁が動いた。

レンガが、内側へ折りたたまれていく。

音もなく、滑らかに。

まるで、最初からそこに道があったかのように。

 

壁の向こうに、通りが現れた。

 

狭く、曲がりくねった通り。看板。店。人影。色とりどりの窓。

まさに魔法使いたちの商店街と呼べる光景が広がっていた。

 

息を忘れた。

 

ロンドンの裏側に、街があった。

隠された部屋ではない。

結社の地下室でもない。

密会のための場所でもない。

 

街だ。

 

生活がある。商売がある。人が行き交っている。

 

これは、魔術結社のような秘密組織ではない。

文明だ。

エリアスは、そう直感した。

 

フリットウィックが、横で朗らかにに言った。

 

「ようこそ魔法使いの街、ダイアゴン横丁へ」

 

返事は出なかった。

 

彼の中で、また一つ、前提が崩れていた。

 

 

 

 

 




明日も2話投稿予定です。
1本目は11:45更新です。
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