ダイアゴン横丁は、街だった。
その事実が、エリアスにはまだうまく飲み込めなかった。
狭い通りに、店が並んでいる。
鍋を売る店。薬瓶を並べた店。羽根ペンの店。本屋。古びた看板。色あせた窓。曲がった煙突。
人々が歩いている。
ローブを着た老人。帽子に羽根飾りをつけた女。小さな子どもを連れた夫婦。大きな包みを抱えた若者。
誰も、隠れていない。
少なくとも、この通りの中では。
歩きながら、目だけを動かす。
看板の文字。人々の服装。店先に並ぶ品。
杖のような細い棒を持つ者。何かの革袋から硬貨を出す者。通りの隅で、新聞を売っている小柄な魔女。
すべてが異様だ。
だが、一番異様なのは、それらが当たり前の顔で存在していることだった。
「まずは銀行へ行きましょう」
フリットウィックが言う。
「銀行?」
その言葉だけは、ひどく普通だった。
普通すぎて、かえって信用できない。
「君の学用品をそろえるには、お金が必要です」
「お金なら持ってきましたよ」
鞄には、マーガレットから預かった紙幣と硬貨が入っている。
少なくとも、普通の店で買い物をするには困らないはずだ。
フリットウィックは、少しだけ困ったように笑った。
「それは、こちらでは使えません」
「こちら?」
「ええ。魔法使いにも通貨があるのです」
黙るしかなかった。
銀行。商店街。学校。
そして、独自の通貨。
また一つ、秘密結社の組織という仮説が遠のいた。
同時に、もっと現実的な問題が浮かんだ。
この通りでポンドが使えないのなら、どうやって教科書を買うのか。
ローブも、杖も、大釜も、持参品リストには必要なものが並んでいた。
だが、魔法使いの金など持っているはずがない。
マーガレットから預かった紙幣と硬貨は、急に頼りない紙と金属に見えた。
フリットウィックは、その沈黙の意味に気づいたようだった。
「実は、レン君の家名義の金庫が残っています」
「僕の家の?」
「ええ。君のお父上の家系ですね」
父。
オーウェン・レン。
エリアスの記憶にはいない人。
だが、姓だけは残っている。
レン(Wren)
ミソサザイという、イギリスに古くからいる小さな鳥の名を冠する家名だった。
知恵の鳥
神秘の鳥
鳥の王
そう呼ばれてきたことを、エリアスは祖母からではなく、本で知った。
ただ、それは言葉の由来だと思っていた。
古い名前。古い鳥。古い民間伝承。
それ以上のものではない、と。
けれど、フリットウィックの口ぶりからすれば、レンという家は、この魔法使いの社会でも古くから続いていたらしい。
その事実は、少しだけ居心地が悪かった。
父方の家について、マーガレットは多くを語らなかった。
語りたがらなかった、という方が正しい。
魔法に関わるものは、彼女にとってすべて痛みに近いのだろう。
フリットウィックは、通りの奥へ進んだ。
やがて、白く大きな建物が見えた。
周囲の店とは違う。
背が高い。石が白い。入口には階段がある。
扉は磨かれていて、両脇には制服のようなものを着た小柄な存在が立っていた。
人間ではない。
エリアスは、すぐにそう判断した。
背は低い。耳は長い。指も長い。肌の色も、人間とは違う。
顔立ちは鋭く、目つきは値踏みするようだった。
「ゴブリンです」
フリットウィックが顔をよせて言った。
エリアスの視線に気づいたのだろう。
童話や古い民間伝承の中で語られてきたはずの生き物が、今、目の前に立っている。
それも、洞窟の奥や森の影ではない。
白い石造りの銀行の入口で、制服のような服を着て、客を値踏みしていた。
「この銀行、グリンゴッツを管理しています」
グリンゴッツ。
白い建物を見上げる。
銀行というインフラの中心を、人間ではない種族が管理している。
それも、隠れてではなく、堂々と。
この社会では、それが成り立っているらしい。
入口のそばには、文字が刻まれていた。
入る者よ、心せよ。
その文句を読むにつれて、目が細くなった。
盗人への警告。所有権への警告。契約を破る者への警告。
詩の形をしているが、中身は呪いに近い。
少なくとも、ただの飾りではない。
フリットウィックは静かに階段を上がった。
その後に続くと、ゴブリンの一人がこちらを見た。
ただ見たのではない。
測った。
年齢。服装。傷。持ち物。隣にいるフリットウィック。
それらを一瞬で値踏みした目だった。
その視線は、嫌いではなかった。
不親切だが、明確だ。
少なくとも、哀れみよりはずっといい。
中へ入ると、広い大理石のホールがあった。
長いカウンター。高い天井。多くのゴブリン。書類。羽根ペン。金属の音。
カリカリとペンが走る。硬貨が数えられる。金庫の鍵が置かれる。
誰かが低い声で何かを確認する。
ここは、神殿に近い。エリアスはそう思った。
金を祀る神殿ではない。契約を祀る場所だ。
誰が何を持ち、誰が何を失い、何が誰のものなのか。
それを記録し、守り、破った者を罰する。銀行というより、巨大な契約の装置。
そう見えた。
フリットウィックは、窓口のゴブリンに話しかけた。
「エリアス・レン君です。レン家名義の金庫を確認したい」
ゴブリンは、眼鏡の奥からエリアスを見た。
「証明は」
「ホグワーツからの通知と、こちらの書類を」
フリットウィックが、何枚かの紙を差し出した。
横から見えた紙には、自分の名前と、両親の名前が記されている。
オーウェン・レン。
エレノア・ヘイル・レン。
そして、見慣れない印。
紙そのものに、何か薄い圧力があった。
ただの署名ではない。
誰かが嘘を書き込めば、紙の側が拒むような気配。
呼吸が浅くなる。
契約紙か。
いや、そう断定するのは早い。
だが、少なくとも、マグルの役所書類ではない。
ゴブリンは書類を読み、エリアスの顔を見た。
特に左目の傷を見た。
今度は、隠さなかった。
「レン家の最後の子か」
その声には、同情がなかった。
ただの確認だった。
「たぶん」
フリットウィックがわずかに眉を動かした。
ゴブリンは笑った。
歯が鋭かった。
「よろしい。曖昧な答えは嫌いではない。確かめに行けば分かる」
鍵が出された。
小さな金色の鍵だった。
フリットウィックが受け取る。
「こちらへ」
別のゴブリンが案内に立った。
奥へ進むにつれて、床が変わり、空気が変わった。
やがて、小さなトロッコのようなものに乗せられる。
眉が寄った。
「これで移動するんですか?」
「ええ」
フリットウィックは、どこか楽しそうに答えた。
「初めての方には少々刺激が強いかもしれません」
刺激。
その言葉の意味は、すぐに分かった。
トロッコは走り出した。
速い。
想像よりも、ずっと速い。
石の壁が左右に流れる。
灯りが後ろへ飛んでいく。
風が顔を打つ。腹の奥が浮く。
下へ。横へ。また下へ。曲がる。落ちる。上がる。
歪な洞窟の中を縦横無尽にノーブレーキで進む。
歯を喰いしばり、手すりを握る手に思わず力が入る。
意地でも叫びはしなかった。
隣でフリットウィックは平然としている。
案内役のゴブリンなど、退屈そうですらあった。
地下。深い地下。
銀行の下に、迷宮のような空間が広がっている。
認めざるを得なかった。
地上のホールは表の顔にすぎない。
本体は下だ。
金庫。通路。鍵。扉。見えない防衛。
これは財産の保管庫であると同時に、侵入者を殺すための場所でもある。
エリアスはそう判断した。
やがて、トロッコは止まった。
膝に少しだけ力が入らなくなっている。
顔には出さない。
ゴブリンは通路を進み、ひとつの扉の前で止まった。
大きくはない。むしろ、小さい。
隣に並ぶいくつかの扉に比べても、控えめだった。
「こちらがレン家の金庫です」
ゴブリンが言った。
フリットウィックが鍵を差し込む。
金属音がした。
扉が開く。
中は、暗かった。
灯りが入る。
金貨が山のように積まれている。
わけではなかった。
宝石が箱いっぱいにある。
わけでもなかった。
古い袋がいくつか。小さな木箱。数冊の古い帳面。丸められた羊皮紙。
そして、硬貨。
少なくはない。
十一歳の少年が学用品をそろえるには、十分だろう。
だが、名門の財産というほどではない。
秘宝もない。強大な術式もない。先祖代々の神秘が眠っているようにも見えない。
ただ、古い。
それだけだった。
一歩近づき、袋の一つを開ける。
金貨。銀貨。銅貨。
形も大きさも、マグルの硬貨とは違う。
「ガリオン、シックル、クヌートです」
フリットウィックが説明した。
「これらが、こちらの世界での通貨となります。一ガリオンは十七シックル。一シックルは二十九クヌート。最初は少し面倒に感じるかもしれませんね」
硬貨を指先で転がすと、重さも、刻印も、縁の削れ方も、これまで使ってきたポンドとはまるで違った。
マーガレットから預かった紙幣と硬貨は、ここではただの紙と金属に近い。
銀行があり、通貨があり、商店街があり、学校がある。
ますます、秘密結社というレベルではない。
もはや一つの世界だ。
木箱を開けると、中には銀の指輪が一つ入っていた。
装飾は少ない。
鳥の羽のような細工が、輪の内側に小さく刻まれている。
フリットウィックは、それを見ても何も言わなかった。
ゴブリンも興味を示さない。
つまり、価値のあるものではない。
少なくとも、彼らの基準では。
指輪を戻し、次に古い帳面を開く。
家名。支出。入金。学校用品。修繕費。治療費。葬儀。
そこで、手が止まった。
葬儀。
父方の祖父母の名前らしきものがある。
戦争。
備考にはそんな単語もあった。
詳しいことは分からない。
だが、レン家が古いだけで無傷だったわけではないことは分かった。
古い家。
だが、残っているものは少ない。
誇る血筋はあったのだろう。名前もあったのだろう。歴史もあったのだろう。
しかし、それだけでは誰も守れなかった。
祖父母も。父も。母も。
硬貨の入った袋を見下ろす。
これが、レン家の残したもの。
学用品を買うための金。少しの記録。古い指輪。
それだけ。
失望はなかった。
いや、少しはあった。
どこかで期待していたのかもしれない。
古い家名。
父方の血。
レンという姓。
そこに、自分の欠けたものを埋める何かがあるのではないかと。
だが、なかった。
少なくとも、この金庫の中にはない。
袋を一つ取った。
「これで足りますか?」
「十分です。今すぐにすべてを持ち出す必要はないですよ」
「そうですね。そのつもりはないです」
ゴブリンが薄く笑った。
「賢明ですな」
金庫の中をもう一度見る。
小さな空間。古い記録。少しの金。
由緒はある。
だが、力はない。
それは、少しだけ滑稽だった。
前世で、血統に届かないことに絶望した。
そして今世では、古い血の端に生まれた。
だが、古い血は、何も救っていなかった。
金庫の扉が閉まる音がした。
重い音だった。
終わりの音ではない。
期待が、ひとつ減った音だった。
トロッコで地上へ戻る間、誰も話さなかった。
フリットウィックも何も言わない。
ゴブリンは退屈そうに前を見ている。
風が顔を打つ。
通路の灯りが流れていく。
膝の上の袋を見下ろす。
レン家。古い名前。
だが、それだけ。
それだけでは、根源には届かない。
それだけでは、両親も守れない。
それだけでは、自分の魔術回路一本すら生まれない。
地上のホールへ戻ると、銀行の喧騒が戻ってきた。
羽根ペンの音。硬貨の音。ゴブリンの声。契約の神殿。
その白いホールを、もう一度見る。
この世界には、この世界の規則がある。
通貨。金庫。種族。契約。
それを知らずに歩けば、すぐに足を取られる。
フリットウィックが言った。
「次は、ローブを仕立てに行きましょうか。受け取りまでに時間もかかることですし」
うなずくと、袋の中で硬貨が小さく鳴った。
それは、財宝の音というより、現実の音に聞こえた。
本日も2話投稿予定です。
2本目は17:45更新です。