ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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九と四分の三番線

 

 

 

 

九月一日の朝、セント・オールバンズの家はいつもより早く目を覚ましていた。

 

マーガレットは、まだ湯気の立つ紅茶を台所に置いたまま、玄関と居間を何度も往復している。忘れ物はないか、切符はあるか、手紙は入れたか、荷物の紐は緩んでいないか。

すでに三度は確認したことを、もう一度確かめていた。

 

トランクは重かった。

教科書、ローブ、大鍋、薬瓶、真鍮のはかり、望遠鏡。細長い杖の箱は、トランクの一番上に入れてある。アニマの籠だけは手元に残した。

 

メンフクロウは、朝から妙に静かだった。白い仮面のような顔で、籠の中からマーガレットを見ている。

マーガレットはその視線に慣れないらしく、時々困ったように目を逸らした。

 

「本当に、一人で大丈夫?」

「列車までは行ける」

「でも、駅が……その、普通の駅ではないんでしょう?」

「キングス・クロスは普通の駅だよ」

 

そこまでは、と心の中で付け足した。

 

マーガレットは、それ以上聞かなかった。

聞けば、その先にあるものを想像しなければならなくなる。娘を失った世界へ、今度は孫が向かう。

その事実を、言葉にして確かめるには朝が明るすぎた。

 

朝食は、あまり味がしなかった。

 

焼いたパン。バター。卵。紅茶。

いつものものばかりなのに、どれも少し遠い。

マーガレットもほとんど食べていなかった。

カップを持つ指が、時々止まる。何かを言おうとして、結局飲み込む。その繰り返しだった。

 

「手紙を書くよ」

 

そう言うと、マーガレットの手が止まった。

 

「……ええ」

 

返事までに一拍あった。

目元が少しだけ緩む。けれど、すぐにまた不安が戻る。

手紙が届くということは、離れるということでもある。どちらも同じ事実だった。

 

「アニマに持たせる」

 

籠の中で、アニマが一度だけ瞬きをした。

 

マーガレットは、少しだけ笑った。

 

「その子、賢そうね」

「賢いかどうかはまだ分からないよ」

「あなたに似たのかしら」

 

その言い方は冗談の形をしていたが、声の奥は柔らかかった。

 

何かを返そうとして、やめた。

そういう言葉をうまく受け取る練習は、まだ足りない。

 

 

 

 


 

 

 

 

キングス・クロス駅は、人であふれていた。

 

荷物を持った旅行客、新聞を抱えた男、子どもの手を引く母親、急ぎ足の会社員、床を滑るスーツケースの音。

駅の屋根の下で声が反響し、発車案内の音が高く鳴る。

普通の駅だった。どこからどう見ても、何の変哲のないキングス・クロス駅だった。

 

だからこそ、余計に気味が悪い。

 

このどこかに、魔法界へ続く入口がある。

しかも、ただ隠されているのではない。

毎年、十一歳の子どもたちが、大きな荷物を抱えてそこを通る。

 

それは秘密の通路というより、通学路だった。

 

マーガレットは改札の手前で足を止めた。

 

「ここまでで大丈夫だよ」

 

エリアスが言うより早く、マーガレットの視線が駅の奥へ向いた。

大きな時計、行き交う人の波、いくつも並ぶホームへの案内。

それから、トランクと籠へ戻る。

 

彼女は壁の向こうへ行かない。

行けないのではない。行かないのだ。

 

「本当に、ここから一人で?」

「うん」

「困ったら、駅員さんに聞くのよ」

「たぶん、駅員には聞かない方がいいと思うよ」

 

マーガレットの眉が少し寄った。

 

「……そういうものなの?」

「そういうものらしい」

 

正確には、駅員が知っているとは思えない。

魔法界の隠れた駅を、マグルの駅員が普通に案内できるなら、そもそも隠れている意味がない。

 

マーガレットは小さく息を吐いた。

 

「分かったわ」

 

分かってはいない声だった。

それでも、分かろうとしている声だった。

 

抱きしめられた。

 

一瞬、体が固まる。

人前だった。駅だった。荷物もある。

だが、マーガレットの腕は思ったより強く、すぐには離れなかった。

 

洗濯した服の匂い。紅茶の匂い。庭の土の匂い。

セント・オールバンズの家の匂いだった。

 

「気をつけて」

 

耳元で声がした。

 

「うん」

「無理はしないで」

「分かってる」

「分かってない顔をしてるわ」

 

返す言葉がなかった。

 

マーガレットはようやく腕を離した。

目元は赤くなっていない。けれど、赤くなる手前で止めている顔だった。

 

「行ってらっしゃい、エリアス」

 

行ってきます、と言おうとして、喉の奥で一度止まった。

この言葉は、帰る場所がある人間の言葉だ。

 

「行ってきます」

 

そう答えて、カートを押した。

振り返らないつもりだった。

けれど、一度だけ振り返った。

 

マーガレットはまだそこにいた。

人の流れの端で、両手を胸の前に重ねて立っている。

笑っていた。朝と同じように、少し遅れて作った笑顔だった。

 

その笑顔を背中に置いて、駅の奥へ進んだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

九番線と十番線。

 

数字は普通だった。

 

大きな表示。硬い床。鉄の匂い。人の熱。

蒸気ではなく、電車と機械の匂い。

ホグワーツ特急という言葉に似合うものは、どこにもない。

 

手紙には、九と四分の三番線とあった。

馬鹿げている。

 

九番線。十番線。

その間。

分数で表される場所。存在しないはずの余白。

 

エリアスはカートを押しながら、人の流れを観察した。

 

普通の人間は、九番線へ行く。

普通の人間は、十番線へ行く。

誰も、その間を意識しない。

 

認識阻害。

 

いや、それだけではない。

漏れ鍋と似ている。

そこにあるものを、ないものとして処理させる。視線が滑り、思考が逸れ、日常が勝手にその場所を埋める。

だが、漏れ鍋よりもこちらの方がずっと大胆だった。

 

駅だ。人が多い。事故が起きれば目撃者も多い。

それでも成立している。

 

認識を逸らすだけでは足りない。

空間そのものが、マグルの駅と魔法界の駅を重ねている。壁は壁であり、入口でもある。

こちら側の構造を壊さず、向こう側の通路を同じ場所へ畳んでいる。

 

境界操作。空間の重ね合わせ。認識阻害。テクスチャの差し替え。

前世の言葉を並べても、完全には当てはまらない。

 

魔術師なら、隠すために結界を張る。

通す者と通さない者を選ぶ。

門を作り、鍵を作り、儀式を置く。

しかし、ここでは、子どもがカートを押して壁へ突っ込む。

 

雑だ。

 

雑すぎる。

 

だが、その雑さで毎年運用されているのなら、それは雑なのではなく、世界側の許容が違うということになる。

 

その考えが、少し気持ち悪かった。

 

 

 

 


 

 

 

 

八月の終わり頃、同じような気味悪さを何度も味わった。

 

自室の机。月桂樹の杖。教科書。羽根ペン。インク瓶。鍵のかかった小箱。

 

浮遊呪文は、成功した。

 

最初に羽根ペンが震え、次に机の上で浮き、三日目には本棚一個分ほどの高さで止まるようになった。

呪文、杖の動き、呼吸、対象との距離、手首の角度、杖が応じる直前の沈黙。

その条件を何度も記録し、崩し、戻した。

 

できた、とは思わなかった。

 

成立条件を踏んだら、現象が起きた。

それだけだった。

 

発光呪文も成功した。

 

杖先に灯った光は、蝋燭の炎とも電灯とも違う。熱はほとんどなく、影の出方も奇妙だった。どこから光量が供給されているのか分からない。杖先から光が出るというより、杖先に「光ること」が許可されたように見えた。

 

解錠呪文と施錠呪文も、古い小箱で試した。

 

鍵穴の構造を理解しているわけではない。

内部の金具を動かしている感覚も薄い。

ただ、杖が小箱に向き、発音と意思が噛み合った瞬間、錠の方が状態を変えた。

 

引っ付き呪文は、羊皮紙と木片で成功した。

 

燃焼呪文は、紙片の端を焦がしたところでやめた。

火は危険だ。マーガレットの家で試すべきものではない。

 

初級呪文。基礎呪文。一年生向け。

そう分類されるものは、いくつも成功した。

 

成功したからこそ、気味が悪かった。

 

工程が見えない。

理論がない。

術者が完全に理解していなくても、現象が成立する。

杖が命令を聞いているというより、杖側が条件を見て応じている。

あるいは、世界の側が現象を許可している。

 

そんなものを、初級と呼ぶ。

 

一方で、修復呪文のページでは手が止まった。

 

壊れたものを直す。

 

簡単に書くな。

 

破損前の構造情報はどこに保存されているのか。欠けた物質はどこから補填されるのか。時間が巻き戻っているのか。因果を接続しているのか。対象の履歴を参照しているのか。それとも、世界側が「元の形」を記憶しているのか。

 

分からない。

 

分からないまま唱えることはできた。

だが、できる気がすることが、余計に気持ち悪かった。

 

変身術はもっとひどい。

 

マッチを針へ。

針をマッチへ。

 

材料はどこへ行く。

質量はどう保存される。

燃焼性はどこから生じる。

針だったという履歴は消えるのか、残るのか。

 

本は何も答えない。

正しい発音、正しい杖の動き、正しい集中。

 

また、それだ。

 

それは手順だ。

理論ではない。

 

 

 

 


 

 

 

 

魔法省の職員が来たのは、その数日後だった。

 

派手な訪問ではなかった。

 

玄関の呼び鈴が鳴り、マーガレットが出ると、灰色のスーツを着た男が立っていた。

帽子は普通。靴も普通。だが、普通に見えるように選びすぎていて、逆に少し浮いていた。

 

男の視線は、玄関の内側を一度だけ走った。

 

傘立て。靴。壁の写真。奥の階段。

そして、エリアスの手元。

 

「エリアス・レンさんですね」

「はい」

「魔法省、魔法事故惨事部の者です。少し確認を」

 

魔法省。

その単語に意識が引っかかった。

 

省。

つまり行政機関。

学校でも、商店街でも、銀行でもない。

法を作り、監視し、必要なら介入する存在。

どうやらこの世界にはそんなものまであるらしい。

 

マーガレットは血の気が引いたような顔をしていた。

 

「魔法省?」「事故?」

「いえ、現時点で事故が起きたという話ではありません」

 

男はすぐに言い直した。言い直し方は慣れていた。マグルを不安にさせすぎないための言い回しなのだろう。

 

リビングで話すことになった。

 

マーガレットは紅茶を出そうとしたが、男は丁寧に断った。カップを受け取る余裕がないのではない。長居するつもりがないのだ。

 

「周辺で、短期間に多数の魔法反応が確認されています」

「魔法反応?」

「ええ。こちらはマグルーー非魔法族の地域です。継続的な杖魔法の使用があると、確認対象になります」

 

確認対象。

その言葉で、背筋の奥が冷えた。

 

セント・オールバンズはあのパブや隠匿された街から少なくとも四十キロ以上は離れている。

それでも拾っている。

ロンドン近郊だけなのか。それとも、ブリテン島全域なのか。

 

もし後者なら、監視規模が大きすぎる。

それほどの規模をもつ世界なのか、魔法族とは。

 

術者を追っているのか。杖そのものに印があるのか。魔力反応を広域で拾っているのか。

それとも、マグル社会の中に発生した異常だけを抽出しているのか。

 

分からない。

 

分からないまま運用されている監視機構ほど、気味の悪いものはなかった。

 

向かいの男は答えを急かさなかった。

こちらが何を考えているのか、測っているようだ。

マーガレットは膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力を入れている。

 

個人識別ではない。

少なくとも、男の言い方から原因が僕であるとまでは断定はしていなかった。

男は、エリアスが使った呪文の名を一つずつ把握しているわけではない。回数も正確ではない。だが、場所と反応の継続は拾っている。マグル地域で、杖魔法に近い反応が続いていることを検知したのだろう。

 

区域単位。反応監視だとしたら、魔法族家庭なら日常反応として埋もれる。

マグル地域だからこそ目立つのか。

 

「それは僕がやりました。入学前にある程度の予習はしておいた方が良いと思って」

「やはりそうでしたか。分かりました。しかし、入学前の過度な練習は、控えてください」

 

男は言った。

 

「正式な授業はホグワーツで受けることになります。特にマグル家庭での反復使用は、機密保持上の問題につながりかねません。ご家族を巻き込む事故になる可能性もあります」

 

マーガレットの指が膝の上で強く組まれた。

 

「すみません」

 

謝ったのはマーガレットだった。

 

男の目が、一瞬だけ困ったように動く。

 

「ヘイルさんを責めているわけではありません」

 

それから、エリアスを見た。

 

「あなたにも、悪意があったとは考えていません。ただ、あまりにも量が多かったので」

「量」

「普通の入学前の子どもは、ここまで試しません」

 

男はそこで一度、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「反応の数もそうですが、間隔が短すぎる。普通は数度試して疲れるか、気分が悪くなってやめるものです」

 

その視線が、こちらの顔ではなく、杖を持つ手元へ落ちた。

危険物を見る目ではない。

優秀な子どもを見る目でもない。

ただ、測っている目だった。

 

「浮遊反応、発光反応、鍵や接着に関わる反応、それから微弱な燃焼反応。正確な呪文名まではこちらでは断定しませんが、種類は複数です」

 

個人識別ではない。

だが、呪文のおおよその種類までは感知されているらしい。

 

「今後、ホグワーツへ入学するまでは、必要以上の使用を控えてください。特に火を伴うもの、物を飛ばすもの、物を変質させるものは避けるように」

 

火を伴うもの。飛ばすもの。物質を変容させるもの。

監視の境界線が少しだけ見えた気がした。

 

「分かりました」

 

男は少しだけ目を細めた。

その返事が、反省より分析に近いと気づいたのかもしれない。

 

「レンさん」

「はい」

「真面目なのは結構です。ですが、魔法は、理解する前に事故を起こすことがあります」

 

その言葉は、少しだけ不本意だった。

理解する前に使わせているのは、そちらの教科書ではないのか。

そう思ったが、口には出さなかった。

 

男は立ち上がった。

 

「次に同じ量の反応があれば、正式な警告文が届く可能性があります。今回は確認と注意です」

 

玄関で見送る時、男はもう一度こちらを見た。

 

危険物を見る目ではない。

優秀な子どもを見る目でもない。

厄介なほど真面目な子どもを見る目だった。

 

「ホグワーツで、きちんと学んでください」

「そのつもりです」

 

男は小さくうなずき、普通の通りへ出ていった。

 

マーガレットは、扉が閉まってからしばらく何も言わなかった。

 

「……危ないことをしていたの?」

「火は、少し」

「エリアス」

「もう控えるよ」

 

今度は本当だった。

駅でも列車でも、不用意には使わない。

理由は、叱られたからではない。

 

監視構造が、まだ読めないからだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

興奮したような、甲高い子どもの声で我に返った。

思わず、カートの持ち手を握り直す。

視界の奥で、赤毛の子どもが九番線と十番線の柱に飲み込まれていくのが見えた。

その手前で黒髪の少年が一人、途方に暮れたように立っていた。

 

トランク。アニマの籠。杖。教科書。

そして、夏の間に得た、いくつかの気味悪い成功。

 

魔法は使える。

それは分かった。

だが、理解できたわけではない。

 

この世界の道具も、現象も、制度も、人間が完全に支配しているようには見えない。

杖が選ぶ。梟が選ぶ。呪文は理論を理解しなくても成立する。魔法省の監視は、個人ではなく場と反応を雑に拾う。

 

世界の境界も、おそらく同じだ。

普通の人間が通れる場所ではない。

条件を満たした者だけが、通ることを許される。

そんな気がした。

 

壁の前を、普通の人々が通り過ぎていく。誰も立ち止まらない。誰もそこを見ない。見ても、何も見ていない。

 

エリアスは息を整えた。

 

吸う。止める。流す。

背骨へ。胸へ。肩へ。腕へ。指先へ。

カートの持ち手が、手の中で少し冷たい。

 

マーガレットはここにはいない。

もう振り返っても、駅の人混みに隠れて見えないだろう。

マグル側の愛と保護は、改札の向こうに置いてきた。

ここから先は、自分の意思で越える。

 

カートを押した。

歩く。

壁が近づく。

 

レンガではない。駅の柵と柱と、人の流れの隙間。けれど、そこに境界がある。視線が滑る。音が少しだけ遠のく。空気が薄くなる。

 

止まらない。

最後の一歩で、体が反射的に硬くなった。

 

ぶつかる。

 

そう思った瞬間、世界が一枚めくれた。

抵抗はなかった。

水面を割るような感触も、布をくぐるような柔らかさもない。

ただ、こちら側の駅が一瞬だけ薄くなり、向こう側の駅が濃くなった。

 

音が戻る。

 

蒸気の匂い。金属の音。梟の鳴き声。子どもたちの歓声。親たちの呼ぶ声。

目の前に、深紅の蒸気機関車がいた。

 

ホグワーツ特急。

 

黒い煙が、白い天井の下へゆっくり広がっている。ホームにはローブ姿の子どもたちと、その家族があふれていた。トランク。籠。猫。梟。大声で笑う双子。泣きそうな一年生。忙しそうな母親。

 

九と四分の三番線。

それは、隠された通路ではなかった。

 

駅だった。

 

生活があり、別れがあり、期待があり、騒音がある。

魔法界は、またしてもそこに普通の顔で存在していた。

 

カートの持ち手を握ったまま、しばらく立ち尽くした。

 

境界を越えた。

一人で。

その事実だけが、胸の奥に小さく残った。

 

アニマが籠の中で、短く鳴いた。

急かすような声だった。

 

「分かってる」

 

小さく答え、ホームの人波へ進んだ。

 

 

 

 

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