ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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魔法使いの街

 

 

 

 

ダイアゴン横丁は、街だった。

その事実が、エリアスにはまだうまく飲み込めなかった。

 

狭い通りに、店が並んでいる。

鍋を売る店。薬瓶を並べた店。羽根ペンの店。本屋。古びた看板。色あせた窓。曲がった煙突。

 

人々が歩いている。

ローブを着た老人。帽子に羽根飾りをつけた女。小さな子どもを連れた夫婦。大きな包みを抱えた若者。

 

誰も、隠れていない。

少なくとも、この通りの中では。

 

歩きながら、目だけを動かす。

 

看板の文字。人々の服装。店先に並ぶ品。

杖のような細い棒を持つ者。何かの革袋から硬貨を出す者。通りの隅で、新聞を売っている小柄な魔女。

 

すべてが異様だ。

だが、一番異様なのは、それらが当たり前の顔で存在していることだった。

 

「まずは銀行へ行きましょう」

 

フリットウィックが言う。

 

「銀行?」

 

その言葉だけは、ひどく普通だった。

普通すぎて、かえって信用できない。

 

「君の学用品をそろえるには、お金が必要です」

「お金なら持ってきましたよ」

 

鞄には、マーガレットから預かった紙幣と硬貨が入っている。

少なくとも、普通の店で買い物をするには困らないはずだ。

 

フリットウィックは、少しだけ困ったように笑った。

 

「それは、こちらでは使えません」

「こちら?」

「ええ。魔法使いにも通貨があるのです」

 

黙るしかなかった。

 

銀行。商店街。学校。

そして、独自の通貨。

 

また一つ、秘密結社の組織という仮説が遠のいた。

同時に、もっと現実的な問題が浮かんだ。

 

この通りでポンドが使えないのなら、どうやって教科書を買うのか。

 

ローブも、杖も、大釜も、持参品リストには必要なものが並んでいた。

だが、魔法使いの金など持っているはずがない。

マーガレットから預かった紙幣と硬貨は、急に頼りない紙と金属に見えた。

 

フリットウィックは、その沈黙の意味に気づいたようだった。

 

「実は、レン君の家名義の金庫が残っています」

「僕の家の?」

「ええ。君のお父上の家系ですね」

 

父。

オーウェン・レン。

エリアスの記憶にはいない人。

だが、姓だけは残っている。

 

レン(Wren)

 

ミソサザイという、イギリスに古くからいる小さな鳥の名を冠する家名だった。

 

知恵の鳥

神秘の鳥

鳥の王

 

そう呼ばれてきたことを、エリアスは祖母からではなく、本で知った。

ただ、それは言葉の由来だと思っていた。

古い名前。古い鳥。古い民間伝承。

それ以上のものではない、と。

 

けれど、フリットウィックの口ぶりからすれば、レンという家は、この魔法使いの社会でも古くから続いていたらしい。

その事実は、少しだけ居心地が悪かった。

 

父方の家について、マーガレットは多くを語らなかった。

語りたがらなかった、という方が正しい。

魔法に関わるものは、彼女にとってすべて痛みに近いのだろう。

 

フリットウィックは、通りの奥へ進んだ。

 

やがて、白く大きな建物が見えた。

 

周囲の店とは違う。

背が高い。石が白い。入口には階段がある。

扉は磨かれていて、両脇には制服のようなものを着た小柄な存在が立っていた。

 

人間ではない。

エリアスは、すぐにそう判断した。

 

背は低い。耳は長い。指も長い。肌の色も、人間とは違う。

顔立ちは鋭く、目つきは値踏みするようだった。

 

「ゴブリンです」

 

フリットウィックが顔をよせて言った。

エリアスの視線に気づいたのだろう。

 

童話や古い民間伝承の中で語られてきたはずの生き物が、今、目の前に立っている。

それも、洞窟の奥や森の影ではない。

白い石造りの銀行の入口で、制服のような服を着て、客を値踏みしていた。

 

「この銀行、グリンゴッツを管理しています」

 

グリンゴッツ。

白い建物を見上げる。

 

銀行というインフラの中心を、人間ではない種族が管理している。

それも、隠れてではなく、堂々と。

この社会では、それが成り立っているらしい。

 

入口のそばには、文字が刻まれていた。

 

 

入る者よ、心せよ。

 

 

その文句を読むにつれて、目が細くなった。

 

盗人への警告。所有権への警告。契約を破る者への警告。

詩の形をしているが、中身は呪いに近い。

少なくとも、ただの飾りではない。

 

フリットウィックは静かに階段を上がった。

 

その後に続くと、ゴブリンの一人がこちらを見た。

 

ただ見たのではない。

測った。

年齢。服装。傷。持ち物。隣にいるフリットウィック。

それらを一瞬で値踏みした目だった。

 

その視線は、嫌いではなかった。

不親切だが、明確だ。

少なくとも、哀れみよりはずっといい。

 

中へ入ると、広い大理石のホールがあった。

 

長いカウンター。高い天井。多くのゴブリン。書類。羽根ペン。金属の音。

カリカリとペンが走る。硬貨が数えられる。金庫の鍵が置かれる。

誰かが低い声で何かを確認する。

 

ここは、神殿に近い。エリアスはそう思った。

金を祀る神殿ではない。契約を祀る場所だ。

 

誰が何を持ち、誰が何を失い、何が誰のものなのか。

それを記録し、守り、破った者を罰する。銀行というより、巨大な契約の装置。

そう見えた。

 

フリットウィックは、窓口のゴブリンに話しかけた。

 

「エリアス・レン君です。レン家名義の金庫を確認したい」

 

ゴブリンは、眼鏡の奥からエリアスを見た。

 

「証明は」

「ホグワーツからの通知と、こちらの書類を」

 

フリットウィックが、何枚かの紙を差し出した。

横から見えた紙には、自分の名前と、両親の名前が記されている。

 

オーウェン・レン。

エレノア・ヘイル・レン。

そして、見慣れない印。

紙そのものに、何か薄い圧力があった。

 

ただの署名ではない。

誰かが嘘を書き込めば、紙の側が拒むような気配。

 

呼吸が浅くなる。

 

契約紙か。

いや、そう断定するのは早い。

だが、少なくとも、マグルの役所書類ではない。

 

ゴブリンは書類を読み、エリアスの顔を見た。

特に左目の傷を見た。

今度は、隠さなかった。

 

「レン家の最後の子か」

 

その声には、同情がなかった。

ただの確認だった。

 

「たぶん」

 

フリットウィックがわずかに眉を動かした。

 

ゴブリンは笑った。

歯が鋭かった。

 

「よろしい。曖昧な答えは嫌いではない。確かめに行けば分かる」

 

鍵が出された。

小さな金色の鍵だった。

 

フリットウィックが受け取る。

 

「こちらへ」

 

別のゴブリンが案内に立った。

 

奥へ進むにつれて、床が変わり、空気が変わった。

 

やがて、小さなトロッコのようなものに乗せられる。

 

眉が寄った。

 

「これで移動するんですか?」

「ええ」

 

フリットウィックは、どこか楽しそうに答えた。

 

「初めての方には少々刺激が強いかもしれません」

 

刺激。

その言葉の意味は、すぐに分かった。

 

トロッコは走り出した。

 

速い。

想像よりも、ずっと速い。

 

石の壁が左右に流れる。

灯りが後ろへ飛んでいく。

風が顔を打つ。腹の奥が浮く。

下へ。横へ。また下へ。曲がる。落ちる。上がる。

歪な洞窟の中を縦横無尽にノーブレーキで進む。

 

歯を喰いしばり、手すりを握る手に思わず力が入る。

意地でも叫びはしなかった。

 

隣でフリットウィックは平然としている。

案内役のゴブリンなど、退屈そうですらあった。

 

地下。深い地下。

銀行の下に、迷宮のような空間が広がっている。

 

認めざるを得なかった。

地上のホールは表の顔にすぎない。

本体は下だ。

 

金庫。通路。鍵。扉。見えない防衛。

これは財産の保管庫であると同時に、侵入者を殺すための場所でもある。

エリアスはそう判断した。

 

やがて、トロッコは止まった。

 

膝に少しだけ力が入らなくなっている。

顔には出さない。

 

ゴブリンは通路を進み、ひとつの扉の前で止まった。

 

大きくはない。むしろ、小さい。

隣に並ぶいくつかの扉に比べても、控えめだった。

 

「こちらがレン家の金庫です」

 

ゴブリンが言った。

 

フリットウィックが鍵を差し込む。

金属音がした。

 

扉が開く。

 

中は、暗かった。

 

灯りが入る。

 

金貨が山のように積まれている。

わけではなかった。

 

宝石が箱いっぱいにある。

わけでもなかった。

 

古い袋がいくつか。小さな木箱。数冊の古い帳面。丸められた羊皮紙。

そして、硬貨。

 

少なくはない。

十一歳の少年が学用品をそろえるには、十分だろう。

だが、名門の財産というほどではない。

 

秘宝もない。強大な術式もない。先祖代々の神秘が眠っているようにも見えない。

 

ただ、古い。

それだけだった。

 

一歩近づき、袋の一つを開ける。

 

金貨。銀貨。銅貨。

形も大きさも、マグルの硬貨とは違う。

 

「ガリオン、シックル、クヌートです」

 

フリットウィックが説明した。

 

「これらが、こちらの世界での通貨となります。一ガリオンは十七シックル。一シックルは二十九クヌート。最初は少し面倒に感じるかもしれませんね」

 

硬貨を指先で転がすと、重さも、刻印も、縁の削れ方も、これまで使ってきたポンドとはまるで違った。

 

マーガレットから預かった紙幣と硬貨は、ここではただの紙と金属に近い。

 

銀行があり、通貨があり、商店街があり、学校がある。

ますます、秘密結社というレベルではない。

もはや一つの世界だ。

 

木箱を開けると、中には銀の指輪が一つ入っていた。

装飾は少ない。

鳥の羽のような細工が、輪の内側に小さく刻まれている。

 

フリットウィックは、それを見ても何も言わなかった。

ゴブリンも興味を示さない。

 

つまり、価値のあるものではない。

少なくとも、彼らの基準では。

 

指輪を戻し、次に古い帳面を開く。

家名。支出。入金。学校用品。修繕費。治療費。葬儀。

そこで、手が止まった。

 

葬儀。

父方の祖父母の名前らしきものがある。

 

戦争。

備考にはそんな単語もあった。

 

詳しいことは分からない。

だが、レン家が古いだけで無傷だったわけではないことは分かった。

 

古い家。

だが、残っているものは少ない。

 

誇る血筋はあったのだろう。名前もあったのだろう。歴史もあったのだろう。

しかし、それだけでは誰も守れなかった。

祖父母も。父も。母も。

 

硬貨の入った袋を見下ろす。

これが、レン家の残したもの。

学用品を買うための金。少しの記録。古い指輪。

それだけ。

 

失望はなかった。

いや、少しはあった。

どこかで期待していたのかもしれない。

 

古い家名。

父方の血。

レンという姓。

そこに、自分の欠けたものを埋める何かがあるのではないかと。

 

だが、なかった。

少なくとも、この金庫の中にはない。

 

袋を一つ取った。

 

「これで足りますか?」

「十分です。今すぐにすべてを持ち出す必要はないですよ」

「そうですね。そのつもりはないです」

 

ゴブリンが薄く笑った。

 

「賢明ですな」

 

金庫の中をもう一度見る。

小さな空間。古い記録。少しの金。

由緒はある。

だが、力はない。

それは、少しだけ滑稽だった。

 

前世で、血統に届かないことに絶望した。

そして今世では、古い血の端に生まれた。

だが、古い血は、何も救っていなかった。

 

金庫の扉が閉まる音がした。

重い音だった。

終わりの音ではない。

期待が、ひとつ減った音だった。

 

トロッコで地上へ戻る間、誰も話さなかった。

フリットウィックも何も言わない。

ゴブリンは退屈そうに前を見ている。

 

風が顔を打つ。

通路の灯りが流れていく。

 

膝の上の袋を見下ろす。

レン家。古い名前。

だが、それだけ。

 

それだけでは、根源には届かない。

それだけでは、両親も守れない。

それだけでは、自分の魔術回路一本すら生まれない。

 

地上のホールへ戻ると、銀行の喧騒が戻ってきた。

羽根ペンの音。硬貨の音。ゴブリンの声。契約の神殿。

その白いホールを、もう一度見る。

 

この世界には、この世界の規則がある。

通貨。金庫。種族。契約。

それを知らずに歩けば、すぐに足を取られる。

 

フリットウィックが言った。

 

「次は、ローブを仕立てに行きましょうか。受け取りまでに時間もかかることですし」

 

うなずくと、袋の中で硬貨が小さく鳴った。

 

それは、財宝の音というより、現実の音に聞こえた。

 

 

 

 

 




本日も2話投稿予定です。
2本目は17:45更新です。
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