転生者がTS魔法少女になって頑張る話。   作:メルヘン侍

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風邪回パート1です。


第三話 帰る場所ができてしまった

 これは。

 

 帰る場所に慣れ始めたノクスが、少しだけ怖くなってしまった話。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 帰る場所がある。

 

 そのことに、安心した。

 

 けれど思っていたよりずっと、怖いことだった。

 

 夕方のリビングには、味噌汁の匂いがしていた。

 

 テレビの音は小さめで、窓の外では街の明かりが少しずつ増えている。

 

 遠くでアーク警報の予備通知が流れた気がしたが、それはすぐに通常放送へ戻った。

 

 もう、この世界ではそれくらいのことは日常だった。

 

 そして、ノクスの目の前にも、別の日常があった。

 

「ノクス」

 

 キッチンから、静かな声がした。

 

「お皿、お願いします」

 

「あ、うん」

 

 反射的に返事をして、ノクスはソファから立ち上がる。

 

 キッチンには、白いエプロンをつけたルミナがいた。

 

 青い髪を軽くまとめ、慣れた手つきで鍋を見ている。湯気の向こうで伏せられた横顔は、戦場で見る時よりずっと柔らかい。

 

 雨でも霧でもなく。

 

 ただ、家の明かりの中にいる少女だった。

 

「……何を見てるんですか」

 

「いや」

 

 ノクスは慌てて視線を逸らした。

 

「普通に、料理してるなって」

 

「料理くらいします」

 

「いや、そうなんだけど」

 

「褒めてます?」

 

「褒めてる」

 

 そう言うと、ルミナはほんの少しだけ目元を緩めた。

 

「なら、許します」

 

「何を……?」

 

 ノクスが首を傾げたところで、リビングから明るい声が飛んだ。

 

「ノクスちゃーん! 箸もお願い!」

 

「お前も動けよ」

 

「私は今、重要任務中なので!」

 

 ステラはソファの上でクッションを抱え、真剣な顔でテレビを見ていた。

 

 画面には、夕方のニュース番組。

 

 魔法少女特集。

 

 今日もどこかで誰かが戦って、誰かが笑って、誰かが拍手されている。

 

 ステラはその画面を見ながら、眉を寄せたり、頬を膨らませたりしていた。

 

「重要任務って何だよ」

 

「この番組、私の過去映像出すって言ってたの! 変な切り抜きされてないか確認しないと!」

 

「芸能人か」

 

「魔法少女です!」

 

「似たような扱いされてるのが問題なんだよなぁ……」

 

 ノクスがぼやくと、テーブルの上でプリンがぷるんと揺れた。

 

「実際、ステラの露出頻度は高水準です」

 

「ほら!」

 

「ただし料理技能は低水準です」

 

「なんで今それ言うの!?」

 

「事実共有です」

 

「便利ワードしないで!」

 

 ステラが叫ぶ。

 

 ルミナが小さく笑う。

 

 プリンが当然の顔で丸くなる。

 

 ノクスは食器棚から皿を取り出しながら、その光景を見ていた。

 

 うるさい。

 騒がしい。

 落ち着かない。

 

 なのに、胸の奥が妙に温かかった。

 

「……」

 

 皿を持つ手が、少しだけ止まる。

 

 なんだ、これ。

 

 そう思った。

 

 こんなものは、知らない。

 

 前の世界にも、似たような時間はあったのかもしれない。

 

 けれど、少なくとも今のノクスにとって、この光景はあまりにも眩しかった。

 

 誰かが料理をしている。

 誰かが騒いでいる。

 小さなマスコットがどうでもいい分析をしている。

 自分の帰りを待つ場所がある。

 食卓に、自分の席がある。

 

 それだけのことだ。

 

 なのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。

 

「ノクス?」

 

 ルミナの声で、意識が戻る。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ああ」

 

 ノクスはすぐに笑った。

 

「大丈夫」

 

 その瞬間、ルミナの目が少し細くなった。

 

 しまった、と思う。

 

 最近、ルミナはその言葉に敏感だった。

 

「……本当に?」

 

「本当に」

 

「信用できません」

 

「即答やめろ」

 

 ステラがソファから身を乗り出す。

 

「ノクスちゃんの大丈夫は、大丈夫じゃない時の大丈夫だもんね!」

 

「お前まで言う?」

 

「だって事実だし!」

 

「事実です」

 

「プリンも乗るな」

 

 いつものやり取り。

 いつもの空気。

 

 それで終わるはずだった。

 

 けれど、ルミナだけは少し長くノクスを見ていた。

 

 静かな青い瞳。

 雨みたいな視線。

 

 その視線から逃げるように、ノクスは皿をテーブルへ並べた。

 

 夕食は、いつもより少し賑やかだった。

 

 ルミナの作った煮物。

 味噌汁。

 焼き魚。

 

 ステラが「野菜も食べようね!」とやたら嬉しそうに小鉢を差し出してきたので、ノクスは全力で顔をしかめた。

 

「いらない」

 

「だめです」

 

 ルミナが即座に言った。

 

「食べてください」

 

「いや、これは人類が食べるには早すぎる」

 

「ただのほうれん草です」

 

「青い」

 

「野菜なので」

 

「苦い」

 

「まだ食べてませんよね」

 

 逃げ道がない。

 

 ステラがにこにこしながら箸を差し出す。

 

「はい、あーん」

 

「するか」

 

「えー?」

 

「えーじゃない」

 

 すると、ルミナが静かに箸を持った。

 

「では、私が」

 

「待て」

 

「はい」

 

「なぜそうなる」

 

「食べないからです」

 

「圧が強い」

 

 プリンがテーブルの端で頷いた。

 

「健康管理は重要です」

 

「お前、最近そっち側だよな」

 

「私は常にノクスの味方です」

 

「味方の顔をした敵だろ」

 

「野菜を食べてください」

 

「裏切り者!」

 

 ステラが笑った。

 ルミナも小さく笑った。

 

 その笑い声に、ノクスは結局、負けた。

 

「……一口だけだからな」

 

「はい」

 

「本当に一口だけ」

 

「はい」

 

 ルミナが小さく差し出した箸を、ノクスは渋々口に入れる。

 

 苦い。

 

 いや、思ったよりは苦くない。

 

 でも負けた気がする。

 

「……どうですか?」

 

「世界はまだ間違ってる」

 

「美味しいんですね」

 

「なんでそうなる」

 

「顔がそう言ってます」

 

「言ってない」

 

 ステラがまた笑う。

 プリンが満足げに揺れる。

 ルミナが穏やかに目を細める。

 

 その全部が、当たり前みたいにそこにあった。

 

 ノクスは箸を握ったまま、ふと黙った。

 

 楽しい。

 安心する。

 ここにいたい。

 

 そう、何度も思ってしまう。

 

「……」

 

 その瞬間、胸の奥が冷える。

 

 だめだ。

 

 そんな風に思ったら、だめだ。

 

 慣れるのは、違う。

 

 この世界は、簡単に奪う。

 

 昨日まで隣にいた誰かが、今日にはニュースの中の名前になる。

 

 笑っていた子が、次の瞬間には戦場で血を流す。

 

 拍手されて、消費されて、次の誰かに席を譲る。

 

 そんな世界だ。

 

 なのに、こんなにも温かいものを持ってしまっていいのか。

 

「ノクス」

 

 ルミナの声。

 

「顔色、悪いです」

 

「……そう?」

 

「はい」

 

 ステラも心配そうに覗き込む。

 

「疲れてる?」

 

「いや」

 

 ノクスは笑う。

 

 いつものように。

 軽く。

 何でもないみたいに。

 

「ちょっと眠いだけ」

 

 プリンの金色の目が、じっとノクスを見ていた。

 

「本日の睡眠時間は不足しています」

 

「いつもだろ」

 

「いつもなのが問題です」

 

「正論やめろ」

 

 笑って誤魔化す。

 

 大丈夫。

 

 いつものことだ。

 

 少し戦って。

 少し疲れて。

 少し寝れば戻る。

 

 そうやって今までやってきた。

 

 だから、今回もそうだ。

 

 そう思いたかった。

 

 食後、ルミナは片付けをしていた。

 

 ステラは洗い物を手伝おうとして、皿を一枚滑らせかけ、ルミナに静かに止められていた。

 

「ステラ」

 

「はい」

 

「拭く係をお願いします」

 

「戦力外通告!?」

 

「適材適所です」

 

「言い方が優しいのに厳しい!」

 

 プリンがソファの上で丸くなりながら、淡々と告げる。

 

「ステラの陶器破損リスクは高水準です」

 

「プリンちゃん、今日ずっと私に厳しい!」

 

「成長を期待しています」

 

「先生みたいなこと言ってる!」

 

 そのやり取りを背中で聞きながら、ノクスは窓際に立っていた。

 

 夜の街が見える。

 

 光の粒。

 ビルの明かり。

 流れていく車。

 

 どこかで今日も警報が鳴るかもしれない。

 どこかで今日も誰かが戦っているかもしれない。

 

 ノクスはスマホを見る。

 

 通知はない。

 

 アーク反応も、今のところはない。

 

 ないなら、休めばいい。

 

 そうするべきだ。

 

 ルミナも、ステラも、プリンも、きっとそう言う。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、身体の奥が落ち着かなかった。

 

 何かしていないと、怖い。

 

 止まっていると、この部屋の温かさを実感してしまう。

 

 ルミナのいるキッチン。

 ステラの騒がしい声。

 プリンの小さな重み。

 

 自分の席。

 自分の帰る場所。

 

 それが全部、失くなる想像をしてしまう。

 

「……っ」

 

 喉の奥が詰まる。

 

 違う。

 

 そんなこと、考えるな。

 

 考えるくらいなら、動け。

 

 戦え。

 

 壊れる前に、壊せ。

 奪われる前に、先に潰せ。

 

 アークがいる限り、この日常は安全じゃない。

 

 なら、倒すしかない。

 

 一体でも多く。

 一秒でも早く。

 

 誰かが泣く前に。

 誰かが消える前に。

 

「ノクス」

 

 背後から声。

 

 振り返ると、ルミナが立っていた。

 

 いつの間にか片付けは終わっていたらしい。

 

 ステラはリビングでプリンに何か抗議している。

 

 ルミナだけが、静かにこちらを見ていた。

 

「今日、出るつもりですか」

 

「……いや」

 

 ノクスは笑う。

 

「出ないよ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 ルミナはしばらく黙っていた。

 

 その視線が痛い。

 

 嘘を見抜かれている気がした。

 

 いや、たぶん見抜かれている。

 

「……休んでください」

 

 ルミナは言った。

 

「今日は、ちゃんと」

 

「分かってる」

 

「分かってない顔です」

 

「どんな顔だよ」

 

「無茶する人の顔です」

 

 言い返せなかった。

 

 ルミナは一歩近づく。

 

 青い瞳が、まっすぐノクスを見上げていた。

 

「最近、戦闘回数が増えています」

 

「……そう?」

 

「誤魔化さないでください」

 

 静かな声。

 

 怒鳴っていない。

 責めてもいない。

 

 なのに、ノクスは少しだけ息苦しくなった。

 

「管理庁の記録にも残っています。プリンの記録にも」

 

「プリン」

 

 ノクスがソファを見る。

 

 プリンは目を逸らした。

 

「健康管理上、共有が必要でした」

 

「裏切り者二号……」

 

「一号は誰ですか」

 

「ルミナ」

 

「私は味方です」

 

 ルミナは即答した。

 

「だから止めています」

 

「……」

 

「ノクス」

 

 ルミナの声が、少しだけ柔らかくなる。

 

「怖いんですか」

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

「……何が」

 

「ここにいることが」

 

 ノクスは答えられなかった。

 

 ルミナは、それ以上踏み込まなかった。

 

 ただ静かに、ノクスの手を取った。

 

 冷たい指先。

 

 でも、触れたところから確かに温かい。

 

「今日は寝ましょう」

 

「……」

 

「私もいます」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 嬉しい。

 安心する。

 

 だから怖い。

 

 ノクスは曖昧に笑って、手をそっと離した。

 

「分かった」

 

 また嘘をついた。

 

 深夜。

 

 家の中は静かだった。

 

 ステラはもう眠っている。

 

 ルミナも、自室に戻った。

 

 プリンはソファの上で丸くなっていたが、たぶん眠ってはいない。

 

 ノクスは、そっと上着を取った。

 

 音を立てないように玄関へ向かう。

 靴を履く。

 ドアノブに手をかける。

 

 その瞬間。

 

「本日は休息を推奨します」

 

 背後から声がした。

 

 振り返らなくても分かる。

 

 プリンだった。

 

 白い身体が、暗い廊下に小さく浮かんでいる。

 

「魔力循環負荷が継続しています」

 

「小声でも説明長いな」

 

「睡眠不足、戦闘後疲労、軽度の発熱傾向を確認」

 

「発熱?」

 

「微熱です」

 

「なら大丈夫だろ」

 

「大丈夫ではありません」

 

 即答だった。

 

 ノクスは苦笑する。

 

「少しだけ」

 

「その発言の信頼度は低いです」

 

「すぐ帰る」

 

「過去の発言履歴と矛盾します」

 

「お前ほんと嫌なところだけ正確だよな」

 

 プリンは揺れなかった。

 

 ただ、じっとノクスを見ていた。

 

「ノクス」

 

 いつもより少しだけ、声が低い。

 

「なぜ行くのですか」

 

「アークが出るかもしれないから」

 

「現在、緊急反応はありません」

 

「予兆くらいあるだろ」

 

「微弱反応のみです。管理庁通常巡回で対応可能範囲です」

 

「それでも」

 

 ノクスは言葉を切る。

 

 それでも、行きたい。

 

 行かなきゃいけない。

 

 ここにいたら、だめになる。

 

 安心してしまう。

 

 この場所が大事になってしまう。

 

 もう、なっている。

 

 その事実から逃げるみたいに、ノクスは笑った。

 

「俺が先に潰せば、その分誰かが楽できる」

 

 プリンは黙った。

 

 その沈黙が、いつもより長かった。

 

「……ノクスは」

 

「ん?」

 

「戦闘時の方が、精神状態が安定しています」

 

「褒めてる?」

 

「心配しています」

 

「そうかよ」

 

 ノクスは小さく息を吐いて、プリンの頭を軽く撫でた。

 

「大丈夫」

 

 プリンの耳が、ぴくりと動く。

 

「すぐ帰る」

 

「……推奨しません」

 

「分かってる」

 

「ルミナに怒られます」

 

「それも分かってる」

 

「ステラも騒ぎます」

 

「分かってる」

 

「私は」

 

 プリンが、そこで一瞬止まった。

 

「……私は、嫌です」

 

 ノクスの手が止まる。

 

 暗い廊下。

 

 小さな白い存在が、金色の目で見上げてくる。

 

「ノクスが無理をするのは、嫌です」

 

「……」

 

 ノクスは少しだけ目を伏せた。

 

 それでも、ドアノブから手を離せなかった。

 

「悪い」

 

 小さく言う。

 

「でも、行ってくる」

 

 プリンは止めなかった。

 

 止められなかった。

 

 ただ、静かにノクスの肩へ飛び乗った。

 

「同行します」

 

「来るのかよ」

 

「単独行動させる方が危険です」

 

「……そっか」

 

「はい」

 

 ノクスは苦笑して、玄関の扉を開けた。

 

 夜の空気が入り込む。

 

 冷たい。

 

 少しだけ、身体が震えた。

 

 でも、胸の奥の不安は薄くなる。

 

 戦場へ向かう時だけ、呼吸がしやすい。

 

 そのことに、ノクス自身はまだ気づかないふりをしていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 朝方

 

 ノクスは帰ってきた。

 

 玄関の扉を開ける手が、少し震えていた。

 

 服の端は破れ、髪には黒い粒子が絡んでいる。目立つ傷はない。プリンが応急修復したからだ。

 

 でも、身体の奥が熱い。

 喉が痛い。

 頭が重い。

 呼吸をするたび、胸の奥が軋んだ。

 

「……っ」

 

「体温上昇」

 

 肩の上でプリンが言う。

 

「戦闘継続による自己修復負荷増大。休息を強く推奨します」

 

「分かってる」

 

「分かっていません」

 

「帰ってきただろ」

 

「帰還と休息は同義ではありません」

 

「正論……」

 

 ノクスは靴を脱ぎ、そっと廊下を進もうとした。

 

 その時、リビングの明かりがついた。

 

「……」

 

 そこに、ルミナがいた。

 

 寝間着の上にカーディガンを羽織っている。

 

 青い髪は少し乱れていて、目元には眠気が残っている。

 

 でも、その瞳だけは完全に覚醒していた。

 

「また」

 

 静かな声。

 

「行ってたんですか」

 

 ノクスは一瞬、言葉に詰まった。

 

「……ちょっとだけ」

 

 ルミナは近づいてきた。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 そして、ノクスの前で立ち止まる。

 

 視線が、破れた袖へ落ちる。

 次に、頬。

 それから、額。

 

 ルミナの手が伸びる。

 

 冷たい指が、ノクスの額に触れた。

 

「熱い」

 

「いや、これは戦闘後だから」

 

「ノクス」

 

 名前を呼ばれる。

 

 それだけで、言い訳が止まった。

 

 ルミナは怒っていなかった。

 

 少なくとも、表情だけ見れば。

 

 でも、その静けさが何より怖かった。

 

「今日は寝てください」

 

「……うん」

 

「絶対に」

 

「分かった」

 

「信用できません」

 

「だよな」

 

 ノクスは苦笑する。

 

 けれど、笑った瞬間、少し視界が揺れた。

 

「……っ」

 

 足元がふらつく。

 

 ルミナの手が、すぐに腕を支えた。

 

「ノクス」

 

「大丈夫」

 

 反射だった。

 

 いつもの言葉。

 

 便利で、軽くて、何も説明しなくて済む言葉。

 

 けれど、ルミナの瞳が少しだけ揺れた。

 

「大丈夫じゃありません」

 

 その声は、静かだった。

 

 だけど、痛いくらい真剣だった。

 

 ノクスは何も言えなかった。

 

 ただ、支えられるまま、ゆっくりリビングへ入る。

 

 窓の外では、朝の光が少しずつ街を照らし始めていた。

 

 帰る場所の明かりが、まだ消えずに残っていた。

 

 それを見て、ノクスはまた少しだけ怖くなる。

 

 こんなにも温かい場所を、もう知ってしまったことが。

 

 怖くて。

 嬉しくて。

 どうしようもなく、苦しかった。

 

 そのまま、ノクスは自室へ戻った。

 

 できるだけ静かに扉を閉める。

 

 プリンが後ろからふわりと入ってきて、ベッドの上へ飛び乗った。

 

「現在、疲労指数は危険域へ接近しています」

 

「朝から重いなぁ……」

 

 上着を脱ぎながら、ノクスは苦笑した。

 

 身体が妙に熱い。

 

 戦闘後特有の火照り、というには少し違う気がする。

 

 喉も痛い。

 頭も重い。

 

 でも、まだ動ける。

 

 まだ大丈夫。

 

 そう思おうとした。

 

「休息を推奨します」

 

「はいはい」

 

「最低でも六時間」

 

「長い」

 

「契約者は最近、平均睡眠時間が著しく低下しています」

 

「そんな観測しなくていいんだよ……」

 

 ベッドへ倒れ込む。

 

 柔らかい感触。

 

 ほんの少しだけ、安心してしまう。

 

 その瞬間。

 

「…………」

 

 また、胸の奥がざわついた。

 

 だめだ。

 

 こういうのに慣れるな。

 

 この部屋。

 この家。

 誰かがいる生活。

 帰ってきて、「おかえり」がある場所。

 

 そんなものを、自分は持っちゃいけない気がした。

 

 失った時、壊れる。

 立てなくなる。

 だから、本当は。

 

 もっと戦っていた方が楽だった。

 痛い方が楽だった。

 考えなくて済むから。

 

「……ノクス」

 

 プリンの声。

 

「本日は、もう外出しないでください」

 

「んー……」

 

「返答が曖昧です」

 

「考え中」

 

「推奨しません」

 

 ノクスは枕へ顔を埋めた。

 

 眠い。

 

 でも、落ち着かない。

 

 身体は限界に近いのに、意識だけが妙に冴えていた。

 

 止まるな。

 休むな。

 アークを殺せ。

 

 頭の奥で、ずっとそんな声がする。

 

 その時。

 

 こんこん、と扉が鳴った。

 

「ノクス?」

 

 ルミナだった。

 

 ノクスは反射的に身体を起こそうとして。

 

「っ、ぅ……」

 

 視界が揺れた。

 

 熱い。

 

 思った以上に熱い。

 

「入りますよ」

 

 返事を待たず、扉が開く。

 

 ルミナは小さな盆を持っていた。

 

 グラスと、水差し。

 

 それから解熱剤。

 

「……用意が早いな」

 

「必要だと思ったので」

 

 ルミナは静かにベッドの横へ座る。

 

 そして改めて、ノクスの顔を見た。

 

 青い瞳が、少しだけ険しくなる。

 

「やっぱり熱があります」

 

「気のせい」

 

「三回目ですよ、その言い訳」

 

「便利なんだよ」

 

「便利に使わないでください」

 

 呆れた声だった。

 

 でも、その奥にはちゃんと心配が混ざっていた。

 

 ルミナは濡らしたタオルを取り出す。

 

「額、失礼します」

 

「自分でやるって」

 

「信用できません」

 

「ひどい」

 

「事実です」

 

 静かな即答。

 

 冷たいタオルが額へ乗せられる。

 

「っ……」

 

 気持ちいい。

 

 熱を持っていた思考が、少しだけ冷える。

 

 そのまま、ルミナはじっとノクスを見ていた。

 

「……最近」

 

 ぽつり、と。

 

「戦闘回数、増えてましたよね」

 

「まぁ、ちょっと」

 

「ちょっと、ではありません」

 

 ルミナの声は静かだった。

 

 怒鳴っていない。

 

 でも、逃がさない響きだった。

 

「夜間巡回」

 

「長距離移動」

 

「単独討伐」

 

「管理庁の出動記録、全部増えています」

 

「管理庁ってほんと監視社会だな……」

 

「誤魔化さないでください」

 

「……はい」

 

 素直に引き下がる。

 

 こういう時のルミナは強い。

 

 雨みたいに静かで、でも確実に逃げ道を塞いでくる。

 

「どうして、そんなに無茶するんですか」

 

 その問いに、ノクスは少しだけ黙った。

 

 答えたくない。

 

 いや、答えが分からない。

 

 みんなを守るため。

 アークを減らすため。

 

 そういう理由は、もちろん本当だ。

 

 でも、それだけじゃない。

 

「……止まると」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「なんか、怖くなるんだよ」

 

 ルミナが静かに目を細めた。

 

 ノクスは天井を見上げたまま、小さく笑う。

 

「ここ、居心地良すぎるからさ」

 

「……」

 

「慣れたら、だめな気がして」

 

 言った瞬間、部屋が静かになった。

 

 プリンも何も言わない。

 

 ルミナだけが、静かにノクスを見ていた。

 

「……失うのが、怖いんですか」

 

 ノクスは答えなかった。

 

 でも、その沈黙だけで十分だった。

 

 ルミナは小さく息を吐く。

 

 怒るみたいに。

 困るみたいに。

 

 それから、そっとノクスの髪へ触れた。

 

「ノクス」

 

「ん……」

 

「慣れてください」

 

 静かな声。

 

「ここへ帰ってくることに」

 

「……」

 

「私たちは、そのためにいるんですから」

 

 ノクスは何も言えなかった。

 

 胸の奥が、少し痛かった。

 

 嬉しくて。

 怖くて。

 

 どうしていいか分からないくらいに。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 翌朝

 

「ノクスちゃーん!! 朝ですよー!!」

 

 ばんばんばん、と勢いよく扉が叩かれる。

 

 元気すぎる声が廊下へ響き渡っていた。

 

「……うるさ……」

 

 布団へ顔を埋めたまま、ノクスは低く呻く。

 

 頭が重い。

 熱い。

 喉も痛い。

 

 昨日より悪化している気しかしなかった。

 

「起きてくださーい!」

 

「……五分……」

 

「昨日もそれ言って三十分寝てた!」

 

「覚えてるなぁ……」

 

 ぼんやり返しながら身体を起こす。

 

 その瞬間。

 

「っ……」

 

 視界が揺れた。

 

 頭の奥がぐらりと傾く。

 

 思わずベッドへ手をつくと、横でプリンが静かに告げた。

 

「現在体温、上昇傾向です」

 

「測るなぁ……」

 

「三十八度前後と推定」

 

「普通に高いな……」

 

「休息を推奨します」

 

「却下」

 

「推奨します」

 

「却下」

 

「頑固です」

 

「知ってる」

 

 ノクスは苦笑しながら立ち上がった。

 

 ふらつく。

 

 でも動ける。

 

 なら大丈夫だ。

 

 そういう問題じゃないと分かっていても、身体が止まらない。

 

 休んだ瞬間、本当に壊れそうな気がした。

 

 

 リビングへ降りると、ステラがソファの上から大きく手を振った。

 

「おはよー!」

 

「……おはよ」

 

「声低くない?」

 

「朝だから……」

 

「いつもより低いよ?」

 

 鋭い。

 

 ノクスは内心で苦笑した。

 

 一方、キッチンではルミナが朝食を作っている。

 

 味噌汁の湯気。

 焼ける音。

 静かな朝の匂い。

 

「ノクス」

 

 ルミナは振り返らずに言った。

 

「座っていてください」

 

「まだ何もしてないけど」

 

「ふらついてました」

 

「見てたの?」

 

「見えました」

 

 怖い。

 

 ノクスは素直に席へ座る。

 

 その動きを見ながら、ルミナの視線が一瞬だけこちらへ向いた。

 

「……熱、下がってませんね」

 

「まぁちょっと」

 

「ちょっとではありません」

 

 静かな声だった。

 

 怒っている。

 

 でも怒鳴らない。

 

 だから余計に怖い。

 

 ステラはまだ軽い調子だった。

 

「えー、風邪?」

 

「多分」

 

「寝不足じゃない?」

 

「それもある」

 

「絶対ちゃんと寝てないじゃん!」

 

「まぁ……」

 

「ダメだよー! 睡眠大事!」

 

 お前が言うのか、と思ったが、口に出す元気がなかった。

 

 ルミナが皿を並べる。

 

 その動きが、いつもより少しだけ静かだった。

 

 いや、静かすぎた。

 

「…………」

 

 ノクスはそっと視線を逸らす。

 

 完全に怒ってる。

 

 これはまずい。

 

 でも、心配されていることが嬉しかった。

 

 その感情に気づいた瞬間、また胸の奥がざわつく。

 

 朝食が並んだ。

 

 味噌汁を口へ運ぶ。

 

 熱い。

 

 いや、違う。

 

 自分が熱い。

 

「ノクスちゃん?」

 

「ん……?」

 

「ぼーっとしてる」

 

「してない……」

 

「してるよー」

 

 ステラが不思議そうに顔を覗き込んでくる。

 

 近い。

 

 ノクスは少しだけ顔を背けた。

 

「ほんとに大丈夫?」

 

「……大丈夫」

 

 その瞬間。

 

 かちゃん。

 

 箸を持つ手が少し滑った。

 

 小さな音。

 

 ルミナの動きが止まる。

 

「ノクス」

 

「いや、今のは……」

 

「手、震えてます」

 

「マジ?」

 

「マジです」

 

 逃げられない。

 

 ノクスは苦笑するしかなかった。

 

 一方、プリンは淡々と告げる。

 

「体温継続上昇中」

 

「契約者は休息不足です」

 

「プリンちゃん、もっと止めなきゃダメだったんじゃない?」

 

 ステラが頬を膨らませる。

 

 プリンは静かに答えた。

 

「停止指示は実施済みです」

 

「でもノクスちゃん聞かないじゃん!」

 

「はい」

 

「認めるんだ……」

 

 認めるしかない。

 

 ノクスは味噌汁を飲みながら、小さく息を吐いた。

 

 喉が痛い。

 だるい。

 頭もぼうっとする。

 

 でも、まだ倒れるほどじゃない。

 

 そう思っていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 昼頃には、完全に様子がおかしくなっていた。

 

 返事が遅い。

 ぼーっとしている。

 ソファへ座ったまま動かない。

 水を飲む回数だけが増えていく。

 

 ステラもさすがに不安になってきたらしい。

 

「ねぇほんとに病院行こ?」

 

「魔法少女って普通の病院だめなんだよねぇ」

 

「推奨されません」

 

 プリンが即答する。

 

「身体構造および魔力循環が一般人と異なるため、説明不能事例が発生します」

 

「嫌な世界観だなぁ……」

 

 ノクスはソファへ沈んだまま呟いた。

 

 身体が重い。

 少しだけ寒気もする。

 なのに熱い。

 

 最悪だ。

 

「ノクス」

 

 ルミナが静かに近づいてくる。

 

「薬です」

 

「……苦い?」

 

「飲んでください」

 

「はい」

 

 完全に逆らえなかった。

 

 ルミナは薬を飲ませ、水を渡す。

 

 その指先が少し冷たい。

 

 でも、触れられると安心してしまう。

 

 ノクスはぼんやりその手を見た。

 

「……なんですか」

 

「いや」

 

「見すぎです」

 

「すみません」

 

「熱で判断力落ちてます?」

 

「多分」

 

 ルミナが小さくため息を吐いた。

 

 でも、その目は少しだけ柔らかかった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 夕方

 

 食卓には、静かな空気が流れていた。

 

 ルミナが作ったお粥。

 温かい湯気。

 

 ステラは珍しく静かだった。

 

 多分、本気で心配している。

 

「食べられますか?」

 

「まぁ……」

 

 ノクスは箸を持つ。

 

 少し重い。

 

 なんだこれ。

 

 指先に力が入らない。

 

「……っ」

 

 視界がぼやける。

 

 熱い。

 

 頭が回らない。

 

 それでも何とか一口食べようとして。

 

 かちゃん。

 

 箸が落ちた。

 

 一瞬、部屋が静かになる。

 

「……ノクスちゃん」

 

 ステラの声。

 

 ノクスは苦笑しようとした。

 

「ごめ、ちょっと……」

 

 立ち上がろうとする。

 

 その瞬間、ぐらりと世界が傾いた。

 

「あ――」

 

 床が遠い。

 

 まずい。

 

 そう思った瞬間。

 

「ノクス!」

 

 ルミナの声。

 

 次の瞬間、身体が柔らかい腕へ支えられていた。

 

 倒れきる前に、抱き止められている。

 

「っ……」

 

 熱い。

 呼吸が浅い。

 頭が回らない。

 

 ルミナが背中を支えながら、険しい顔で額へ触れる。

 

 その表情が、一瞬で変わった。

 

「熱っ……」

 

 ステラの顔が青ざめる。

 

「え、ちょ、ノクスちゃん!?」

 

 プリンが静かに跳ねた。

 

「診断結果更新」

 

「高熱です」

 

 空気が、変わった。

 

「現在体温、三十九度後半へ到達」

 

「過労、魔力疲弊、自己修復負荷継続」

 

「危険域です」

 

「危険域!?」

 

 ステラの声が裏返る。

 

 ノクスはぼんやりした頭で苦笑した。

 

「いや、ちょっと熱あるだけ――」

 

「大丈夫じゃないです」

 

 ルミナが即座に遮った。

 

 その声は静かだった。

 

 でも、今までで一番怖い声だった。




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