「大丈夫じゃないです」
ルミナの声は静かだった。
けれど、その場にいた全員が動きを止めるくらいには、強かった。
「……ルミナ」
ノクスはぼんやりした頭で苦笑しようとする。
でも、うまく顔が動かない。
熱い。
呼吸が浅い。
身体が妙に重かった。
ルミナはそんなノクスを支えたまま、静かに言う。
「ステラ、冷たいタオルを」
「え、あ、うん!」
ステラが慌てて立ち上がる。
「プリン、解熱剤をお願いします」
「了解しました」
プリンがすぐに棚へ飛んでいく。
その間にも、ルミナはノクスを支えていた。
「立てますか」
「……まぁ」
「嘘です」
「即答だなぁ……」
「歩けませんね?」
「…………ちょっと」
「運びます」
「いやそこまでは――」
言い終わる前に、視界が揺れた。
「っ……」
膝が崩れる。
ルミナの腕が、すぐ背中を支えた。
逃がさないみたいに。
「ノクス」
「……はい」
「限界です」
静かな断定だった。
ノクスは反論できなかった。
*
ベッドへ運ばれた頃には、熱はさらに上がっていた。
額へ乗せられた冷たいタオルが気持ちいい。
でも、すぐぬるくなる。
「うわぁ……ほんと熱い……」
ステラが青い顔で呟いた。
ベッド横へ座り込み、心配そうにノクスを覗き込む。
「ノクスちゃん、大丈夫……?」
「……大丈夫」
「全然説得力ないよぉ……!」
半泣きみたいな声だった。
一方、プリンは淡々と状態を確認している。
「高熱継続」
「疲労蓄積率上昇」
「魔力循環不安定」
「自己修復負荷、危険域付近です」
「危険域ってそんな軽く言う言葉!?」
「事実共有です」
「今それ聞きたくなかった!」
ステラが頭を抱える。
ルミナだけは静かだった。
静かすぎた。
氷枕を交換し、水を用意し、薬を飲ませる。
全部、落ち着いた手つき。
その静けさが逆に怖い。
「……ルミナ」
「なんですか」
「怒ってる?」
ルミナの手が、一瞬だけ止まった。
「怒っています」
「だよなぁ……」
「かなり」
「すみません……」
素直に謝るしかなかった。
ルミナは冷たいタオルを絞り直しながら、小さく息を吐く。
「最近、明らかに無茶が増えていました」
「……まぁ」
「夜間巡回」
「単独討伐」
「長距離移動」
「睡眠不足」
一つずつ並べられる。
逃げ道がない。
「止めようと思えば、止められました」
ぽつり、とルミナは静かに言った。
ノクスが少し目を開く。
「……え」
「でも、止めませんでした」
ステラも顔を上げる。
ルミナは俯いたまま、濡れたタオルを折り直していた。
「最近、たくさん笑うようになっていたので」
部屋が静かになる。
「だから、待ってたんです」
ルミナの声は小さい。
でも、はっきり聞こえた。
「ノクスが、自分から話してくれるのを」
「……」
ノクスは何も言えなかった。
ステラも黙っている。
ルミナは続ける。
「無理に閉じ込めたくありませんでした」
「無理に止めたら、またどこかへ行ってしまいそうで」
その言葉が、胸へ刺さった。
ノクスは少しだけ目を伏せる。
「……ごめん」
掠れた声。
ルミナは小さく首を振った。
「謝ってほしいわけじゃありません」
「じゃあ、何」
熱でぼんやりする頭のまま尋ねると。
ルミナは静かに、ノクスを見た。
「頼ってください」
「……」
「怖いなら、怖いと言ってください」
「無理したいなら、止めます」
「苦しいなら、隠さないでください」
青い瞳は、真っ直ぐだった。
逃げ場なんてないくらいに。
「私たちは」
ルミナの指先が、そっとノクスの髪へ触れる。
「そのために、ここにいるんですから」
胸の奥が、また少し痛くなる。
熱のせいじゃない。
きっと。
もっと別のものだった。
「……ノクスちゃん」
隣で、ステラが小さく声を出す。
見ると、ぎゅっと膝の上で手を握っていた。
「私もね」
「……?」
「最近、またちょっと暗い顔してるなーって思ってた」
橙色の瞳が、少しだけ揺れる。
「でも、聞けなかった」
「聞いたら、どっか遠く行っちゃいそうで」
ノクスは息を止めた。
そんな風に思われていたなんて、知らなかった。
いや、本当は少し分かっていたのかもしれない。
自分はずっと。
怖くなると、一人で戦おうとするから。
痛い方へ逃げるから。
「だから……」
ステラは少し笑おうとして。
でも失敗した。
「倒れるまで無茶するのは、だめだよぉ……」
泣きそうな声だった。
ノクスは何も言えなかった。
ただ、熱で重い瞼を少し伏せる。
その時、プリンが静かにベッド横へ戻ってきた。
「解熱剤追加投与完了」
「水分補給も必要です」
「ノクス、起きられますか」
「……んー」
「無理そうですね」
「即判断するなよ……」
「事実共有です」
いつもの声。
でも今日は、少しだけ柔らかかった。
プリンは小さく跳ねると、ノクスの枕元へ座った。
「ノクス」
「ん?」
「今回は、待ちすぎました」
静かな声。
「次は、もっと早く止めます」
ノクスはぼんやりしたまま、小さく笑った。
「……それは、ちょっと困るかも」
「困らせます」
「即答だなぁ……」
部屋の空気が、少しだけ緩む。
でもその温かさが、今のノクスには眩しかった。
こんな風に心配されることへ。
まだ、自分は慣れていなかった。
薬が効き始めたのか、少しずつ身体が重くなっていく。
熱はまだ高い。
でも、さっきまでみたいな寒気は少し薄れていた。
「……眠そうですね」
ルミナが静かに言った。
「ん……」
ノクスはぼんやり頷く。
瞼が重い。
頭が回らない。
いつの間にか、身体から力も抜けていた。
「寝てください」
「でも……」
「却下です」
即答だった。
「今のノクスに発言権はありません」
「横暴だ……」
「病人なので」
ルミナは静かに毛布を整える。
その手つきが、妙に優しかった。
ノクスはぼんやりそれを見上げる。
「……ルミナ」
「なんですか」
「近い」
「看病中です」
「そうだけど……」
熱のせいか、距離感がおかしくなる。
ルミナの冷たい指が額へ触れるたび、少し安心してしまう自分がいた。
それがまた、怖い。
「ノクスちゃん!」
突然、ステラが勢いよく立ち上がった。
「私もなんかする!」
「静かにしてください」
「はい!」
即座に座り直す。
でも数秒後。
「……お粥、とか?」
ルミナとプリンが同時に黙った。
嫌な沈黙だった。
「な、なにその反応!?」
プリンが静かに告げる。
「危険を検知しました」
「ひどい!?」
「前回、鍋が一つ犠牲になっています」
「事故だから!」
「爆発でした」
「言い方!」
ノクスは熱でぼんやりした頭のまま、小さく笑った。
うるさい。
騒がしい。
でも、その声を聞いていると不思議と安心してしまう。
「……ノクス?」
ルミナの声。
「……いや」
ノクスは重い瞼を閉じながら、小さく呟く。
「なんか、安心するなって……」
一瞬、部屋が静かになった。
ステラが固まる。
ルミナの手も止まる。
プリンだけが静かに瞬いた。
「……熱でも変わらないですね」
「うるさ……」
もう反論する気力もない。
眠気が深くなる。
意識が沈む。
最後に感じたのは、ルミナの指がそっと髪を撫でる感触だった。
ノクスの呼吸がゆっくり落ち着いていく。
眠ったらしい。
ステラは小さく息を吐いた。
「……びっくりしたぁ」
その声はまだ少し震えていた。
ルミナはノクスの額のタオルを替えながら、小さく頷く。
「かなり無理をしていましたから」
「最近ずっと変だったもんね……」
「はい」
ステラはベッドの端を見つめる。
眠っているノクス。
苦しそうな呼吸。
赤い顔。
普段なら絶対見せない弱った姿。
「……なんかさ」
ステラがぽつりと言う。
「ノクスちゃんって、壊れるまで止まんないよね」
ルミナの手が少し止まった。
プリンが静かに答える。
「自身の損傷へ慣れすぎています」
「そうだね……」
ステラが小さく顔をしかめる。
ルミナは静かにノクスの髪を整えた。
「だから、止める側が必要なんです」
その声は、どこか自分へ言い聞かせるみたいだった。
ステラは少しだけ黙る。
それから。
「……じゃあ、私お粥作る」
真剣な顔で言った。
ルミナとプリンが同時に顔を上げる。
「ステラ」
「待ってください」
「なんで二人ともそんな顔するの!?」
ステラが抗議する。
「今回は本気だから!」
「前回も同じことを言っていました」
「今回はもっと本気!」
「危険度上昇を確認」
「プリンちゃん失礼すぎる!」
ルミナは小さくため息を吐いた。
でも、その目は少しだけ柔らかい。
「……分かりました」
「えっ、いいの!?」
「ただし、私も一緒に行きます」
「監視!?」
「安全確保です」
ステラがむっと頬を膨らませる。
そのやり取りを背中で聞きながら、プリンは静かにノクスを見上げていた。
眠っている。
ようやく、少しだけ安心したみたいに。
プリンは小さく瞬く。
それから。
「……お粥の炭化だけは阻止します」
静かにそう呟いて、二人の後を追いかけた。
*
お粥は、最終的に“なんとか食べ物”くらいの状態で完成した。
「……本当に大丈夫ですかこれ」
ルミナが鍋を見ながら静かに言う。
「だ、大丈夫だって!」
ステラが胸を張る。
「今回はちゃんと白いし!」
「“今回は”という時点で不安です」
「プリンちゃん今日ずっと辛辣!」
ステラが抗議する。
でも、その声は少しだけ明るかった。
さっきまでみたいな、不安を押し殺した感じではない。
ルミナは小さく息を吐く。
「持っていきましょう」
三人で部屋へ戻る。
部屋の中は静かだった。
ノクスはまだ眠っている。
熱のせいか、呼吸は少し浅い。
赤くなった頬。
額へ乗せられたタオル。
乱れた呼吸。
普段なら絶対見せない弱った姿だった。
「……まだ熱いですね」
ルミナが額へ触れる。
ステラも不安そうに覗き込んだ。
「起こす?」
「少しだけ食べさせたいです」
ルミナは静かに頷く。
「水分も必要なので」
そして、そっと名前を呼ぶ。
「ノクス」
「……ん」
「少し起きられますか」
反応は遅かった。
でも、ゆっくり瞼が開く。
ぼやけた赤い目が、数秒遅れて三人を映した。
「……ルミナ?」
「はい」
「ステラもいます」
「いるよー」
「プリンもいます」
「増えてる……」
熱で頭が回っていないらしい。
ノクスはぼんやり瞬きをしたあと、ふっと小さく息を吐く。
「……なんか、いい匂い」
その瞬間。
ステラが固まった。
「えっ」
「ほ、ほんと!?」
プリンだけが静かに分析する。
「高熱による味覚変化の可能性があります」
「台無し!!」
ステラが即座に叫ぶ。
ノクスは小さく笑った。
その笑い方がいつもよりずっと幼く見えて、ステラはまた言葉を失う。
「食べられますか?」
ルミナが匙を持つ。
ノクスはぼんやりそれを見る。
「……自分で食べる」
「却下です」
「即答……」
「病人なので」
完全に看病モードだった。
ルミナは少し冷ましたお粥を掬う。
「熱いので気をつけてください」
「ん……」
ノクスは大人しく口を開けた。
飲み込む。
少しだけ沈黙。
ステラが緊張した顔で見つめていた。
「……どうですか」
恐る恐る聞く。
ノクスはぼんやりしたまま、小さく呟いた。
「……うまい」
「っ……!」
ステラが両手で顔を押さえた。
「ほ、ほんと!?」
「ん……」
熱のせいか、警戒心が薄い。
その無防備さが余計に破壊力高かった。
「なんか今日ずるくない!?」
「熱で弱っています。無防備です」
「プリンちゃん解説やめて!」
ステラが真っ赤なまま叫ぶ。
ノクスはその声を聞きながら、また少し笑った。
騒がしい。
でも、不思議と落ち着く。
熱で重い意識の中で、ノクスはぼんやり思う。
ああ、ちゃんと帰ってきてしまったんだな。
こんな風に、待たれている場所へ。
ノクスはもう一口、お粥を飲み込む。
それだけで少し疲れたみたいに、重く息を吐いた。
「……もういいです」
ルミナが静かに匙を置く。
「これ以上は、また後で」
「ん……」
ノクスは素直に頷いた。
熱のせいか、反抗する元気もないらしい。
そのまま、ぼんやりとルミナを見る。
「……ルミナ」
「なんですか」
「まだ怒ってる?」
一瞬、ステラが固まる。
ルミナは少しだけ目を細めた。
「怒っています」
「だよなぁ……」
「かなり」
「……ごめん」
素直な謝罪。
それがいつもより弱々しくて、ルミナは少しだけ視線を逸らした。
「でも」
静かな声。
「今は、ちゃんと寝てください」
ノクスはぼんやり頷く。
瞼がもう限界みたいに重そうだった。
「……みんな、いる?」
その言葉に、部屋が一瞬静かになる。
熱で弱っているだけ。
分かっている。
でもその確認が、どうしようもなく不安そうだった。
ルミナはそっと、ノクスの髪を撫でる。
「います」
ステラも慌てて頷いた。
「いるよ!」
プリンも小さく跳ねる。
「常駐しています」
ノクスは小さく笑った。
安心したみたいに。
「……そっか」
「行かないでね」
それだけ言って、ゆっくり目を閉じる。
今度はすぐに眠りへ落ちていった。
静かな寝息、さっきより少しだけ穏やかな表情。
ステラが小さく息を吐く。
「……なんか今日、ずるいね」
「はい」
ルミナは静かに頷いた。
「かなり」
その声は、少しだけ困っているみたいだった。
*
夜は静かだった。
時計の針が、ゆっくり音を立てている。
窓の外では街の灯りが揺れていた。
遠くで警報が鳴った気がしたけれど、この部屋の中までは届かない。
ノクスは浅い眠りの中で、小さく息を吐いた。
「……っ」
熱い。
でも寒い。
身体が重い。
夢と現実の境界が曖昧だった。
誰かの声が聞こえる。
近くで。
静かに。
「……ノクス」
冷たい指先が額へ触れた。
気持ちいい。
ぼんやり目を開ける。
薄暗い視界の向こうに、青い髪が見えた。
「……ルミナ」
「はい」
ルミナが小さく頷く。
氷枕を交換していたらしい。
冷たい感触が後頭部へ広がる。
「熱、まだ高いですね」
「ん……」
うまく返事ができない。
頭が回らない。
でも、ルミナがいることだけは分かった。
その安心感に、少しだけ息を吐く。
「……いた」
一瞬、ルミナの手が止まる。
「いますよ」
静かな声。
ノクスはぼんやりその声を聞きながら、無意識に手を伸ばした。
細い指を掴む。
冷たい。
でも、ちゃんとそこにいる。
「ノクス?」
「……行かないで」
掠れた声だった。
ルミナが少し目を見開く。
熱のせいなのは、分かっている。
でも、その声があまりにも不安そうでルミナはすぐに手を握り返した。
「行きません」
「……ほんと?」
「はい」
ノクスは少しだけ力を抜く。
そのまま、子供みたいに離さない。
ルミナは困ったように目を伏せた。
「……熱で甘えていますね」
「うるさ……」
反論が弱い。
いつものノクスなら絶対言わないことを、今日はぽろぽろ零していく。
それがルミナには危なかった。
「寒い……」
小さな声に、ルミナは一瞬だけ動きを止める。
毛布はちゃんとかかっている。
暖房もついている。
でも、熱が高い時特有の寒気なのだろう。
ノクスは薄く震えていた。
「……」
ルミナは少しだけ迷って。
それから静かにベッドへ腰を下ろした。
「少しだけですよ」
「ん……」
毛布を持ち上げ、隣へ入る。
ノクスの身体がすぐ近くなる。
熱い。
本当に熱い。
でも、その熱が少しだけ震えていた。
ルミナはそっとノクスを抱き寄せる。
背中へ腕を回す。
「……あったかい」
安心したみたいに、ノクスが小さく息を吐いた。
その声が近すぎて、ルミナの心臓が少し跳ねる。
「……寝てください」
「ん……」
返事は素直だった。
でも、ノクスはまだルミナの服を少し掴んだままだった。
離れるなと言うみたいに。
「……なくなるの、やだ」
ぽつり、と。
熱に溶けた声が落ちる。
ルミナの呼吸が止まる。
「みんな、いなくなる……」
「帰れなくなる……」
ノクスは目を閉じたまま、小さく呟いていた。
夢の中の声。
でもきっと、本音。
ルミナは静かに目を伏せる。
「……この人」
小さく呟く。
「幸せだから、怖くなってたんですね」
抱き寄せた身体はまだ熱い。
でも、こうしていると少しだけ安心したみたいに力が抜けていた。
ルミナはそっと、ノクスの髪を撫でる。
「大丈夫です」
静かな声。
「ちゃんと、帰ってきてください」
「私たちは、ここにいますから」
ノクスは返事をしなかった。
でも、掴んでいた服の力が少しだけ緩む。
安心したみたいに。
その時、廊下の向こうで小さく物音がした。
ルミナが顔を上げる。
少しだけ開いた扉の隙間。
そこに、ステラが立っていた。
「……っ」
完全に固まっている。
顔が真っ赤だった。
ルミナも数秒遅れて現状を理解する。
同じベッド。
抱き寄せている。
距離、ゼロ。
「…………」
沈黙。
ステラの肩がぷるぷる震える。
「ご、ごめん!」
小声で叫ぶ。
「なんか水替えようと思って!」
「違うからね!?」
最後だけ少し大きかった。
ルミナが慌てて口を押さえる。
「静かにしてください!」
「だ、だって今のは無理でしょ!?」
「違います!」
「何が!?」
「看病です!」
「看病でその距離になる!?」
小声なのに騒がしい。
「……ステラ?」
三人とも固まった。
ノクスが薄く目を開けていた。
熱でぼんやりしたまま、扉の方を見る。
「……いる」
「い、いるよ!?」
ステラが慌ててベッド横へ来る。
するとノクスは少し安心したみたいに笑った。
「……よかった」
その顔が、あまりにも無防備だった。
ステラは一瞬で黙る。
胸の奥がきゅっとなる。
ノクスはそのまま、ぼんやり呟いた。
「みんないる……」
嬉しそうだった。
安心したみたいに。
それが逆に、二人には少し苦しかった。
この人は今まで。
どれだけ一人で怖がっていたんだろう、と。
どれだけ一人で怖がっていたんだろう、と。
ステラはそっとベッド横へ座った。
ノクスはぼんやりその姿を見る。
熱で焦点が合っていない。
でも、ちゃんと“そこにいる”ことだけ確認するみたいに。
「……ステラ」
「な、なに?」
「どっか行く?」
「行かないよ!?」
即答だった。
ノクスは少しだけ安心したみたいに目を細める。
「……ほんと?」
その声が、あまりにも弱い。
ルミナもステラも、何も言えなくなる。
ノクスは熱で朦朧としたまま、小さく呟いた。
「気づいたら、いなくなるから」
その瞬間だけ。
ノクスの目が、どこか別の場所を見ていた。
今じゃない。
この部屋じゃない。
もっと遠く。
何かを失くした夜を見るみたいに。
その言葉は、重かった。
ステラがぎゅっと唇を噛む。
ルミナは静かにノクスの髪を撫でた。
「私たちは、勝手にいなくなったりしません」
「……ん」
「だから、ちゃんと帰ってきてください」
ノクスは返事をしなかった。
代わりに、無意識みたいに二人の服を少し掴む。
離れないように。
置いていかれないように。
その弱々しい仕草に、ステラが完全に耐えられなくなる。
「……ずるい」
「こんなの反則じゃん……」
顔を隠しながら呟く。
ルミナも何も言えない。
言葉にしたら、多分、自分も壊れる。
だから代わりに、そっとノクスを抱き寄せた。
今だけは、ちゃんとここにいると伝わるように。
しばらくして、ノクスの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
掴んでいた服の力も弱くなる。
「……寝た?」
ステラが小声で聞く。
ルミナはノクスの額へ触れて、小さく頷いた。
「多分」
「よかったぁ……」
ステラが力を抜く。
でも、その視線はまだノクスから離れなかった。
「……ねぇ」
「なんですか」
「ノクスちゃんってさ」
ステラは少しだけ迷って。
それから、小さく言った。
「ずっと、一人で怖がってたのかな」
ルミナは答えなかった。
代わりに、眠っているノクスを静かに見つめる。
熱で赤くなった顔。
苦しそうな呼吸。
それでも、今は少しだけ安心したみたいな寝顔。
「……多分」
小さな声。
「一人でいる方が、慣れていたんだと思います」
ステラは胸の奥が少し苦しくなる。
ノクスは、強い。
誰かを守る。
無茶をする。
平気そうに笑う。
でも、本当は。
一番、“失うこと”を怖がっていた。
「……ばかだなぁ」
ステラは小さく呟く。
「一人で怖がってる方が、もっと怖いのに」
その言葉に、ルミナは少しだけ目を伏せた。
「誰かといる方が痛くても、一人よりずっと温かい」
「教えてくれたのは、あなたなのに」
部屋の中は静かだった。
時計の音だけが、ゆっくり夜を刻んでいる。
ノクスは眠っている。
でもその手だけは、まだ少しだけルミナの服を掴んだままだった。
ルミナはそっと、ノクスの手を外そうとする。
「……ん」
弱く力が入る。
離さないみたいに。
ステラが思わず吹き出しそうになる。
「だ、だめだこれ……」
「完全に甘えモードだ……」
「静かにしてください」
そう言いながら、ルミナの声も少しだけ弱かった。
結局、ノクスが深く眠るまで二人ともベッドの横から動けなかった。
しばらくして、ようやく呼吸が穏やかになる。
熱も少しだけ下がり始めていた。
プリンが静かに告げる。
「睡眠状態、安定しました」
ルミナが小さく息を吐く。
「……リビングへ行きましょう」
ステラは最後にもう一度だけ、眠るノクスを見る。
そして、小さく呟く。
「ほんと、ずるいよね」
「弱ってる時だけ、こんなの」
ルミナは何も答えなかった。
ただ、静かにノクスの髪を撫でる。
それから、二人は静かに部屋を後にした。
*
リビングは薄暗かった。
小さな間接照明だけが、静かに部屋を照らしている。
さっきまで騒がしかった空気が嘘みたいだった。
ステラはソファへ座るなり、大きく息を吐いた。
「はぁぁ……」
そのままクッションへ顔を埋める。
「心臓に悪い……」
ルミナは静かに水を飲む。
プリンはテーブルの上へ乗った。
しばらく、誰も喋らなかった。
でも、沈黙の理由はみんな同じだった。
ステラがぽつりと呟く。
「……ねぇ」
「なんですか」
「なんで止めなかったの?」
その声は小さい。
責めるというより。
苦しそうだった。
「最近、絶対おかしかったじゃん」
「無茶してたし」
「顔もずっと疲れてたし」
ステラはクッションを抱き締める。
「なのに私」
「またそのうち話してくれるかなって思っちゃって」
ルミナは静かに目を伏せる。
プリンだけが、小さく瞬いた。
「……止めました」
静かな声だった。
二人が顔を上げる。
プリンは続けた。
「休息推奨」
「戦闘制限」
「睡眠要求」
「複数回実施済みです」
「でもノクスちゃん聞かないじゃん……」
「はい」
即答だった。
ステラが頭を抱える。
「だめじゃん……」
「頑固です」
「知ってる……」
プリンは少しだけ沈黙した。
それから。
「ですが」
「戦闘時の方が精神状態が安定していました」
空気が止まる。
ステラがゆっくり顔を上げる。
「……え?」
「最近、帰宅後に情緒不安定化を確認しています」
「滞在時間増加に比例して、単独戦闘回数も増加しました」
ルミナが静かに目を閉じる。
やっぱり、と言うみたいにプリンの金色の目が、静かに揺れる。
「“帰る場所”を怖がっていました」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
時計の音だけが、小さく響く。
ステラがゆっくり呟く。
「……なんで」
「そんなの、怖がるの」
プリンは答えない。
代わりに、ルミナが小さく息を吐いた。
「失うのが、怖くなったんです」
静かな声。
「慣れてしまったら」
「壊れた時に、立てなくなるから」
ステラは黙る。
その感覚は、私が昔感じたものだ。
大切なものが増えるほど、失う時は苦しくなる。
だから先に距離を取る。
先に壊れる。
イグニスのように。
ノクスは、多分ずっとそうしてきた。
「……ばかだなぁ」
ステラが小さく呟く。
泣きそうな声だった。
「一人で戦っても、怖いだけなのに」
ルミナは静かに頷く。
「はい」
「だから、待っていたんです」
ステラが顔を上げる。
ルミナは少しだけ視線を落とした。
「無理に閉じ込めたくなかった」
「ちゃんと、自分から話してほしかったんです」
「……」
「最近、少し笑うようになっていたので」
その声は、とても優しかった。
でも同時に、少しだけ後悔しているみたいでもあった。
「待ちすぎました」
プリンが静かに言う。
二人がそちらを見る。
プリンは小さく丸くなった。
「ノクスは、自身の損傷へ慣れすぎています」
「なので、“平気そう”に見える時間が長すぎました」
「……うん」
ステラが小さく頷く。
今日だってそうだった。
笑って。
誤魔化して。
大丈夫って言って。
そのまま倒れた。
「ですが私は」
プリンが、少しだけ言葉を止める。
「この生活を、失いたくありませんでした」
静かな沈黙が落ちた。
ルミナが少し目を見開く。
ステラも黙る。
プリンは続けた。
「契約者が帰宅し」
「皆さんが騒がしくして」
「食事をして」
「休息する」
「その環境は、契約者の精神安定へ良好な影響を与えていました」
いつもの分析みたいな口調。
でも、最後だけ少し小さくなる。
「……それに私も、嫌ではありませんでした」
ステラが少しだけ笑う。
「プリンちゃん、それ好きってことじゃん」
「近似値です」
「素直じゃないなぁ」
その空気が少しだけ、重さを和らげた。
でも、ルミナは静かに窓の外を見ていた。
「ノクスは」
小さく呟く。
「まだ、自分が幸せになることへ慣れていないんです」
その言葉が、静かな部屋へ落ちる。
誰も否定しなかった。
できなかった。
だってさっき。
熱に浮かされたノクスは、本気で怖がっていたから。
“いなくならないで”と。
“置いていかないで”と。
小さな子供みたいに。
*
目を開けた時。
最初に見えたのは、白い天井だった。
「……ん」
頭が重い。
でも、昨日ほどじゃない。
ぼんやり瞬きをすると、額の上で何かがずれた。
冷たい。
タオルだった。
「起きましたか」
すぐ近くから声がする。
視線を向けると、椅子へ座ったルミナが本を閉じていた。
朝の光が青い髪へ落ちている。
「……ルミナ?」
「はい」
「今何時……」
「朝です」
「雑だな……」
でも、そのやり取りをする元気は戻っていた。
熱も少し下がっているらしい。
身体はまだ重いけれど、昨日みたいな寒気はない。
「水、飲めますか」
「ん……」
起き上がろうとして。
「っ……」
少しふらつく。
その瞬間、ルミナの手がすぐ背中を支えた。
「まだ安静です」
「……過保護」
「病人なので」
即答だった。
ノクスは苦笑する。
そのままコップを受け取り、水を飲む。
冷たくて気持ちいい。
「……生き返る」
「大袈裟です」
「いや割と本気」
喉がかなり楽になった。
そこでふと、ノクスは違和感に気づく。
「……なんか」
「みんな静かじゃない?」
ルミナの動きが、一瞬だけ止まった。
「そうですか?」
「うん」
「なんか空気変」
ルミナは視線を逸らした。
怪しい。
ノクスがじっと見ていると、扉の向こうからばたばた足音が聞こえる。
「ノクスちゃん起きた!?」
勢いよくステラが飛び込んできた。
そして。
「…………」
目が合った瞬間、なぜか固まる。
「……?」
ノクスが首を傾げる。
ステラの顔が、じわじわ赤くなっていく。
「お、おはよ!」
「おはよ……?」
「熱下がった!?」
「まぁちょっと」
「そ、そっかぁ〜〜〜!」
テンションがおかしい。
ノクスはさらに怪訝な顔になる。
「……なんか変じゃない?」
「変じゃないよ!?」
「声裏返ってるけど」
「気のせい!!」
全然気のせいじゃなかった。
しかもルミナまで視線を逸らしている。
なんだこれ。
「……プリン」
ノクスは最後の良心へ助けを求める。
「何かあった?」
プリンは静かに瞬いた。
「昨夜の記録を参照しますか?」
「えっ」
嫌な予感がした。
ステラがぶんぶん首を振る。
「だめだめだめ!」
「プリンちゃんそれはだめ!」
「何が!?」
ノクスだけ状況が見えていない。
プリンは静かに告げた。
「契約者は昨夜、複数回に渡り」
「“行かないで”」
「“みんないる?”」
「“いなくならないで”」
「等の発言を――」
「待って消して!!!!!」
ノクスの顔が一瞬で赤くなる。
熱じゃない。
完全に羞恥だった。
ステラが耐えきれず吹き出した。
「だ、だってノクスちゃんが!」
「めちゃくちゃしおらしくて!」
「うるさい!!」
「しかもルミナちゃんの服ずっと掴んで――」
「ステラ」
ルミナが静かに止める。
でも、そのルミナ自身も少しだけ耳が赤かった。
ノクスは完全に固まる。
「…………え?」
ゆっくりルミナを見る。
ルミナは静かに視線を逸らした。
否定しない。
「…………」
数秒沈黙。
そして。
「死にたい……」
ノクスは布団を頭まで被った。
ステラが爆笑する。
「だ、大丈夫だよ!」
「かわいかったから!」
「フォローになってない!!」
「事実共有です」
「プリンもやめろ!!」
部屋が一気に騒がしくなる。
でも、その騒がしさが不思議と嫌じゃない。
布団の中で顔を隠しながら、ノクスは小さく息を吐く。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
でも昨日、自分が怖がっていたことだけは少し覚えていた。
いなくなること。
帰れなくなること。
一人になること。
その不安を。
ちゃんと、受け止めてもらったことも。
「……ノクス」
ルミナの静かな声。
布団の端が少しだけ下ろされる。
青い瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「次からは」
「倒れる前に、ちゃんと言ってください」
「……」
「心配、するので」
その声は静かだった。
でも、昨日よりずっと柔らかい。
ノクスは少しだけ黙る。
それから、小さく呟いた。
「……帰ってきても、いいのかな」
一瞬、部屋が静かになった。
ステラもプリンも、何も言わない。
ルミナだけが、少し目を見開いていた。
ノクスは布団を握ったまま、続ける。
「こういう場所」
「慣れてきて、急に怖くなった」
「なくなった時、立てなくなると思った」
掠れた本音だった。
でももう、誤魔化さなかった。
ルミナは静かに息を吐く。
それからそっと、ノクスの髪を撫でた。
「当たり前です」
静かな声。
「ちゃんと帰ってきてください」
「何回でも」
ノクスは何も言えなかった。
胸の奥が、少し熱かった。
熱のせいじゃない。
多分、もっと別のものだ。
ステラがにこっと笑う。
「あと今後は無茶禁止ね!」
「……善処します」
「絶対しないやつ!」
「事実確認」
「プリンちゃんまで!?」
また部屋が騒がしくなる。
ノクスはその声を聞きながら、小さく目を閉じた。
帰る場所ができてしまった。
それはやっぱり、少し怖い。
でも、悪くないかもしれない。
そう思えた。
評価・感想よろしくお願いいたします。
次回から四話ほどいちゃつく回を作ろうかなと思います。
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秋葉