これは。
帰る場所に慣れ始めたノクスが、少しだけ怖くなってしまった話。
*
帰る場所がある。
そのことに、安心した。
けれど思っていたよりずっと、怖いことだった。
夕方のリビングには、味噌汁の匂いがしていた。
テレビの音は小さめで、窓の外では街の明かりが少しずつ増えている。
遠くでアーク警報の予備通知が流れた気がしたが、それはすぐに通常放送へ戻った。
もう、この世界ではそれくらいのことは日常だった。
そして、ノクスの目の前にも、別の日常があった。
「ノクス」
キッチンから、静かな声がした。
「お皿、お願いします」
「あ、うん」
反射的に返事をして、ノクスはソファから立ち上がる。
キッチンには、白いエプロンをつけたルミナがいた。
青い髪を軽くまとめ、慣れた手つきで鍋を見ている。湯気の向こうで伏せられた横顔は、戦場で見る時よりずっと柔らかい。
雨でも霧でもなく。
ただ、家の明かりの中にいる少女だった。
「……何を見てるんですか」
「いや」
ノクスは慌てて視線を逸らした。
「普通に、料理してるなって」
「料理くらいします」
「いや、そうなんだけど」
「褒めてます?」
「褒めてる」
そう言うと、ルミナはほんの少しだけ目元を緩めた。
「なら、許します」
「何を……?」
ノクスが首を傾げたところで、リビングから明るい声が飛んだ。
「ノクスちゃーん! 箸もお願い!」
「お前も動けよ」
「私は今、重要任務中なので!」
ステラはソファの上でクッションを抱え、真剣な顔でテレビを見ていた。
画面には、夕方のニュース番組。
魔法少女特集。
今日もどこかで誰かが戦って、誰かが笑って、誰かが拍手されている。
ステラはその画面を見ながら、眉を寄せたり、頬を膨らませたりしていた。
「重要任務って何だよ」
「この番組、私の過去映像出すって言ってたの! 変な切り抜きされてないか確認しないと!」
「芸能人か」
「魔法少女です!」
「似たような扱いされてるのが問題なんだよなぁ……」
ノクスがぼやくと、テーブルの上でプリンがぷるんと揺れた。
「実際、ステラの露出頻度は高水準です」
「ほら!」
「ただし料理技能は低水準です」
「なんで今それ言うの!?」
「事実共有です」
「便利ワードしないで!」
ステラが叫ぶ。
ルミナが小さく笑う。
プリンが当然の顔で丸くなる。
ノクスは食器棚から皿を取り出しながら、その光景を見ていた。
うるさい。
騒がしい。
落ち着かない。
なのに、胸の奥が妙に温かかった。
「……」
皿を持つ手が、少しだけ止まる。
なんだ、これ。
そう思った。
こんなものは、知らない。
前の世界にも、似たような時間はあったのかもしれない。
けれど、少なくとも今のノクスにとって、この光景はあまりにも眩しかった。
誰かが料理をしている。
誰かが騒いでいる。
小さなマスコットがどうでもいい分析をしている。
自分の帰りを待つ場所がある。
食卓に、自分の席がある。
それだけのことだ。
なのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。
「ノクス?」
ルミナの声で、意識が戻る。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
ノクスはすぐに笑った。
「大丈夫」
その瞬間、ルミナの目が少し細くなった。
しまった、と思う。
最近、ルミナはその言葉に敏感だった。
「……本当に?」
「本当に」
「信用できません」
「即答やめろ」
ステラがソファから身を乗り出す。
「ノクスちゃんの大丈夫は、大丈夫じゃない時の大丈夫だもんね!」
「お前まで言う?」
「だって事実だし!」
「事実です」
「プリンも乗るな」
いつものやり取り。
いつもの空気。
それで終わるはずだった。
けれど、ルミナだけは少し長くノクスを見ていた。
静かな青い瞳。
雨みたいな視線。
その視線から逃げるように、ノクスは皿をテーブルへ並べた。
夕食は、いつもより少し賑やかだった。
ルミナの作った煮物。
味噌汁。
焼き魚。
ステラが「野菜も食べようね!」とやたら嬉しそうに小鉢を差し出してきたので、ノクスは全力で顔をしかめた。
「いらない」
「だめです」
ルミナが即座に言った。
「食べてください」
「いや、これは人類が食べるには早すぎる」
「ただのほうれん草です」
「青い」
「野菜なので」
「苦い」
「まだ食べてませんよね」
逃げ道がない。
ステラがにこにこしながら箸を差し出す。
「はい、あーん」
「するか」
「えー?」
「えーじゃない」
すると、ルミナが静かに箸を持った。
「では、私が」
「待て」
「はい」
「なぜそうなる」
「食べないからです」
「圧が強い」
プリンがテーブルの端で頷いた。
「健康管理は重要です」
「お前、最近そっち側だよな」
「私は常にノクスの味方です」
「味方の顔をした敵だろ」
「野菜を食べてください」
「裏切り者!」
ステラが笑った。
ルミナも小さく笑った。
その笑い声に、ノクスは結局、負けた。
「……一口だけだからな」
「はい」
「本当に一口だけ」
「はい」
ルミナが小さく差し出した箸を、ノクスは渋々口に入れる。
苦い。
いや、思ったよりは苦くない。
でも負けた気がする。
「……どうですか?」
「世界はまだ間違ってる」
「美味しいんですね」
「なんでそうなる」
「顔がそう言ってます」
「言ってない」
ステラがまた笑う。
プリンが満足げに揺れる。
ルミナが穏やかに目を細める。
その全部が、当たり前みたいにそこにあった。
ノクスは箸を握ったまま、ふと黙った。
楽しい。
安心する。
ここにいたい。
そう、何度も思ってしまう。
「……」
その瞬間、胸の奥が冷える。
だめだ。
そんな風に思ったら、だめだ。
慣れるのは、違う。
この世界は、簡単に奪う。
昨日まで隣にいた誰かが、今日にはニュースの中の名前になる。
笑っていた子が、次の瞬間には戦場で血を流す。
拍手されて、消費されて、次の誰かに席を譲る。
そんな世界だ。
なのに、こんなにも温かいものを持ってしまっていいのか。
「ノクス」
ルミナの声。
「顔色、悪いです」
「……そう?」
「はい」
ステラも心配そうに覗き込む。
「疲れてる?」
「いや」
ノクスは笑う。
いつものように。
軽く。
何でもないみたいに。
「ちょっと眠いだけ」
プリンの金色の目が、じっとノクスを見ていた。
「本日の睡眠時間は不足しています」
「いつもだろ」
「いつもなのが問題です」
「正論やめろ」
笑って誤魔化す。
大丈夫。
いつものことだ。
少し戦って。
少し疲れて。
少し寝れば戻る。
そうやって今までやってきた。
だから、今回もそうだ。
そう思いたかった。
食後、ルミナは片付けをしていた。
ステラは洗い物を手伝おうとして、皿を一枚滑らせかけ、ルミナに静かに止められていた。
「ステラ」
「はい」
「拭く係をお願いします」
「戦力外通告!?」
「適材適所です」
「言い方が優しいのに厳しい!」
プリンがソファの上で丸くなりながら、淡々と告げる。
「ステラの陶器破損リスクは高水準です」
「プリンちゃん、今日ずっと私に厳しい!」
「成長を期待しています」
「先生みたいなこと言ってる!」
そのやり取りを背中で聞きながら、ノクスは窓際に立っていた。
夜の街が見える。
光の粒。
ビルの明かり。
流れていく車。
どこかで今日も警報が鳴るかもしれない。
どこかで今日も誰かが戦っているかもしれない。
ノクスはスマホを見る。
通知はない。
アーク反応も、今のところはない。
ないなら、休めばいい。
そうするべきだ。
ルミナも、ステラも、プリンも、きっとそう言う。
分かっている。
分かっているのに、身体の奥が落ち着かなかった。
何かしていないと、怖い。
止まっていると、この部屋の温かさを実感してしまう。
ルミナのいるキッチン。
ステラの騒がしい声。
プリンの小さな重み。
自分の席。
自分の帰る場所。
それが全部、失くなる想像をしてしまう。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
違う。
そんなこと、考えるな。
考えるくらいなら、動け。
戦え。
壊れる前に、壊せ。
奪われる前に、先に潰せ。
アークがいる限り、この日常は安全じゃない。
なら、倒すしかない。
一体でも多く。
一秒でも早く。
誰かが泣く前に。
誰かが消える前に。
「ノクス」
背後から声。
振り返ると、ルミナが立っていた。
いつの間にか片付けは終わっていたらしい。
ステラはリビングでプリンに何か抗議している。
ルミナだけが、静かにこちらを見ていた。
「今日、出るつもりですか」
「……いや」
ノクスは笑う。
「出ないよ」
「本当に?」
「本当に」
ルミナはしばらく黙っていた。
その視線が痛い。
嘘を見抜かれている気がした。
いや、たぶん見抜かれている。
「……休んでください」
ルミナは言った。
「今日は、ちゃんと」
「分かってる」
「分かってない顔です」
「どんな顔だよ」
「無茶する人の顔です」
言い返せなかった。
ルミナは一歩近づく。
青い瞳が、まっすぐノクスを見上げていた。
「最近、戦闘回数が増えています」
「……そう?」
「誤魔化さないでください」
静かな声。
怒鳴っていない。
責めてもいない。
なのに、ノクスは少しだけ息苦しくなった。
「管理庁の記録にも残っています。プリンの記録にも」
「プリン」
ノクスがソファを見る。
プリンは目を逸らした。
「健康管理上、共有が必要でした」
「裏切り者二号……」
「一号は誰ですか」
「ルミナ」
「私は味方です」
ルミナは即答した。
「だから止めています」
「……」
「ノクス」
ルミナの声が、少しだけ柔らかくなる。
「怖いんですか」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……何が」
「ここにいることが」
ノクスは答えられなかった。
ルミナは、それ以上踏み込まなかった。
ただ静かに、ノクスの手を取った。
冷たい指先。
でも、触れたところから確かに温かい。
「今日は寝ましょう」
「……」
「私もいます」
その言葉が、胸に刺さった。
嬉しい。
安心する。
だから怖い。
ノクスは曖昧に笑って、手をそっと離した。
「分かった」
また嘘をついた。
深夜。
家の中は静かだった。
ステラはもう眠っている。
ルミナも、自室に戻った。
プリンはソファの上で丸くなっていたが、たぶん眠ってはいない。
ノクスは、そっと上着を取った。
音を立てないように玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアノブに手をかける。
その瞬間。
「本日は休息を推奨します」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
プリンだった。
白い身体が、暗い廊下に小さく浮かんでいる。
「魔力循環負荷が継続しています」
「小声でも説明長いな」
「睡眠不足、戦闘後疲労、軽度の発熱傾向を確認」
「発熱?」
「微熱です」
「なら大丈夫だろ」
「大丈夫ではありません」
即答だった。
ノクスは苦笑する。
「少しだけ」
「その発言の信頼度は低いです」
「すぐ帰る」
「過去の発言履歴と矛盾します」
「お前ほんと嫌なところだけ正確だよな」
プリンは揺れなかった。
ただ、じっとノクスを見ていた。
「ノクス」
いつもより少しだけ、声が低い。
「なぜ行くのですか」
「アークが出るかもしれないから」
「現在、緊急反応はありません」
「予兆くらいあるだろ」
「微弱反応のみです。管理庁通常巡回で対応可能範囲です」
「それでも」
ノクスは言葉を切る。
それでも、行きたい。
行かなきゃいけない。
ここにいたら、だめになる。
安心してしまう。
この場所が大事になってしまう。
もう、なっている。
その事実から逃げるみたいに、ノクスは笑った。
「俺が先に潰せば、その分誰かが楽できる」
プリンは黙った。
その沈黙が、いつもより長かった。
「……ノクスは」
「ん?」
「戦闘時の方が、精神状態が安定しています」
「褒めてる?」
「心配しています」
「そうかよ」
ノクスは小さく息を吐いて、プリンの頭を軽く撫でた。
「大丈夫」
プリンの耳が、ぴくりと動く。
「すぐ帰る」
「……推奨しません」
「分かってる」
「ルミナに怒られます」
「それも分かってる」
「ステラも騒ぎます」
「分かってる」
「私は」
プリンが、そこで一瞬止まった。
「……私は、嫌です」
ノクスの手が止まる。
暗い廊下。
小さな白い存在が、金色の目で見上げてくる。
「ノクスが無理をするのは、嫌です」
「……」
ノクスは少しだけ目を伏せた。
それでも、ドアノブから手を離せなかった。
「悪い」
小さく言う。
「でも、行ってくる」
プリンは止めなかった。
止められなかった。
ただ、静かにノクスの肩へ飛び乗った。
「同行します」
「来るのかよ」
「単独行動させる方が危険です」
「……そっか」
「はい」
ノクスは苦笑して、玄関の扉を開けた。
夜の空気が入り込む。
冷たい。
少しだけ、身体が震えた。
でも、胸の奥の不安は薄くなる。
戦場へ向かう時だけ、呼吸がしやすい。
そのことに、ノクス自身はまだ気づかないふりをしていた。
*
朝方
ノクスは帰ってきた。
玄関の扉を開ける手が、少し震えていた。
服の端は破れ、髪には黒い粒子が絡んでいる。目立つ傷はない。プリンが応急修復したからだ。
でも、身体の奥が熱い。
喉が痛い。
頭が重い。
呼吸をするたび、胸の奥が軋んだ。
「……っ」
「体温上昇」
肩の上でプリンが言う。
「戦闘継続による自己修復負荷増大。休息を強く推奨します」
「分かってる」
「分かっていません」
「帰ってきただろ」
「帰還と休息は同義ではありません」
「正論……」
ノクスは靴を脱ぎ、そっと廊下を進もうとした。
その時、リビングの明かりがついた。
「……」
そこに、ルミナがいた。
寝間着の上にカーディガンを羽織っている。
青い髪は少し乱れていて、目元には眠気が残っている。
でも、その瞳だけは完全に覚醒していた。
「また」
静かな声。
「行ってたんですか」
ノクスは一瞬、言葉に詰まった。
「……ちょっとだけ」
ルミナは近づいてきた。
一歩。
また一歩。
そして、ノクスの前で立ち止まる。
視線が、破れた袖へ落ちる。
次に、頬。
それから、額。
ルミナの手が伸びる。
冷たい指が、ノクスの額に触れた。
「熱い」
「いや、これは戦闘後だから」
「ノクス」
名前を呼ばれる。
それだけで、言い訳が止まった。
ルミナは怒っていなかった。
少なくとも、表情だけ見れば。
でも、その静けさが何より怖かった。
「今日は寝てください」
「……うん」
「絶対に」
「分かった」
「信用できません」
「だよな」
ノクスは苦笑する。
けれど、笑った瞬間、少し視界が揺れた。
「……っ」
足元がふらつく。
ルミナの手が、すぐに腕を支えた。
「ノクス」
「大丈夫」
反射だった。
いつもの言葉。
便利で、軽くて、何も説明しなくて済む言葉。
けれど、ルミナの瞳が少しだけ揺れた。
「大丈夫じゃありません」
その声は、静かだった。
だけど、痛いくらい真剣だった。
ノクスは何も言えなかった。
ただ、支えられるまま、ゆっくりリビングへ入る。
窓の外では、朝の光が少しずつ街を照らし始めていた。
帰る場所の明かりが、まだ消えずに残っていた。
それを見て、ノクスはまた少しだけ怖くなる。
こんなにも温かい場所を、もう知ってしまったことが。
怖くて。
嬉しくて。
どうしようもなく、苦しかった。
そのまま、ノクスは自室へ戻った。
できるだけ静かに扉を閉める。
プリンが後ろからふわりと入ってきて、ベッドの上へ飛び乗った。
「現在、疲労指数は危険域へ接近しています」
「朝から重いなぁ……」
上着を脱ぎながら、ノクスは苦笑した。
身体が妙に熱い。
戦闘後特有の火照り、というには少し違う気がする。
喉も痛い。
頭も重い。
でも、まだ動ける。
まだ大丈夫。
そう思おうとした。
「休息を推奨します」
「はいはい」
「最低でも六時間」
「長い」
「契約者は最近、平均睡眠時間が著しく低下しています」
「そんな観測しなくていいんだよ……」
ベッドへ倒れ込む。
柔らかい感触。
ほんの少しだけ、安心してしまう。
その瞬間。
「…………」
また、胸の奥がざわついた。
だめだ。
こういうのに慣れるな。
この部屋。
この家。
誰かがいる生活。
帰ってきて、「おかえり」がある場所。
そんなものを、自分は持っちゃいけない気がした。
失った時、壊れる。
立てなくなる。
だから、本当は。
もっと戦っていた方が楽だった。
痛い方が楽だった。
考えなくて済むから。
「……ノクス」
プリンの声。
「本日は、もう外出しないでください」
「んー……」
「返答が曖昧です」
「考え中」
「推奨しません」
ノクスは枕へ顔を埋めた。
眠い。
でも、落ち着かない。
身体は限界に近いのに、意識だけが妙に冴えていた。
止まるな。
休むな。
アークを殺せ。
頭の奥で、ずっとそんな声がする。
その時。
こんこん、と扉が鳴った。
「ノクス?」
ルミナだった。
ノクスは反射的に身体を起こそうとして。
「っ、ぅ……」
視界が揺れた。
熱い。
思った以上に熱い。
「入りますよ」
返事を待たず、扉が開く。
ルミナは小さな盆を持っていた。
グラスと、水差し。
それから解熱剤。
「……用意が早いな」
「必要だと思ったので」
ルミナは静かにベッドの横へ座る。
そして改めて、ノクスの顔を見た。
青い瞳が、少しだけ険しくなる。
「やっぱり熱があります」
「気のせい」
「三回目ですよ、その言い訳」
「便利なんだよ」
「便利に使わないでください」
呆れた声だった。
でも、その奥にはちゃんと心配が混ざっていた。
ルミナは濡らしたタオルを取り出す。
「額、失礼します」
「自分でやるって」
「信用できません」
「ひどい」
「事実です」
静かな即答。
冷たいタオルが額へ乗せられる。
「っ……」
気持ちいい。
熱を持っていた思考が、少しだけ冷える。
そのまま、ルミナはじっとノクスを見ていた。
「……最近」
ぽつり、と。
「戦闘回数、増えてましたよね」
「まぁ、ちょっと」
「ちょっと、ではありません」
ルミナの声は静かだった。
怒鳴っていない。
でも、逃がさない響きだった。
「夜間巡回」
「長距離移動」
「単独討伐」
「管理庁の出動記録、全部増えています」
「管理庁ってほんと監視社会だな……」
「誤魔化さないでください」
「……はい」
素直に引き下がる。
こういう時のルミナは強い。
雨みたいに静かで、でも確実に逃げ道を塞いでくる。
「どうして、そんなに無茶するんですか」
その問いに、ノクスは少しだけ黙った。
答えたくない。
いや、答えが分からない。
みんなを守るため。
アークを減らすため。
そういう理由は、もちろん本当だ。
でも、それだけじゃない。
「……止まると」
掠れた声が漏れる。
「なんか、怖くなるんだよ」
ルミナが静かに目を細めた。
ノクスは天井を見上げたまま、小さく笑う。
「ここ、居心地良すぎるからさ」
「……」
「慣れたら、だめな気がして」
言った瞬間、部屋が静かになった。
プリンも何も言わない。
ルミナだけが、静かにノクスを見ていた。
「……失うのが、怖いんですか」
ノクスは答えなかった。
でも、その沈黙だけで十分だった。
ルミナは小さく息を吐く。
怒るみたいに。
困るみたいに。
それから、そっとノクスの髪へ触れた。
「ノクス」
「ん……」
「慣れてください」
静かな声。
「ここへ帰ってくることに」
「……」
「私たちは、そのためにいるんですから」
ノクスは何も言えなかった。
胸の奥が、少し痛かった。
嬉しくて。
怖くて。
どうしていいか分からないくらいに。
*
翌朝
「ノクスちゃーん!! 朝ですよー!!」
ばんばんばん、と勢いよく扉が叩かれる。
元気すぎる声が廊下へ響き渡っていた。
「……うるさ……」
布団へ顔を埋めたまま、ノクスは低く呻く。
頭が重い。
熱い。
喉も痛い。
昨日より悪化している気しかしなかった。
「起きてくださーい!」
「……五分……」
「昨日もそれ言って三十分寝てた!」
「覚えてるなぁ……」
ぼんやり返しながら身体を起こす。
その瞬間。
「っ……」
視界が揺れた。
頭の奥がぐらりと傾く。
思わずベッドへ手をつくと、横でプリンが静かに告げた。
「現在体温、上昇傾向です」
「測るなぁ……」
「三十八度前後と推定」
「普通に高いな……」
「休息を推奨します」
「却下」
「推奨します」
「却下」
「頑固です」
「知ってる」
ノクスは苦笑しながら立ち上がった。
ふらつく。
でも動ける。
なら大丈夫だ。
そういう問題じゃないと分かっていても、身体が止まらない。
休んだ瞬間、本当に壊れそうな気がした。
*
リビングへ降りると、ステラがソファの上から大きく手を振った。
「おはよー!」
「……おはよ」
「声低くない?」
「朝だから……」
「いつもより低いよ?」
鋭い。
ノクスは内心で苦笑した。
一方、キッチンではルミナが朝食を作っている。
味噌汁の湯気。
焼ける音。
静かな朝の匂い。
「ノクス」
ルミナは振り返らずに言った。
「座っていてください」
「まだ何もしてないけど」
「ふらついてました」
「見てたの?」
「見えました」
怖い。
ノクスは素直に席へ座る。
その動きを見ながら、ルミナの視線が一瞬だけこちらへ向いた。
「……熱、下がってませんね」
「まぁちょっと」
「ちょっとではありません」
静かな声だった。
怒っている。
でも怒鳴らない。
だから余計に怖い。
ステラはまだ軽い調子だった。
「えー、風邪?」
「多分」
「寝不足じゃない?」
「それもある」
「絶対ちゃんと寝てないじゃん!」
「まぁ……」
「ダメだよー! 睡眠大事!」
お前が言うのか、と思ったが、口に出す元気がなかった。
ルミナが皿を並べる。
その動きが、いつもより少しだけ静かだった。
いや、静かすぎた。
「…………」
ノクスはそっと視線を逸らす。
完全に怒ってる。
これはまずい。
でも、心配されていることが嬉しかった。
その感情に気づいた瞬間、また胸の奥がざわつく。
朝食が並んだ。
味噌汁を口へ運ぶ。
熱い。
いや、違う。
自分が熱い。
「ノクスちゃん?」
「ん……?」
「ぼーっとしてる」
「してない……」
「してるよー」
ステラが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
近い。
ノクスは少しだけ顔を背けた。
「ほんとに大丈夫?」
「……大丈夫」
その瞬間。
かちゃん。
箸を持つ手が少し滑った。
小さな音。
ルミナの動きが止まる。
「ノクス」
「いや、今のは……」
「手、震えてます」
「マジ?」
「マジです」
逃げられない。
ノクスは苦笑するしかなかった。
一方、プリンは淡々と告げる。
「体温継続上昇中」
「契約者は休息不足です」
「プリンちゃん、もっと止めなきゃダメだったんじゃない?」
ステラが頬を膨らませる。
プリンは静かに答えた。
「停止指示は実施済みです」
「でもノクスちゃん聞かないじゃん!」
「はい」
「認めるんだ……」
認めるしかない。
ノクスは味噌汁を飲みながら、小さく息を吐いた。
喉が痛い。
だるい。
頭もぼうっとする。
でも、まだ倒れるほどじゃない。
そう思っていた。
*
昼頃には、完全に様子がおかしくなっていた。
返事が遅い。
ぼーっとしている。
ソファへ座ったまま動かない。
水を飲む回数だけが増えていく。
ステラもさすがに不安になってきたらしい。
「ねぇほんとに病院行こ?」
「魔法少女って普通の病院だめなんだよねぇ」
「推奨されません」
プリンが即答する。
「身体構造および魔力循環が一般人と異なるため、説明不能事例が発生します」
「嫌な世界観だなぁ……」
ノクスはソファへ沈んだまま呟いた。
身体が重い。
少しだけ寒気もする。
なのに熱い。
最悪だ。
「ノクス」
ルミナが静かに近づいてくる。
「薬です」
「……苦い?」
「飲んでください」
「はい」
完全に逆らえなかった。
ルミナは薬を飲ませ、水を渡す。
その指先が少し冷たい。
でも、触れられると安心してしまう。
ノクスはぼんやりその手を見た。
「……なんですか」
「いや」
「見すぎです」
「すみません」
「熱で判断力落ちてます?」
「多分」
ルミナが小さくため息を吐いた。
でも、その目は少しだけ柔らかかった。
*
夕方
食卓には、静かな空気が流れていた。
ルミナが作ったお粥。
温かい湯気。
ステラは珍しく静かだった。
多分、本気で心配している。
「食べられますか?」
「まぁ……」
ノクスは箸を持つ。
少し重い。
なんだこれ。
指先に力が入らない。
「……っ」
視界がぼやける。
熱い。
頭が回らない。
それでも何とか一口食べようとして。
かちゃん。
箸が落ちた。
一瞬、部屋が静かになる。
「……ノクスちゃん」
ステラの声。
ノクスは苦笑しようとした。
「ごめ、ちょっと……」
立ち上がろうとする。
その瞬間、ぐらりと世界が傾いた。
「あ――」
床が遠い。
まずい。
そう思った瞬間。
「ノクス!」
ルミナの声。
次の瞬間、身体が柔らかい腕へ支えられていた。
倒れきる前に、抱き止められている。
「っ……」
熱い。
呼吸が浅い。
頭が回らない。
ルミナが背中を支えながら、険しい顔で額へ触れる。
その表情が、一瞬で変わった。
「熱っ……」
ステラの顔が青ざめる。
「え、ちょ、ノクスちゃん!?」
プリンが静かに跳ねた。
「診断結果更新」
「高熱です」
空気が、変わった。
「現在体温、三十九度後半へ到達」
「過労、魔力疲弊、自己修復負荷継続」
「危険域です」
「危険域!?」
ステラの声が裏返る。
ノクスはぼんやりした頭で苦笑した。
「いや、ちょっと熱あるだけ――」
「大丈夫じゃないです」
ルミナが即座に遮った。
その声は静かだった。
でも、今までで一番怖い声だった。
評価・感想よろしくお願いいたします。
誰が好き?
-
ノクス
-
ルミナ
-
ステラ
-
プリン
-
秋葉