家へ帰り着いた頃には、外はもうすっかり夜になっていた。
玄関のドアを開ける。
ぱちり、と灯りが点く。
静かだった部屋へ、一気に生活の音が流れ込んだ。
「ただいまー!」
真っ先に飛び込んでいったステラの声が、リビングへ明るく響く。
あなたは靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
「……疲れた」
「荷物持ちお疲れ様です」
ルミナが静かに言う。
その声を聞くだけで、妙に肩の力が抜ける。
後ろでは、プリンが当然みたいな顔でトートバッグから降りている。
「まずは食材の整理を推奨します」
「お前ほんとに家計管理する気なんだな……」
「家族ポジションなので」
「便利ワードだなぁ」
ステラがけらけら笑いながら、スーパーの袋をキッチンへ運んでいく。
「よーし! 今日は私も料理頑張るからね!」
「やめろ」
「即答!?」
「台所が死ぬ」
「そんなに!?」
「前回フライパン燃やしかけただろ」
「ちょっと火力が強かっただけですー!」
「コンロ赤くなってたんだよ」
「熱意!」
「物理的に危険なんだよ」
騒ぎながらリビングへ入る。
冷蔵庫の音。
テレビから流れる小さなニュース。
買い物袋の擦れる音。
そういう生活の音が、部屋の中へ少しずつ広がっていく。
あなたはなんとなく、その空気を見回した。
テーブル。
ソファ。
積まれたクッション。
いつの間にか増えていたマグカップ。
ルミナの私物。
ステラが置いていったヘアゴム。
プリン専用になりつつある座布団。
少し前までは、こんな部屋じゃなかった。
一人で、静か。
必要最低限しか存在しなかった空間。
でも今は違う。
生活の跡が増えている。
誰かがいる痕跡が、当たり前みたいに部屋へ残っていた。
「ノクス?」
ルミナがこちらを見る。
「どうしました?」
「……いや」
あなたは小さく笑った。
「なんでもない」
ルミナは少しだけ不思議そうな顔をしたあと、静かに頷いた。
「では、作りましょうか」
「あいあいさー!」
ステラが元気よく手を上げる。
「今日はピーマン肉詰め!」
「……」
現実逃避したくなった。
「ノクス」
「はい」
「逃げない」
「まだ何もしてないだろ」
「顔が逃げてます」
「観察力高すぎない?」
プリンが冷静に言う。
「契約者のピーマン耐性は依然として低水準です」
「言い方」
「改善には継続摂取が必要です」
「医療機関みたいに言うな」
ルミナがエプロンを取り出す。
白を基調にしたシンプルなものだった。
それを慣れた手つきで身につける。
その動作が妙に自然で、あなたは少しだけ視線に困った。
似合いすぎている。
生活感が。
「ノクス」
「……ん?」
「これ」
差し出されたのは、あなた用のエプロンだった。
「俺も?」
「当然です」
「いや別にそのままでも」
「油跳ねますよ」
「……はい」
受け取る。
後ろでステラが、なぜかそわそわしていた。
「……」
「どうした?」
「えっ!?」
びくっと肩が跳ねる。
「な、なんでもないよ!?」
「いや絶対なんかあるだろ」
「ないない!」
ステラは慌てたように視線を逸らし、そのまま小さく呟いた。
「……なんか夫婦みたいだっただけで……」
「ん?」
「なんでもない!!」
顔が真っ赤だった。
ルミナが静かに言う。
「ステラ」
「ひゃい」
「わかりやすいですね」
「うぅ……」
耳まで赤くなっている。
あなただけが、意味がわからず困惑していた。
「……?」
「鈍いですね」
「なんで!?」
理不尽だった。
その間にも、ルミナは淡々と調理を始めている。
野菜を洗い。
まな板を用意し。
包丁を握る。
その手つきは静かで、無駄がなかった。
とん、とん、とん。
一定のリズムで響く包丁の音。
雨音みたいだと、あなたはなんとなく思った。
「ノクス」
「ん」
「玉ねぎお願いします」
「了解」
自然に隣へ立つ。
袖が少し触れる。
距離が近い。
でもルミナは、もうそれを特別扱いしない。
最初から当たり前だったみたいに、そこへいる。
「……」
あなたは少しだけ、視線を逸らした。
すると。
「よーし! 私も切る!」
ステラが勢いよく包丁を持ち上げた。
「待て」
「え?」
「待て」
嫌な予感しかしない。
ルミナも静かに包丁を止めた。
「ステラ」
「はい」
「猫の手は覚えてますか」
「えっと……こう!」
ぐしゃっと握る。
「違います」
「えぇ!?」
数秒後。
「わっ」
「危なっ!?」
包丁が変な方向へ滑った。
あなたが反射で手を伸ばす。
「だから危ないって!」
「ご、ごめん!」
慌てた拍子に、ステラの身体がこちらへぶつかった。
「っと」
「あっ……」
一瞬、かなり近い距離になる。
腕の中。
目の前に、夕焼けみたいな橙色の瞳。
「…………」
ステラの思考が止まった。
顔が一気に赤くなる。
「だ、大丈夫か?」
「~~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げながら、ステラが後ろへ下がった。
「む、無理……!」
「なんで!?」
「ノクスちゃん距離近いよぉ!!」
「お前がぶつかってきたんだろ!?」
ステラは真っ赤な顔のまま、しゃがみ込んでしまった。
耳まで赤い。
ルミナが静かにため息を吐く。
「重症ですね」
「ルミナちゃんが冷静すぎるよぉ……!!」
あなたはますます意味がわからなかった。
プリンだけが冷静に言う。
「ステラの心拍数が急上昇しています」
「実況するな」
「事実共有です」
「便利ワードにするなって言ってるだろ」
キッチンの空気が、しばらく妙な感じになった。
ステラはしゃがみ込んだまま、顔を押さえて動かない。
「……おーい」
「む、無理……」
「何が」
「今のは反則……」
「だから何が!?」
あなたには本気で意味がわからなかった。
ルミナはそんな二人を横目で見ながら、淡々とピーマンの下処理を進めている。
とん、とん、とん。
一定のリズム。
静かな包丁の音が、騒がしい空気を少しだけ落ち着かせていく。
「ステラ」
「ひゃい……」
「立てますか」
「ちょっと待ってぇ……」
「重症ですね」
「ルミナちゃん絶対楽しんでる……」
「少し」
「認めたぁ……」
あなたはため息を吐きながら、再び玉ねぎへ包丁を入れた。
薄く均等に、慣れた手つきで刻んでいく。
とん、とん、とん。
まな板を叩く音が、静かなリズムで部屋へ広がっていた。
「……」
その様子を、ステラがぼんやり見ている。
「ステラ?」
「ふぇっ」
びくっと肩が揺れた。
「手、止まってますよ」
ルミナが静かに指摘する。
「あっ、ご、ごめん!」
慌ててひき肉を混ぜ始める。
でも。
視線はまた、少しだけあなたへ向いてしまう。
知っている。
ノクスが料理できることなんて、とっくの昔から知っていた。
朝ごはんも。
夜食も。
自分が焦がした料理を、横から呆れた顔で修正されたこともある。
だから、今さら驚くことなんてないはずなのに。
包丁を握る横顔とか。
少しまくった袖とか。
手際よく動く指先とか。
そういうものを改めて見ていると、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……ノクスちゃんってさ」
「ん?」
「なんか、そういうとこずるいよね……」
「何が?」
「そういうとこ」
「わからん」
「もう!」
ステラは顔を赤くしたまま、ひき肉をぐしゃぐしゃ混ぜ始めた。
あなたは意味がわからず首を傾げる。
一方ルミナは、静かに状況を理解していた。
「重症ですね」
「ルミナちゃんは冷静すぎるんだってぇ……!」
騒がしい。
でも。
その騒がしさが、妙に心地よかった。
冷蔵庫の低い駆動音。
鍋へ落ちる水の音。
テレビから流れる夜のニュース。
包丁の音。
笑い声。
生活の音が、少しずつ部屋へ満ちていく。
少し前まで、この部屋はもっと静かだった。
一人で。
必要最低限しかなくて。
誰の声もしなくて。
でも今は違う。
騒がしくて。
落ち着かなくて。
なのに不思議と、その全部が当たり前みたいに感じ始めている。
「ノクス」
「ん?」
ルミナが、静かに皿を差し出してきた。
「味見してください」
見ると、小さく切ったピーマンの肉詰めが一つだけ乗っていた。
「……」
嫌な予感しかしない。
ステラが期待した目でこちらを見る。
プリンも見ている。
逃げ場がなかった。
「……食べればいいんだろ」
「はい」
あなたは観念して、小さく一口かじった。
肉汁。
甘い玉ねぎ。
香ばしい焼き目。
そして、思ったより苦くないピーマン。
「……あれ」
「どうですか?」
ルミナが静かに尋ねる。
あなたは数回咀嚼して、少しだけ目を瞬かせた。
「……普通に食える」
「ほんと!?」
ステラがぱっと顔を輝かせる。
「やったぁ!」
まるで自分のことみたいに、嬉しそうだった。
ルミナも、ほんの少しだけ目を細める。
「よかったです」
「……お前らなぁ」
あなたは小さく笑ってしまう。
ピーマンなんて、昔から嫌いだった。
でも。
一人で食べる夕飯と。
こうして誰かと騒ぎながら食べる夕飯では。
同じ味でも、少し違うのかもしれなかった。
じゅう、とフライパンの上で、最後の肉詰めが焼ける音がした。
香ばしい匂いが、キッチンいっぱいに広がっていく。
「……お腹空いた」
ステラが、テーブルへ突っ伏しながら呟く。
「さっきまでつまみ食いしてただろ」
「料理中のつまみ食いはノーカウントです」
「どこのルールだよ」
「心!」
「便利ワードにするな」
あなたは皿へ料理を盛り付けていく。
ピーマンの肉詰め。
サラダ。
スープ。
炊きたての白米。
湯気が、食卓の上でゆっくり揺れていた。
ルミナが、静かに箸を並べていく。
自然な手つきだった。
まるで、ずっと前からここに住んでいたみたいに。
「ノクス」
「ん?」
「ご飯、よそいます」
「おー」
「私もやる!」
ステラが勢いよく立ち上がる。
「やめとけ」
「なんで!?」
「前に茶碗から雪崩起きただろ」
「ちょっと多かっただけですー!」
「茶碗の限界超えてたんだよ」
ステラがむぅっと頬を膨らませる。
その横で、ルミナが静かに炊飯器を開けた。
ふわり、と白い湯気が立ち上る。
炊きたての匂い。
温かい空気。
それだけで、妙に腹が減る。
「……」
あなたは、並び始めた皿をぼんやり見た。
三人分。
それと一匹。
当たり前みたいに並んでいる。
少し前まで、この部屋の食卓に並ぶ皿は一つだった。
適当にコンビニ飯を置いて。
動画でも流して。
黙ったまま食べるだけの夜。
それが普通だった。
でも今は違う。
「ノクスちゃん?」
ステラが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「またぼーっとしてる」
「……してない」
「してるよー」
笑いながら、ステラがあなたの袖を軽く引っ張った。
「ほら、座ろ?」
「……ん」
椅子へ座る。
向かいにはステラ。
隣にはルミナ。
当然みたいな顔で、プリンが自分用の座布団へ座っている。
「なんでお前そんな自然に席あるんだよ」
「家族ポジションなので」
「万能ワードか?」
「便利ですね」
「自覚あるんだ……」
ステラが笑う。
ルミナも、小さく笑っていた。
その空気が、妙に柔らかかった。
「では」
ルミナが静かに手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
ステラも続く。
あなたは少し遅れて、小さく息を吐いた。
「……いただきます」
その言葉が、不思議なくらい胸へ残った。
一人で食べていた頃は、こんな挨拶ほとんどしなかった。
言う相手がいなかったから。
でも今は、その一言を返してくれる誰かがいる。
「……」
あなたは箸を取り、ピーマンの肉詰めを見下ろす。
やっぱりまだちょっと嫌だ。
すると。
「……ノクスちゃん」
ステラが期待した目でこちらを見る。
「食べれる?」
「圧かけるな」
「がんばって!」
「軽いんだよな圧が」
ルミナが静かに言う。
「ノクス」
「はい」
「逃げない」
「食卓で逃げるわけないだろ」
「顔が逃げてます」
「なんでわかるんだよ」
プリンが淡々と告げる。
「ノクスは現在、ピーマンへの恐怖心と戦っています」
「実況するな」
「事実共有です」
「だから便利ワードするなって」
ステラが、堪えきれず吹き出した。
「ふふっ」
「笑うなよ」
「だってノクスちゃんほんとに嫌そうで……」
「嫌だからな」
「でもちゃんと食べるんだ?」
「……約束したし」
その言葉を聞いた瞬間。
ステラが、ほんの少しだけ目を丸くした。
「……」
「?」
「……えへへ」
「なんだよ」
「なんでもない」
嬉しそうだった。
どうしてそんな顔をするのか、あなたにはよくわからない。
でも。
その笑顔を見ると、悪い気はしなかった。
あなたは観念して、ピーマンの肉詰めを口へ運ぶ。
肉汁。
甘い玉ねぎ。
香ばしい焼き目。
そして、やっぱり少しだけ残るピーマンの風味。
「……」
「ど、どう?」
ステラが身を乗り出す。
ルミナも静かにこちらを見る。
あなたは数回咀嚼して、それから小さく肩をすくめた。
「……まあ、食える」
「やったぁ!」
ステラがぱっと笑う。
本当に嬉しそうだった。
ルミナも、静かに目を細める。
「成功ですね」
「お前ら、そんな達成感ある?」
「あります!」
ステラが即答した。
「ノクスちゃんの野菜克服は世界を救うレベルの偉業なので!」
「大袈裟すぎる」
「でも」
ステラが、少しだけ柔らかい声で続ける。
「一緒に食べれるの、嬉しいから」
「……」
一瞬。
あなたの言葉が止まった。
ステラは、言ったあとで自分でも恥ずかしくなったらしい。
「あっ、いやその、変な意味じゃなくて!」
「どんな意味だよ」
「うぅ……!」
また顔が赤くなる。
ルミナが静かにお茶を飲みながら言った。
「ステラ」
「ひゃい」
「わかりやすいですね」
「ルミナちゃんはほんとそういうとこ容赦ないよねぇ!?」
食卓へ笑い声が広がる。
温かかった。
料理の湯気も。
灯りも。
誰かの声も。
全部。
こんな時間が、ずっと続けばいいと思ってしまうくらいには。
あなたはもう、一人だった頃の静けさを思い出せなくなり始めていた。
食卓の空気は、そのあともしばらく賑やかだった。
ステラは「ノクスちゃんがピーマン食べた記念日!」とかいう謎の祝い方を始めるし。
プリンは「継続摂取が重要です」と追加のピーマンを勧めてくるし。
ルミナは静かな顔のまま、当然みたいにあなたの皿へサラダを追加してくる。
「待て」
「はい」
「なんで増えた」
「野菜不足なので」
「今ピーマン食べただろ」
「まだ不足しています」
「終わりが見えない」
ステラがけらけら笑う。
「がんばれノクスちゃん!」
「お前も食え」
「食べてるもん!」
ステラはぱくぱくとサラダを口へ運ぶ。
ピーマンも普通に食べている。
むしろ野菜自体は、そこまで嫌いではない。
「でもステラも子ども舌だろ」
「えっ」
「この前、抹茶アイス一口で死にそうな顔してたじゃん」
「うっ」
動きが止まった。
「……だって美味しくなかった!」
「子どもか」
「ノクスちゃんにだけは言われたくない!」
「餡子もダメなんだっけ」
「うぅ……あれはなんか、口の中が重くなる感じするし……」
「語彙が子ども」
「むぅ……」
ステラが頬を膨らませる。
その顔が面白くて、あなたは少し笑ってしまった。
すると。
「……」
隣で、ルミナが静かに視線を逸らした。
「ん?」
「どうしたルミナ」
「いえ」
「なんか反応しただろ」
「……してません」
明らかに怪しかった。
ステラも気づいたらしく、じーっとルミナを見る。
「……ルミナちゃん」
「なんですか」
「もしかして苦手なものある?」
「ありません」
「今の間なんなの」
数秒の沈黙。
それからルミナが、静かに箸を置いた。
「……納豆は、少し」
「へぇ!?」
あなたとステラの声が揃う。
ルミナは少しだけ眉を寄せた。
「匂いが強いので……」
「意外すぎる」
「ルミナちゃんにも苦手なものあったんだ……!」
「あります」
ルミナは静かな顔のまま続ける。
「なので、ノクスだけ責めるのは不公平でした」
「今さら!?」
「ですがピーマンは食べてください」
「結局そこは譲らないんだな……」
ステラが吹き出す。
「ふふっ、なんか安心したぁ」
「何が」
「だってみんな苦手なのあるんだなーって」
その言葉に、食卓の空気が少し柔らかくなる。
完璧な魔法少女。
太陽みたいな人気者。
世界を嫌っていたあなた。
でも、こうして食卓を囲んでいると、みんなただの普通の子どもみたいだった。
「ノクス」
「ん?」
ルミナが静かにこちらを見る。
「最近、よく笑いますね」
「……そうか?」
「はい」
ルミナは小さく頷いた。
「前は、もっと気を張ってそうでした」
「……」
その言葉に、少しだけ空気が静かになる。
ステラも、箸を止めてこちらを見た。
あなたは数秒だけ黙って、それから小さく肩をすくめる。
「……まあ」
「慣れたんだろ」
「何にですか?」
ルミナが静かに尋ねる。
あなたは少しだけ考える。
この部屋に。
誰かの声があることに。
帰ってきた時、灯りがついていることに。
当たり前みたいに、隣へ誰かが座っていることに。
「……全部」
小さく答える。
「……そっか」
ステラが、少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔は、どこか安心したみたいでもあった。
あなたがここへ慣れていくことを。
この場所へ残ってくれることを。
きっと、ずっと願っていたみたいに。
「ノクス」
ルミナが、静かな声で名前を呼ぶ。
「ん?」
「おかわり、あります」
「急に現実的だな」
「成長期なので」
「誰が」
「全員です」
「プリンも?」
「可能性があります」
「便利だなお前」
ステラが吹き出す。
「ふふっ、プリンちゃん最強だ……」
笑い声が広がる。
温かい。
食卓も。
部屋も。
この空気そのものが。
外の世界はきっと、今も相変わらずだった。
どこかで警報が鳴っていて。
どこかで誰かが戦っていて。
誰かが傷ついている。
それは変わらない。
でも、少なくとも今だけは。
この部屋の中だけは。
そんなものから切り離されたみたいに、穏やかだった。
ふと、あなたは向かい側を見る。
ステラが笑っている。
隣では、ルミナが静かにお茶を飲んでいる。
プリンは当然みたいな顔で、小さくスープを飲んでいた。
「……」
不思議だった。
少し前まで、こんな未来は想像できなかった。
誰かと食卓を囲んで。
くだらない話をして。
野菜で揉めて。
笑って。
そんな普通の夜を、自分が欲しいと思うなんて。
「ノクスちゃん?」
ステラが首を傾げる。
「またぼーっとしてる」
「……してない」
「してるよー」
笑いながら、ステラがこちらを見る。
その笑顔を見ていると。
この時間を壊したくないと、自然に思ってしまった。
守りたい、と思った。
世界のためとか。
正義のためとか。
そんな大きな理由じゃなくて。
ただ、この食卓を。
この笑い声を。
失いたくなかった。
「……」
あなたは小さく息を吐き、それから箸を持ち直す。
「……冷めるぞ」
「はーい!」
「はい」
「私は既に飲み終えました」
三人の声が返ってくる。
その当たり前みたいな返事が、どうしようもなく温かかった。
*
夕飯を食べ終わる頃には、時計の針はもう二十二時を回っていた。
食器を洗い終えたキッチンには、まだ少しだけ温かい匂いが残っている。
ソファでは、ステラが完全にだらけていた。
「もーうごけなーい……」
「さっきまで元気だっただろ」
「満腹になると人はダメになるんだよ……」
「初めて聞いた理論だな」
あなたは呆れながら、冷蔵庫からアイスを取り出す。
すると。
「!!」
ソファの上で、ステラが勢いよく起き上がった。
「アイス!?」
「動いてるぞ」
「それは抹茶!?」
「違う」
「やったぁ!」
満面の笑みだった。
あなたは小さく笑いながら、バニラアイスを一つ放り投げる。
ステラが慌てて受け取った。
「危なっ!?」
「反応いいな」
「アイスへの反射神経は最強なので!」
「誇るな」
ルミナは、ソファの端で静かにお茶を飲んでいる。
湯気が、淡く夜へ溶けていた。
「ルミナは食わないのか」
「今は大丈夫です」
「珍しいな」
「少し温かいものを飲みたい気分なので」
あなたはちらりとマグカップを見る。
「……抹茶ラテ?」
「はい」
ルミナが静かに頷く。
その横で、ステラが露骨に顔をしかめた。
「うぇ……苦そう」
「お前ほんと抹茶ダメだな」
「だって苦いもん!」
「子どもか」
「ノクスちゃんにだけは言われたくない!」
「ピーマン」
「うっ」
急所だった。
ステラが悔しそうに唸る。
ルミナはそんなやり取りを見ながら、小さく口元を緩めている。
「でもルミナちゃんは大人だよねぇ……」
「そうか?」
「抹茶飲めるし」
「納豆以外は」
「蒸し返すな」
ルミナが静かに眉を寄せた。
その反応が珍しくて、ステラが吹き出す。
「ふふっ、ルミナちゃんその顔かわいい」
「かわいくありません」
「してるしてる」
完璧そうに見えて、ちゃんと苦手なものがある。
その当たり前が、なんだか少しだけ嬉しかった。
「……」
あなたがぼんやり見ていると、ルミナがこちらを見返した。
「どうしました?」
「いや別に」
「見ていました」
「見てない」
「見てました」
「観察力高すぎるだろお前」
ルミナが少しだけ笑う。
その瞬間。
「……」
ステラがじっとこちらを見ていた。
「ん?」
「……」
「どうした」
「……なんでもない」
そう言いながら、ステラは慌てたようにアイスを口へ運ぶ。
でも数秒後には、またちらっとこちらを見る。
視線が落ち着かない。
本人も隠せていない。
「ステラ」
「ひゃい!?」
ルミナが静かに名前を呼ぶ。
「わかりやすいですね」
「うぅ……!」
ステラがソファへ顔を埋めた。
「やめてぇ……」
「何が?」
「ノクスちゃん鈍い……」
「悪口?」
「違うもん……」
声が小さい。
耳だけ赤い。
あなたは意味がわからず、困惑した顔でステラを見る。
すると。
ぽすっ。
「……?」
突然、肩へ軽い重みが乗った。
見ると、ステラがあなたへもたれかかっていた。
「おい」
「……眠い」
「絶対誤魔化してるだろ」
「ねむいのー!」
でも、離れない。
肩へ預けられた体温が、じんわり近い。
シャンプーの甘い匂い。
柔らかい髪。
あなたは妙に落ち着かなくなる。
「……」
ルミナが、静かにその様子を見ていた。
数秒。
それから。
すっ。
「うわっ」
反対側へ、今度はルミナが静かにもたれかかってきた。
「お、おい」
「疲れました」
「絶対対抗しただろ今」
「気のせいです」
「気のせいじゃないだろ」
両側が重い。
しかも二人とも、離れる気配がない。
ステラがむっとした声を出す。
「ルミナちゃんずるい……」
「ステラだけでは不公平です」
「そういう問題!?」
プリンが、当然みたいな顔でソファの背もたれへ乗る。
「非常に安定した布陣です」
「布陣って言うな」
「家族感があります」
「そのワード便利すぎるだろ……」
でも、否定できなかった。
テレビでは、深夜のバラエティ番組が流れている。
くだらない芸人のやり取り。
笑い声。
明るすぎるテロップ。
そんな音を聞きながら、三人分の体温がすぐ近くにある。
「……」
あなたは小さく息を吐いた。
眠い。
温かい。
静かだ。
ステラはもう、半分くらい寝かけている。
肩へ頭を預けたまま、時々うとうとしていた。
「……ノクスちゃん」
「ん?」
「今日、楽しかったね」
眠そうな声だった。
でも、その言葉だけは妙にはっきり聞こえた。
「……まあな」
「えへへ……」
嬉しそうに笑って、ステラの体重が少しだけこちらへ寄る。
ルミナも静かに目を閉じていた。
長い睫毛。
穏やかな呼吸。
戦場では絶対に見せない、無防備な顔。
「……」
こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
世界は相変わらずで。
きっと明日も何かが壊れて。
誰かが泣いて。
でも、帰ってきた時この部屋に灯りがあって。
「おかえり」と言ってくれる誰かがいて。
こうして隣で眠そうに笑ってくれるなら。
それだけで、また明日を戦える気がした。
「……ノクス」
ルミナが、目を閉じたまま小さく呟く。
「ん」
「寝ないでください」
「お前も眠そうだろ」
「……まだ起きています」
数秒後。
こてん。
ルミナの頭が、静かにあなたの肩へ落ちた。
「……寝てるじゃねぇか」
小さく笑う。
反対側では、ステラも完全に眠っていた。
両側が温かい。
重い。
でも、嫌じゃなかった。
プリンが、ソファの上で小さく揺れる。
「幸福指数が高水準です」
「まだその機能あったんだな……」
「あります」
「便利だなお前」
あなたは小さく笑って、それから静かに目を閉じた。
世界は、相変わらずだった。
でも、この夜だけは。
少しだけ優しかった。
*
ステラの寝息が聞こえる。
反対側では、ルミナも静かに眠っていた。
テレビはいつの間にか、深夜の通販番組へ変わっている。
部屋の灯りも、少しだけ落としてあった。
「……」
あなたはそっと身体を動かし、二人を起こさないように立ち上がる。
毛布を持ってきて、先にステラへかけた。
「ん……」
小さく身じろぎして、でも起きない。
無防備な寝顔だった。
戦っている時の、あの太陽みたいな笑顔じゃない。
年相応の、ただの女の子の顔。
「……」
ステラの手が、眠ったまま服の裾を掴んでいる。
離したくないみたいに。
「……子どもかよ」
小さく笑う。
でも、振り払う気にはなれなかった。
次に、ルミナへ毛布をかける。
長い睫毛。
静かな寝息。
こちらは眠っている時ですら少し警戒しているみたいに、ほんの少しだけ眉が寄っていた。
「……お前、寝てても気を張ってんのかよ」
返事はない。
二人とも、本当に眠っている。
静かな部屋だった。
冷蔵庫の低い駆動音。
時計の秒針。
窓の外を走る車の音。
生活の音だけが、夜の中で小さく続いている。
「……静かですね」
ふいに、小さな声がした。
見ると、プリンがソファの背もたれで揺れている。
「お前、起きてたのか」
「本来、睡眠は不要です」
「でも寝るよな」
「効率目的ではなく、趣味に近い行動です」
「お前ほんと変な生き物だな」
「ノクスほどではありません」
「言うようになったな」
プリンが、少しだけ得意そうに揺れる。
あなたは小さく笑った。
それから、なんとなくプリンを見つめる。
白い身体。
小さな手。
金色の瞳。
最初に会った時は、もっと胡散臭い生き物だと思っていた。
今でも割と胡散臭い。
でも。
「……なあ」
「はい」
「お前、ほんと変なやつだよな」
「二回目です」
「大事なことだから」
「訂正を要求します」
「やだ」
プリンが、少しだけ不満そうに揺れた。
あなたはそのまま、ふいに手を伸ばす。
「……?」
そのまま、プリンを持ち上げた。
「ノクス?」
「ん」
胸元へ抱き寄せる。
ふわふわしていて、温かい。
「……現在、状況を確認しています」
「どうだ」
「抱擁されています」
「正解」
「なぜですか」
「なんとなく」
「曖昧です」
プリンの身体が、腕の中で小さく揺れる。
金色の瞳が、ぱちぱち瞬いていた。
「……」
あなたはそのまま、プリンの頭を撫でる。
ゆっくり。
何度も。
「……ノクス」
「ん?」
「普段より接触頻度が高いです」
「嫌か?」
「……」
一瞬だけ、プリンが黙った。
それから。
「嫌では、ありません」
「そっか」
あなたは小さく笑う。
そのまま、さらに撫でた。
ぷるぷる揺れる。
「……」
「なんか照れてる?」
「否定します」
「でも揺れてるぞ」
「これは通常挙動です」
「へぇ」
「……」
プリンが少しだけ、あなたから視線を逸らす。
でも逃げない。
抱き上げられたまま、大人しく撫でられている。
「なあプリン」
「はい」
「ありがとな」
「……?」
「お前がいなかったら、
多分こうなってなかった」
ステラとも。
ルミナとも。
こんなふうに笑って。
こんなふうに帰ってきて。
こんな夜を過ごすこともなかった。
「……」
プリンは静かにこちらを見る。
金色の瞳が、じっとあなたを映していた。
「私は、生きたかっただけです」
「それでもだよ」
あなたはもう一度、プリンの頭を撫でる。
「大好きだぞ、プリン」
「…………」
止まった。
プリンの動きが、ぴたりと止まる。
「おーい」
「……現在、処理負荷が上昇しています」
「ははっ」
「急激な好意表現は推奨されません」
「なんで」
「……慣れていません」
小さな声だった。
プリンの身体が、腕の中でふるふる揺れている。
照れていた。
機械みたいな口調のくせに、わかりやすすぎるくらい照れていた。
「かわいいなぁ、お前」
「否定します」
「好きだぞ」
「再実行を確認」
「好き好き」
「連続入力は負荷が高いです」
「好き」
「……ノクス」
「ん?」
「ずるいです」
「何が」
「そのような言葉を、不意に使用するところです」
「褒めてる?」
「苦情です」
「どっちだよ」
プリンは答えない。
ただ、腕の中で小さく揺れながら。
どこか困ったみたいに、でも少し嬉しそうにしていた。
あなたはそんなプリンを見ながら、もう一度静かに撫でる。
部屋は静かだった。
ステラの寝息。
ルミナの穏やかな呼吸。
そして、腕の中で揺れる小さな温度。
その全部を感じながら、あなたはゆっくり目を閉じる。
帰ってきたいと思った。
ただ、それだけだった。
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