ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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静かな夏

 

 

 

 

セント・オールバンズの朝は、ダイアゴン横丁よりもずっと静かだった。

静かすぎるほどだった。

 

机の上には、ホグワーツの教科書が積まれている。

本、羊皮紙、羽根ペン、インク瓶、真鍮のはかり、薬瓶の箱。

畳まれたローブと黒い尖がり帽子、安全手袋、そして細長い杖の箱。

 

部屋の一角だけが、別の世界から切り取られて置かれたようだった。

 

昨日のことを思い返すと、まだ少し頭が重くなる。

杖を買ったあとも、買い物は終わらなかった。

むしろ、そこからが長かった。

 

指定教科書をそろえるだけで、腕が沈むほどの重さになった。

 

大鍋の店では、ピューター製二号サイズという言葉が、紙の上で見るよりずっと大きな現実として目の前に現れた。

薬瓶の店では、ガラスとクリスタルの違いを説明されたが、どちらも割れれば終わりではないのかと思った。

 

真鍮のはかりは小さいくせに、妙に重かった。

羊皮紙は、学校のノートよりずっと高かった。

インクは種類が多すぎた。

黒いローブは、見た目より暑そうだった。

 

それでも、フリットウィックは一つずつ確認してくれた。

 

急かさない。省かない。

けれど、余計なことも言わない。

 

必要なものを必要な順にそろえていく手際は、教師というより、遠征準備に慣れた魔法使いのものだった。

 

ダイアゴン横丁を出るころには、日が傾いていた。

店の窓に橙色の光が映り、ローブの裾が夕方の風に揺れていた。

フリットウィックに連れられて漏れ鍋を抜け、ロンドンの普通の通りへ戻った瞬間、世界の音が変わった。

 

車。靴音。信号。人の話し声。

さっきまでの通りが嘘のように、マグルのロンドンが何食わぬ顔で続いていた。

 

だが、腕には荷物がある。袋の中には本がある。布に包まれた杖がある。

 

嘘ではない。

あの通りは、確かに存在した。

 

セント・オールバンズへ帰り着いた時、マーガレットは玄関で待っていた。

 

何度も外を見に出ていたのだろう。

髪が少し乱れていて、エプロンの紐が片方だけねじれていた。

 

「おかえりなさい」

 

笑っていた。

けれど、笑うまでが少し遅かった。

目元には安堵があり、その奥に、まだほどけていない不安が残っている。

荷物を見て、杖の包みを見て、フリットウィックを見て、最後にエリアスの顔を見た。

 

何かを確かめるような目だった。

怪我はないか。変わってしまっていないか。あちら側に取られてしまっていないか。

 

そう言葉にしたわけではない。

けれど、視線がそう動いていた。

 

「ただいま」

 

そう言うと、マーガレットは少しだけ息を吐いた。

 

「お茶を淹れるわ」

 

いつもの言葉だった。それが、どこか祈りのように聞こえた。

 

フリットウィックは玄関先で丁寧に礼を述べ、夕方の光の中へ帰っていった。小柄な背中は、角を曲がるまで一度も振り返らなかった。

 

家の中に戻ると、買ってきたものがテーブルに並んだ。教科書の山、薬瓶の箱、真鍮のはかり、畳まれたローブ、安全手袋、杖の箱。マーガレットは、それらを一つずつ見た。

 

手は伸ばさない。

触れたいのか、触れたくないのか、そのどちらにも見えた。

 

「たくさんあるのね」

「どれも必要らしい」

「重かったでしょう」

「少し」

「……怖くはなかった?」

 

その問いは、買い物のことだけを聞いているわけではなかった。ダイアゴン横丁のこと。魔法使いたちのこと。母がかつて入っていった世界のこと。そして、そこからまた自分が帰ってこなくなる可能性のこと。

 

全部が混ざっていた。

 

「分からない」

 

正直に言うしかなかった。

 

「怖いより、分からないことが多すぎた」

 

マーガレットの口元が、少しだけゆがんだ。笑おうとして、うまくいかなかった形だった。

 

「そう」

 

それだけ言って、彼女は紅茶を淹れに台所へ向かった。その背中は、朝より少し小さく見えた。

 

 

 

 


 

 

 

 

八月に入ってから、家は静かだった。外では夏の光が強く、庭の草はすぐに伸び、近所の子どもたちは通りでボールを蹴っている。

 

だが、エリアスの部屋だけは別の季節のようだった。

 

机の上には、ホグワーツの教科書が積まれている。

 

『基本呪文集 初級』

『魔法史』

『魔法論』

『変身術入門』

『魔法薬調合法』

『薬草ときのこ1000種』

『幻の動物とその生息地』

『闇の力―護身術入門』

 

題名だけなら、雑に見える。分類が粗い。魔法論。変身術。防衛術。どれも、あまりにも大きな言葉だ。

 

だが、ページをめくると、粗いのは題名だけではないように見えた。

 

呪文名。

発音。

杖の動き。

用途。

注意。

 

それだけで、現象が起きることになっている。

 

なぜか。

どのようにか。

どこからどこへ力が流れ、何を媒介にして、どの段階で現象へ変換されるのか。

 

説明はいっさいない。

あるいは、説明が説明になっていない。

 

《正しい発音と明確な意思が重要》

《杖の動きは滑らかに》

《集中すること》

 

それは手順だ。

理論ではない。

 

羊皮紙に線を引いた。

 

入力。

発音。

杖の軌道。

意思。

出力。

現象。

 

その間にあるべきものが、巨大な黒い空白として残る。

 

空白。

空白。

空白。

 

腹立たしいほどの空白。

 

現代英国魔法。少なくとも、ホグワーツの教科書が教える魔法は、工程を説明しない。結果へ飛ぶ。呪文を言う。杖を振る。起きる。

 

そんな馬鹿な話があるか。

 

だが、ダイアゴン横丁では、その馬鹿な話が当たり前の顔で歩いていた。ティースプーンは独りでに回った。グラスは洗われた。新聞の写真は動いた。レンガの壁は開いた。杖は手の中で、こちらを聞いていた。

 

事実がある。

ならば、理由もあるはずだった。

 

理由が見えないだけだ。

見えないなら、見える形にすればいい。

 

机の上に、買ったばかりの杖を置いた。

 

月桂樹の木。

不死鳥の尾羽。

十一インチ。

 

オリバンダーの声が、まだ耳に残っている。

 

『杖には、意思が宿っております。だからこそ、対話するものなのです』

 

意思。

対話。

 

何度思い返しても、落ち着かない言葉だった。道具は、扱うものだ。調整するものだ。運用するものだ。対話するものではない。少なくとも、前世の魔術師はそう教わった。

 

だが、月桂樹の杖は、布から出してもただの木には見えなかった。机の上で、静かに沈黙している。完全な沈黙ではない。何も言わないくせに、こちらの呼吸の乱れだけは聞いているような、自分の内部を覗き込まれているように感じる。

 

腹が立つ。

 

「……なら、話してみろ」

 

小さく言って、杖を取った。軽い。その軽さが、かえって信用できない。

 

教科書を開く。最初の練習呪文。杖の動きは単純だった。発音も、難しくはない。しかし、発音が単純であることと、現象が単純であることは違う。

 

羽根ペンを一本、机の上に置いた。

 

浮遊。

 

対象を持ち上げる。

単純な物体移動。

本当にそうなら、基礎の確認には向いている。

 

呼吸を整える。

 

吸う。止める。流す。

背骨へ。胸へ。肩へ。肘へ。指先へ。

そして、杖へ。

 

 

Wingardium Leviosa

 

 

そこで、流れが少しだけずれた。まるで、細い管に水を通そうとして、管の内側から押し返されたような感覚だった。

 

拒絶ではない。

だが、従順でもない。

 

こちらの流し方を、そのまま受け入れる気がない。

 

「面倒だな」

 

杖は何も答えない。羽根ペンも動かない。

 

もう一度呪文を口にする前に、教科書を見た。発音。抑揚。杖の振り。そして、集中。

 

集中。

 

便利な言葉だ。

分からない部分を全部そこへ押し込めることができる。

 

杖を持ち直す。今度は、魔力を押し込まない。流れを伸ばすのではなく、杖の中にある何かを探る。

 

木目。芯。空洞ではない。

だが、ただ詰まっているわけでもない。

細い道がある。

 

それはエリアスの作った道ではない。杖自身の道だ。こちらの流れと合えば、通る。合わなければ、ずれる。

 

計算機ではない。回路でもない。

鍵と錠に近い。

 

いや、違う。

鍵なら、合えば回る。

これは、合ってもなお、相手が開けるかどうかを決める。

 

「……本当に面倒だ」

 

その時、羽根ペンが少しだけ揺れた。

 

浮いたわけではない。机の上で、かすかに震えただけだ。だが、動いた。

 

息が止まった。

 

もう一度。

 

同じ呼吸。

同じ流れ。

同じ角度。

同じ発音の準備。

 

同じようにすれば、同じ結果が出るはずだった。

 

羽根ペンは、今度は動かなかった。机の上で、ぴくりともしない。杖だけが、手の中でわずかに温かい。

 

まるで、同じ答えを二度返す義理はない、とでも言うように。

 

苛立ちが胸の奥に溜まった。

 

押し殺す。

 

感情は流れを濁らせる。

濁った流れでは、何も届かない。

だが、この杖は、その濁りすら聞いている気がした。

嫌な道具だ。

 

いや。

道具ではない、と言われたばかりだった。

 

 

その時、窓辺から小さく音がした。

きゅ、とも、しゅ、ともつかない短い声。

 

窓辺の止まり木で、メンフクロウがこちらを見ていた。白い仮面のような顔。薄い茶色の羽。黒い目。買ってきたばかりの梟は、他のどの荷物よりも静かに部屋へ馴染んでいた。

 

いや、馴染んでいるというより、最初からそこにいたような顔をしている。

 

「腹が減ったのか」

 

梟は答えない。ただ、瞬きもせずに見ている。

 

机の引き出しから餌を取り出し、浅い皿へ少し移す。イーロップのふくろう百貨店で一緒に買ったものだ。

 

その鳴き声で、ダイアゴン横丁の梟屋を思い出した。

 

 

 

 


 

 

 

 

杖の店を出たあと、フリットウィックは持参品リストを確認しながら言った。

 

「残りは教科書と細かな道具、それから任意のペットですね」

「任意?」

「ええ。梟、猫、ヒキガエルのいずれかを連れていくこともできます。必ずではありませんよ」

 

任意。その言葉なら無視してもよかった。

だが、梟だけは別だった。

 

「梟なら、手紙を送れるんですか?」

「ええ。魔法界では、もっとも一般的な郵便手段です。学校からご家族へ手紙を送るにも便利でしょう」

 

祖母へ。

その一語で、選択肢は変わった。

ホグワーツへ行けば、セント・オールバンズの家から離れる。マーガレットは、きっと何も言わない。行くな、とも、寂しいとも言わない。ただ、笑うまでの間がまた長くなる。

 

手紙を送る手段は必要だった。

魔法界の通信制度を、自分の手元に置いておく必要がある。

 

「なら、見ます」

 

フリットウィックは、少し嬉しそうにうなずいた。

 

「それはよろしい。では、イーロップへ行きましょう」

 

イーロップのふくろう百貨店は、音で満ちていた。羽ばたき、爪が止まり木を掻く音、低い鳴き声、高く裂けるような声。藁の匂い、乾いた羽の匂い、少し獣じみた臭い。

 

薄暗い店内には、大小さまざまな梟が並んでいた。丸い目が、あちこちからこちらを見る。

 

茶色い梟。小さな梟。耳のような羽角を持つ梟。白い梟。

白い梟は美しかった。それは認める。

雪のような羽。堂々とした目。知性を感じさせるたたずまいは、とても魅力的だった。

けれど、目立ちすぎる。

 

郵便に使うには、象徴的すぎる。祖母の家へ手紙を届ける鳥としては、少し派手だった。

手紙という秘匿すべき個人情報を運搬する用途を考えると、除外されて当然の選択肢だった。

 

小型の梟は扱いやすそうだった。だが、長い距離を安定して飛ばせるのかは分からない。大きすぎる梟は、家の中で扱いづらい。

 

静かで、夜に紛れ、命令より意図を読む鳥。

必要なのは、そういう個体だった。

 

店の奥で、一羽のメンフクロウがこちらを見ていた。

白い仮面のような顔。薄い茶色の羽。黒い目。

 

他の梟が鳴く中で、その一羽だけは黙っていた。怯えているわけではない。退屈しているわけでもない。ただ、見ている。

 

近づくと、メンフクロウは首を少し傾けた。指先を見る。杖を見る。左目の傷を見る。そして、もう一度こちらの目を見た。

 

フリットウィックが横で静かに言った。

 

「どうやら、気に入られたようです」

「こちらが選ぶんじゃないんですか?」

「梟にも、好みがありますからね」

 

また、それだ。

杖も選ぶ。梟も選ぶ。

この社会の道具は、どれだけ人間を相手に選別したがるのか。

 

手を差し出すと、メンフクロウはすぐには乗らなかった。爪が止まり木を一度だけ掻く。羽がわずかに動く。それから、ひょいと手首へ乗った。

 

軽い。けれど、爪の感触は確かだった。思ったより温かい。

 

生きている。

 

その当たり前の事実が、なぜか少しだけ扱いづらかった。

 

「この子にしますか?」

 

店員が聞いた。

手首の上のメンフクロウは、まばたきもせずこちらを見ている。

 

郵便用の鳥。

魔法界式の伝令手段。

ホグワーツとセント・オールバンズを繋ぐ線。

そう考えるのが正しい。正しいはずだった。

 

だが、手首の上の目は、そんな分類を少しだけずらしてくる。

 

「この梟にします」

 

店員がうなずいた。

 

「名前は?」

 

名前。

 

少しだけ考えた。合理的につけるなら、識別しやすい短い名がいい。呼びやすく、他の単語と混同しにくく、命令に使いやすい名。

 

いくつか候補は浮かんだ。

どれも、口にする前に消えた。

 

「アニマ」

 

考えるより先に、その名が出た。

 

メンフクロウは、一度だけ瞬きをした。

 

訂正する理由は、特になかった。

 

「アニマにします」

 

フリットウィックは、柔らかく笑った。

 

「うむ、よい名前ですね」

 

何がよいのかは、聞かなかった。聞けば、余計なことまで分かってしまいそうだった。

 

 

 

 


 

 

 

 

皿に移した餌を、アニマはゆっくり食べた。がつがつとは食べない。一つついばみ、間を置き、また一つついばむ。その間も、時々こちらを見る。

 

監視されているようで、少し落ち着かない。

 

「食べながら見るな」

 

当然、返事はない。

 

アニマは、また一度だけ瞬きをした。

その顔が、なぜかフリットウィックに似ている気がして、すぐに考えを追い払った。

 

部屋はまた静かになった。

 

机の上には教科書。手の中には杖。窓辺には梟。

昨日まで、この部屋にはなかったものばかりだ。

 

それなのに、世界は何事もなかったように夏の音を立てている。遠くで車が走る。庭では虫が鳴く。近所の子どもたちは、夕方まで外で遊んでいる。

 

その静けさの中で、ホグワーツの教科書だけが、異物のように机を占領していた。

 

もう一度、羊皮紙へ向き直った。

 

呪文学。変身術。魔法薬学。薬草学。魔法史。防衛術。

 

入力。媒介。結果。未説明領域。危険性。推定される法則。

空欄が多かった。

多すぎた。

 

それでも、何もないよりはましだった。

 

一日に何度か、杖を手に取った。杖を向ける。息を整える。呪文の発音を確認する。動きをなぞる。

 

羽根ペンは、時々震えた。インク瓶の表面が、ほんの少し波打つこともあった。一度だけ、羊皮紙の端がふわりと持ち上がり、すぐ落ちた。

 

成功とは言えない。

失敗とも言い切れない。

 

杖は、こちらの命令をそのまま聞く気はない。だが、完全に拒んでもいない。

 

聞いている。

それが、一番腹立たしい。

 

夜になると、マーガレットが部屋の前で足を止めることがあった。階段を上がる音。廊下のきしみ。ドアの前で止まる気配。

 

ノックはしない。

 

しばらくして、足音が遠ざかる。

 

心配しているのだろう。中で何をしているのか、聞きたいのだろう。けれど、聞けない。聞けば、自分が避けてきた世界に触れることになるから。

 

呼ばなかった。

説明できない。説明すれば、また祖母の笑い方が壊れる。

だから、部屋の中では本を読み続けた。杖を持ち続けた。黒い空白を、少しでも埋めようとした。

 

アニマは、夜になると窓辺でほとんど動かなくなった。ただ、時々こちらを見る。

その目があるだけで、部屋の静けさは昨日までと少し違っていた。

 

夏は、静かだった。

静かすぎるほどに。

 

 

 

 

 

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