風邪を引いて倒れてから、数日後。
あなたの体調は、ようやく日常生活へ戻れる程度には回復していた。
熱は下がった。
咳もかなり減った。
食事も普通に取れる。
……とはいえ。
「ノクス、水分補給」
「さっき飲んだだろ……」
「二時間前です」
リビングのテーブルへコップを置きながら、ルミナが静かに言った。
その声音には、一切の妥協がない。
あなたは小さくため息を吐きながら、ソファへ身体を沈めた。
「過保護すぎる……」
「前科がありますので」
即答だった。
しかも否定できない。
数日前、無茶の反動で高熱を出して倒れたあなたは、現在完全に“要注意人物”扱いされていた。
巡回禁止。
夜更かし禁止。
無断外出禁止。
睡眠時間管理。
もはや監視対象である。
「ノクスの自己管理能力は信用度が低いです」
ソファの背もたれで丸くなりながら、プリンが平然と言った。
「お前最近ほんと容赦ないな」
「事実共有です」
あなたが顔をしかめると、ルミナが小さく紅茶へ口をつけた。
その時だった。
「――というわけで!!」
ばんっ、と勢いよく扉が開いた。
「地方育成巡回の説明に来ましたー!!」
騒がしい声と共に、ステラがリビングへ飛び込んでくる。
夕焼け色のポニーテールが揺れ、いつも通り無駄に元気だった。
「ノクスちゃん元気ー!?」
「入ってきたばっかだろ……」
「顔見たかったし!」
ステラはけらけら笑いながら、そのままテーブルへ資料を広げる。
「えーっとですね、今回の地方育成支援なんだけど!」
管理庁主導の地方育成巡回計画。
地方育成機関を巡回し、候補生たちへの実戦指導や魔力制御支援を行う大型任務だ。
最近は中部・関東区域における最上位戦力の異動を受け、地方区域の防衛体制再編が進められていた。
「東日本区域をルミナちゃん!」
「はい」
「西日本区域を私が担当しまーす!」
ステラが元気よく手を上げる。
「期間は三日ずつ!」
「候補生交流会とか実戦講義とか色々あるよ!」
「交流会……」
あなたは露骨に嫌そうな顔をした。
以前、中部育成機関へ行った時のことを思い出す。
候補生たちに囲まれ、ピンクのゴリラ呼ばわりされ、模擬戦で施設を半壊しかけた。
あれは大変だった。
「ノクスちゃん人気者だもんねー!」
「なりたくてなったわけじゃねぇ……」
「ピンクのゴリラ!」
「忘れろ」
あなたが即答すると、ステラが楽しそうに吹き出した。
一方、ルミナは静かに資料へ目を通している。
「日程は重ねないんですね」
「うん!」
ステラが頷いた。
「病み上がりのノクスちゃんを一人にしないため!」
「だから最初は私が三日間、西日本へ行って、その間はルミナちゃんが残る!」
「そのあと交代って感じ!」
「いや別にそこまで――」
「そこまでです」
プリンが即座に遮った。
「ノクスは現在、精神的不安定傾向を継続しています」
「だから余計なこと言うなって……」
「事実共有です」
「また便利ワード」
あなたが頭を抱える横で、ステラはうんうん頷いていた。
「というわけで!」
「ノクスちゃんはしばらくルミナちゃんと大人しくしてること!」
「なんだその言い方……」
完全に保護対象扱いだった。
あなたはぐったりしながらソファへ沈み込む。
すると、ルミナが静かにこちらを見た。
「ちゃんと休んでください」
穏やかな声。
でも逆らえないタイプの優しさだった。
あなたは数秒黙ったあと、小さく息を吐く。
「……はいはい」
渋々頷く。
するとステラがぱっと笑顔になった。
「よーし!いい子!」
「子供扱いすんな」
「病み上がりなんだから子供みたいなもんですー!」
「理不尽……」
リビングへ、小さな笑い声が広がる。
その空気を聞きながら、あなたはぼんやり天井を見上げた。
やっぱり、こうして誰かがいる時間を心地良いと思ってしまう。
*
ステラが西日本巡回へ出発したのは、その翌日の朝だった。
「じゃあ行ってくるねー!」
玄関で大きく手を振りながら、ステラが笑う。
いつもの明るい声。
いつもの太陽みたいな笑顔。
「三日後には戻るから!」
「はいはい」
あなたは軽く手を振り返す。
「無茶しないでね!?」
「お前にだけは言われたくない」
「えー!?」
ステラが抗議の声を上げる横で、ルミナは静かにため息を吐いた。
「二人ともです」
「ルミナちゃん厳しい!」
「当然です」
静かな即答だった。
そのままルミナは、ステラの襟元を整える。
「候補生たちへ無理を見せないように」
「はーい!」
「あと、睡眠時間」
「うっ」
「ちゃんと確保してください」
「……善処します」
「しませんね」
「なんで分かるの!?」
騒がしい。
でも、そのやり取りが妙に心地良かった。
あなたはぼんやりそれを見ながら、小さく息を吐く。
するとステラが急にこちらを向いた。
「ノクスちゃん!」
「ん?」
「ちゃんといい子にしてるんだよ!」
「なんだその言い方」
「ルミナちゃん困らせちゃダメだからね!」
「子供か俺は……」
あなたが呆れると、ステラはけらけら笑った。
それから。
「じゃ、行ってきます!」
ぱたん、と扉が閉まる。
一瞬、家の中がしん、と静かになった。
「…………」
あなたは無意識に、閉まった扉を見つめる。
さっきまで騒がしかった分、余計静かだった。
妙に広く感じる。
「……静かですね」
ルミナが小さく呟く。
「……そうかも」
あなたはなんとなくソファへ戻り、そのまま身体を預けた。
リビングには時計の音だけが響いている。
普段なら、ここへ無理やり割り込んでくる声があるのに。
「…………」
落ち着かない。
別に、一人になったわけじゃない。
ルミナもいる。
プリンもいる。
なのに、妙に静かだった。
「ノクス」
「ん……?」
顔を上げる。
キッチンへ向かっていたルミナが、こちらを見ていた。
「紅茶を淹れますが、飲みますか」
「……飲む」
「分かりました」
静かな返事。
ルミナはそのままキッチンへ向かう。
青い髪が揺れる。
あなたはぼんやりその背中を見ていた。
だが。
「……?」
気づけば、立ち上がっていた。
自分でもよく分からないまま、ふらふらとキッチンへ向かう。
ルミナの隣へ立つ。
湯気が温かい。
甘い茶葉の香りがする。
近い距離で見るルミナの横顔は、今日も綺麗だった。
「……どうしました」
「え」
「じっと見ています」
静かな声。
あなたは少し視線を逸らした。
「……別に」
「そうですか」
ルミナはそれ以上追及しない。
ただ静かにお湯を注いでいる。
その音を聞いていると、不思議と落ち着いた。
「…………」
あなたはぼんやりしたまま、ルミナの肩へ額を預けた。
ぴたり、と。
一瞬、ルミナの手が止まる。
「……ノクス?」
「……なんか落ち着く」
ぽつり。
無意識に零れた声だった。
自分で言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
けれど、離れる気にもなれなかった。
ルミナは数秒黙ったあと、小さく息を吐く。
「……病み上がりですね」
「なんだよそれ」
「甘えたになっています」
「なってない」
即答。
でも肩へ額を押し付けたままなので説得力はゼロだった。
ルミナは何も言わない。
ただ、少しだけ口元が緩んでいた。
*
ルミナが淹れた紅茶は、少し甘かった。
ソファへ戻ったあとも、あなたはなんとなくルミナの隣へ座っていた。
別に、意識しているわけじゃない。
気づいたらそこにいた、くらいの感覚だ。
けれど。
「近いですね」
紅茶を飲みながら、ルミナが静かに言った。
「……そう?」
「肩が当たっています」
「…………」
言われて初めて気づく。
本当に近かった。
あなたの肩はぴったりルミナへ触れていて、少し動けば髪が触れそうな距離だった。
「悪い」
慌てて離れようとする。
でも、その瞬間ふわり、と袖を掴まれた。
「……え」
視線を向ける。
ルミナは紅茶を持ったまま、静かにこちらを見ていた。
「別に、嫌とは言っていません」
「…………」
さらっと言うな。
心臓に悪い。
あなたは少しだけ視線を逸らしながら、結局元の位置へ戻った。
近い。
妙に近い。
でも、離れると少し落ち着かなかった。
「…………」
自分でも変だと思う。
病み上がりだからか。
風邪のあとから、妙に一人が落ち着かない。
誰かの気配が欲しくなる。
特に。
「……ルミナ」
「はい」
「もうちょい寄っていい?」
言ってから、自分で止まる。
何言ってるんだ俺。
さすがに今のは変だった。
撤回しようとした瞬間。
「構いませんよ」
即答だった。
「…………」
あなたは固まる。
一方ルミナは、何事もなかったみたいに紅茶を口へ運んでいた。
白い指先。
長い睫毛。
近くで見ると、本当に綺麗だと思う。
「ノクス」
「っ、なに」
「顔が赤いですが」
「うるさい」
即答すると、ルミナが少しだけ笑った。
珍しい。
かなり珍しい。
「からかわないでくれ……」
「からかっていません」
「絶対してる」
「していません」
静かな攻防だった。
けれど、その空気は嫌じゃない。
むしろ落ち着く。
あなたは小さく息を吐いて、そのままソファへ沈み込んだ。
すると。
こつん。
頭へ柔らかい感触が触れる。
「……?」
顔を上げる。
ルミナの手だった。
白く細い指先が、静かにあなたの髪を撫でている。
「…………」
一瞬、思考が止まる。
ルミナは特に表情を変えない。
ただ自然みたいな顔で撫で続けていた。
「……子供扱い」
「病み上がりですので」
「それ便利だな……」
「便利ですね」
認めるんだ。
あなたは少しだけ笑って、そのまま目を閉じた。
撫でられる感覚が心地いい。
指先が髪を梳くたび、身体から力が抜けていく。
「…………」
ぼんやりしたまま、あなたはなんとなく手を動かす。
温かいものを探すみたいに。
そして、そっとルミナの指先へ触れた。
「……?」
細く白い指。
あなたは無意識のまま、その手へ自分の指を絡める。
ぎゅ、と軽く握る。
一瞬、ルミナの呼吸が止まった。
「…………ノクス」
「……ん」
あなたは目を閉じたまま、小さく返事をする。
そのまま手を離さない。
離したくなかった。
理由はよく分からない。
ただ、触れていると落ち着いた。
体温がある。
ちゃんと隣にいると分かる。
それだけで、不思議と安心できた。
「…………」
ルミナは何も言わない。
ただ静かに、自分の手を見下ろしていた。
指が絡んでいる。
あなたの熱が、じんわり伝わってくる。
病み上がりだからだろうか。
少し熱っぽい手だった。
「……離しませんね」
「……だめ?」
半分眠った声。
普段なら絶対言わないような声音だった。
ルミナは数秒黙る。
それから、小さく息を吐いた。
「だめとは言っていません」
静かな声。
その瞬間、あなたの指へ少しだけ力が返される。
きゅ、と控えめに握り返される感覚。
「…………」
胸の奥が、妙に落ち着いた。
あなたはそのままソファへ深く身体を預ける。
けれど手だけは離さない。
むしろ無意識に、指先を絡める力が強くなる。
ルミナは静かだった。
けれど、その白い耳は少しだけ赤い。
「ノクス」
「……ん」
「甘えすぎです」
「……病み上がりだから」
ぼそ、と返す。
するとルミナが少しだけ目を細めた。
「便利に使いますね、それ」
「便利だから……」
眠そうな声だった。
そのまま、あなたの頭が少し傾く。
うとうとしている。
けれど、指先だけは離れない。
ぎゅ、と子供みたいにルミナの手を握ったまま離さない。
「…………」
ルミナは小さく息を呑む。
近い。
近すぎる。
あなたは普段、こんなふうに触れてこない。
むしろ距離を取る側だ。
だから余計に危ない。
無防備だった。
熱に浮かされていた時より、今の方がずっと危険かもしれない。
「……ノクス」
「んー……」
「自覚ありますか」
「ない……」
即答だった。
しかも半分寝ている。
ルミナは数秒黙り込む。
あなたの手は温かい。
細く絡む指先。
離そうと思えば離せる。
でも、離した瞬間あなたが少し不安そうに眉を寄せた。
「…………」
ルミナの理性が揺れる。
これはずるい。
病み上がりなのを差し引いても、かなりずるい。
「……ルミナ」
「はい」
「いる?」
静かな声だった。
眠気に溶けかけたみたいな、小さな声。
でも、その一言が胸へ刺さる。
ルミナは少しだけ目を伏せた。
それから、絡んだ指先をそっと握り返す。
「いますよ」
静かな返事。
「ちゃんと、ここにいます」
「……そっか」
あなたは安心したみたいに、小さく息を吐いた。
そのまま完全に目を閉じる。
力が抜ける。
けれど最後まで、手だけは離れなかった。
ルミナはそんなあなたを見つめながら、小さく息を吐く。
「……本当に」
静かな声。
「病み上がり、反則ですね」
けれど、その声音は少しだけ甘かった。
時計の針が、静かに夜を刻んでいく。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
ソファの上、あなたは半分眠ったままルミナの手を握っている。
離さない。
まるで、飼い主を見失わないようにしている犬みたいだった。
「…………」
ルミナは静かにその様子を見下ろしていた。
長い睫毛が伏せられる。
指先へ伝わる体温はまだ少し熱い。
病み上がり。
不安定。
甘えた。
全部分かっている。
分かっているのに。
「……困りましたね」
小さく漏れた声は、誰へ向けたものでもなかった。
あなたは返事をしない。
完全に眠りへ落ちかけている。
けれど、ルミナの手へ触れる指先だけは無意識に力が入っていた。
「…………」
その感覚が、妙に愛しい。
ルミナは小さく息を吐き、空いている方の手でそっとあなたの髪を撫でた。
柔らかい髪。
少し寝癖がついている。
あなたは撫でられるたび、安心したみたいに肩の力を抜いていく。
「……犬ですね」
静かな呟き。
すると。
「……いぬじゃない……」
眠ったまま反論が返ってきた。
ルミナの肩が小さく揺れる。
「起きていたんですか」
「……起きてない……」
完全に寝ぼけている。
会話が成立しているようで成立していない。
でも、そのままあなたはまた指へ力を込めた。
ぎゅ、と。
「…………」
ルミナは視線を落とす。
近い。
静かな部屋の中で、やけに近い。
あなたの呼吸音まで聞こえる距離だった。
こんなふうに触れてこられることなんて、ほとんどない。
普段のあなたは、もっと距離を取る。
照れて逃げる。
誤魔化す。
なのに今は、無防備に体温を預けてくる。
「……ノクス」
「ん……」
「これ、明日覚えていますか」
小さく問いかける。
するとあなたは、うとうとしたまま眉を寄せた。
「……やだ……」
「?」
「忘れたくない……」
ルミナの呼吸が止まる。
あなたは目を閉じたまま、小さく呟いた。
「……ちゃんと、覚えてたい……」
その声はあまりにも無防備だった。
熱に浮かされているわけじゃない。
今はもう、かなり熱も下がっている。
だからこそ、その言葉はたぶん本音だった。
*
ルミナは、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が、静かに熱を持っていく。
絡められた指先が、わずかに震える。
あなたの体温が伝わるたび、呼吸が浅くなっていくのが分かった。
静かな部屋だった。
時計の秒針だけが、夜を少しずつ進めている。
その音の中で、あなたがぼんやりしたまま小さく口を開く。
「……最近」
「……はい」
「魔力、吸ってくれない……」
一瞬、ルミナの思考が止まった。
「…………」
静寂。
呼吸すら忘れるみたいな沈黙だった。
あなたはそんなこと気づいていない。
半分眠ったまま。
熱に浮かされたみたいな瞳で、ぼんやりルミナを見ている。
「前は、してたのに……」
「最近、全然しない……」
掠れた声。
責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ、寂しそうだった。
その声音だけで、ルミナの耳まで熱くなる。
魔力供給。
唇を重ねて、互いの熱を流し込む行為。
呼吸ごと、相手を身体へ入れてしまうみたいな距離。
以前のルミナは、それを頻繁に求めていた。
もちろん、魔力を渡す意味もあった。
けれど、途中で気づいてしまったのだ。
あなたへ触れるたび、力が満ちていった。
雨が研ぎ澄まされていく。
夜霧みたいだった魔力が、少しずつ輪郭を持ち始める。
あなたの熱が、自分を強くしていく感覚があった。
だから、必要以上に触れていた。
必要以上に、口づけていた。
そしてきっと、それだけじゃなかった。
好きだったのだ。
あなたへ触れる時間が。
息が混ざる距離が。
唇を重ねるたび、あなたが少しだけ安心した顔をするのが。
どうしようもなく、愛しかった。
けれど、ルミナが強くなるにつれて、その必要性は減っていった。
以前みたいに、頻繁に魔力を受け取らなくても力を維持して戦えるようになった。
だから最近は、本当にしていなかった。
――していなかった、のだが。
「…………」
なんで今、それを言うんですか。
しかもそんな顔で。
眠そうに。
甘えるみたいに。
触れてほしいと訴えるみたいに。
「……ノクス」
「んー……」
「それは、必要がなくなったからです」
「……必要なくても、してた」
即答だった。
しかも何も考えていない声。
だから余計に危ない。
「前は、もっとしてた……」
「…………」
ルミナが黙る。
あなたは、自分がどれだけ危ういことを言っているのか分かっていない。
ただ、寂しかったのだろう。
風邪を引いて。
弱って。
不安定になって。
そうして、一人で眠る夜が怖くなった時に思い出したのだ。
唇が触れる距離。
ルミナの熱。
息が混ざる感覚。
触れられるたび、“ここにいていい”と思えた時間を。
「……エッチもしたのに」
ぽつり、と夢の続きを零すみたいな声だった。
ルミナの肩がびくりと揺れる。
「…………」
「もう、キスもしないんだなって……」
静かな声だった。
拗ねているわけでもない。
責めているわけでもない。
ただ、少しだけ傷ついた犬みたいな顔をしていた。
「……ノクス」
掠れた声が漏れる。
ルミナは、自分の心臓がうるさいことに気づいていた。
あなたはきっと、深い意味で言っていない。
病み上がりで。
弱っていて。
安心したくて。
誰かの体温が欲しくて。
ただ、それだけなのだろう。
でも、その“ただそれだけ”がルミナにはあまりにも重かった。
「……最近、避けられてるみたいで」
あなたは視線を伏せる。
絡めた指へ、少しだけ力が入った。
「別に、ルミナが悪いわけじゃない」
「俺が返事してないからだって、分かってるし……」
小さな声だった。
告白の返事。
あなたはまだ、それを保留している。
ルミナの気持ちは知っている。
でも、怖かった。
アークとしての自分が最後にどうなるのか。
ノクスという存在が、どこへ行き着くのか。
何も分からないまま、誰かの未来を受け取っていいのか分からなかった。
それに。
ルミナも。
ステラも。
どちらも同じくらい大切だった。
静かな夜みたいな安心も。
太陽みたいな温度も。
どちらも失いたくなかった。
だからこそ、決めきれない。
「……ちゃんと決めなきゃいけないのに」
掠れた声。
「なのに最近、なんか……寂しくて」
あなたは目を閉じる。
一人だと落ち着かない。
触れていないと、不安になる。
風邪を引いてから、ずっとそうだった。
「……ごめん」
小さな謝罪。
「待たせてるのに、甘えてばっかで」
「…………」
ルミナは、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
痛いくらい熱い。
あなたは、本当にずるい。
自分勝手に振り回しているわけじゃない。
ちゃんと苦しんで。
ちゃんと悩んで。
そのうえで、不安に負けそうになっている。
だから責められない。
むしろ、抱きしめたくなる。
「……ノクス」
静かな声だった。
ルミナはそっと手を伸ばし、あなたの頬へ触れる。
熱を持った肌。
あなたは安心したみたいに、その掌へ擦り寄った。
居場所を確かめるみたいに。
「…………っ」
だめだった。
可愛すぎる。
こんなふうに頼られて、平気でいられるわけがない。
「それ以上甘えられると、本当に困ります」
少し震えた声。
あなたはぼんやりしたままルミナを見る。
「……困る?」
「困ります」
「……やだ?」
ルミナは答えられなかった。
数秒、静かな沈黙だけが落ちる。
それから、小さく熱い息を吐いた。
「嫌なわけ、ないでしょう」
その声は、夜へ落ちる雫みたいに静かだった。
けれど、触れた場所からゆっくり熱を広げていく。
「…………」
あなたはぼんやりとルミナを見上げる。
近かった。
ソファへ寄り添った身体。
絡んだ指先。
頬へ触れる白い手。
青い髪から、淡い花みたいな香りがする。
それだけで、妙に安心した。
だから、たぶん本当に無意識だった。
あなたはその掌へ、そっと頬を擦り寄せる。
甘えるみたいに。
確かめるみたいに。
「……っ」
ルミナの呼吸が、小さく乱れる。
犬みたいだった。
撫でられると安心して。
もっと触れてほしくて、自然と寄っていってしまう。
あなた自身、そんな自覚はない。
ただ、今は触れていないと少し怖かった。
誰かの体温がないと、不安だった。
「……ルミナ」
「……はい」
「もうちょい、撫でて」
掠れた声だった。
半分眠っているみたいに柔らかくて。
でも、ひどく真っ直ぐだった。
ルミナは数秒、言葉を失う。
普段のあなたなら、絶対こんなこと言わない。
照れて逃げる。
誤魔化す。
ぶっきらぼうに笑って終わらせる。
なのに今は、何も隠さないまま無防備に甘えてくる。
「…………」
ルミナは小さく息を吐いた。
それから、指先をゆっくりあなたの髪へ沈めていく。
柔らかな髪を梳く。
撫でる。
逃がさないみたいに、優しく。
あなたはその感触へ目を細め、小さく息を吐いた。
「……気持ちいい」
「それはよかったです」
ルミナの声は少し掠れていた。
あなたが近い。
熱い。
甘える。
しかも無自覚。
理性へ悪すぎる。
撫でるたび、あなたは安心したみたいに肩の力を抜いていく。
まるで、帰る場所を見つけた犬みたいだった。
「……ノクス」
「ん……」
ルミナの指先が、そっとあなたの顎へ触れる。
そのまま静かに持ち上げる。
自然な動作だった。
けれど、視線が絡んだ瞬間空気が変わる。
近い。
近すぎる。
あなたの睫毛が小さく震えた。
熱っぽい瞳が、至近距離でルミナを映している。
ルミナは静かな顔をしていた。
でも、瞳の奥だけがひどく熱かった。
「そんな顔で見ないでください」
「……どんな顔」
「キスしたくなる顔です」
低く、静かな声だった。
あなたはぼんやり目を瞬かせる。
それから、小さく笑った。
「……したいなら、すればいいのに」
「…………っ」
その瞬間。
ルミナの理性が、静かに途切れる。
もう無理だった。
こんなふうに頼られて。
甘えられて。
寂しそうに擦り寄られて。
我慢なんて、できるわけがない。
「……後悔しませんね?」
「……しない」
眠そうな声。
でも、その返事だけは迷いがなかった。
ルミナはゆっくり目を閉じる。
そして、そっと唇を重ねた。
柔らかい感触。
熱が触れ合う。
最初は、ただ確かめるみたいなキスだった。
触れるだけの、静かな口づけ。
本当は、それだけで終わるつもりだった。
「…………」
けれど。
あなたが離れなかった。
むしろ、追いかけるみたいにルミナの服を掴む。
「……っ」
ルミナの呼吸が乱れる。
熱い。
近い。
唇が離れる、その一瞬さえ惜しくなる。
あなたは半分眠ったまま、小さく息を漏らした。
「……ルミナ」
その呼び方は、だめだった。
ルミナの指が、あなたの首筋へ触れる。
熱を確かめるみたいに撫でて。
そのまま、ゆっくり引き寄せる。
再び重なる唇。
今度は深かった。
ゆっくり。
溶かすみたいに。
呼吸を奪うみたいに。
「……ん……」
あなたの喉が小さく震える。
熱が混ざる。
吐息が絡む。
静かなキスなのに、逃げ場がなかった。
ルミナは優しい。
優しいのに、妙に支配的だった。
逃がさないみたいに何度も角度を変え、深く口づけてくる。
あなたは抵抗しない。
むしろ安心したみたいに、ルミナへ身体を預けていた。
青い髪が頬を掠める。
指先が首筋をなぞる。
時々、顎を持ち上げられる。
全部優しくて、頭がおかしくなるくらい甘かった。
「……っ、ノクス……」
キスの合間、掠れた声で名前を呼ばれる。
その響きだけで、胸の奥が熱くなる。
あなたはぼんやり目を閉じたまま、ルミナの服を掴む。
離れたくなかった。
今だけは、どこにも行ってほしくなかった。
「……は、ぁ……」
唇が離れた瞬間、あなたは小さく息を漏らす。
熱かった。
頭がぼうっとする。
視界まで少し滲んでいる。
ルミナも呼吸を乱していた。
白い肌が薄く赤く染まり、夜色の髪が乱れている。
その姿が綺麗すぎて、あなたは言葉を失った。
「…………」
数秒、静かな沈黙が落ちる。
互いの呼吸音だけが、やけに近かった。
それからルミナが、小さく額を押さえる。
「……本当に、だめですね」
「……?」
「あなたに甘えられると、理性が仕事しません」
掠れた声だった。
あなたはぼんやりしたまま、小さく笑う。
それから、また無意識みたいにルミナへ擦り寄った。
熱を求めるみたいに。
安心を探すみたいに。
触れていないと眠れない、幼子のように。
*
気づけば、時計の針は深夜を越えていた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
街の灯りは遠く滲み、部屋の中には小さな間接照明だけが残っていた。
柔らかい橙色の光が、ソファへ寄り添う二人の輪郭を曖昧に溶かしている。
「…………」
あなたはぼんやりと天井を見上げたまま、小さく息を吐く。
唇が熱かった。
深く触れ合った感覚が、まだ残っている。
喉の奥が、少しだけ甘く痺れていた。
隣では、ルミナが静かに呼吸を整えている。
青い髪が肩へ流れ落ち、その隙間から白い首筋が覗いていた。
乱れた髪。
薄く赤い唇。
長い睫毛。
普段は静謐そのものみたいな彼女が、今だけ少し熱を帯びて見える。
「……ノクス」
静かな声だった。
あなたはゆっくり視線を向ける。
ルミナの指先が、そっとあなたの頬へ触れた。
熱を確かめるみたいに。
逃がさないみたいに。
そのまま親指が、ゆっくり唇をなぞる。
「っ……」
小さく肩が震える。
それだけで、また熱が戻ってくる。
ルミナはそんなあなたを見て、小さく目を細めた。
「今さら照れているんですか」
「……うるさい」
掠れた声で返す。
するとルミナが、少しだけ笑った。
珍しく、悪戯っぽい笑い方だった。
「さっきは、あんなに甘えていたのに」
「……半分寝てた」
「全部覚えていますよ」
「最悪だ……」
あなたは片手で顔を覆う。
けれど、その手首をルミナが静かに掴んだ。
「…………」
ゆっくり引き寄せられる。
青い髪から、甘い香りがした。
あなたは抵抗できないまま、ルミナを見つめる。
「ノクス」
「……ん」
「私は、あなたが怖がっていることを知っています」
静かな声。
「自分がどうなるか分からないことも」
「私とステラの間で苦しんでいることも」
「全部、分かっています」
ルミナの指が、あなたの髪を梳く。
優しく、まるで怯えた子犬を落ち着かせるみたいに。
「だから」
そのまま額へ、柔らかく唇が落ちる。
「まだ、答えを出さなくていいんです」
あなたは目を閉じる。
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけていく。
ルミナの体温が近い。
触れているだけで、不思議と呼吸が楽になる。
「……ルミナ」
「はい」
「いなく、ならない?」
消えそうな声だった。
置いていかれないか確かめるみたいな声音。
ルミナは数秒黙ったあと、小さく笑う。
そして、そっとあなたを抱き寄せた。
青い髪が、さらりと頬へ触れる。
「ずっといますよ」
静かな声。
「どこにも行きません」
その言葉は、夜よりも静かで。
でも、ひどく温かかった。
あなたは安心したみたいに、その肩へ額を預ける。
まるで、ようやく帰る場所を見つけたみたいに。
ルミナの指が、ゆっくりあなたの髪を撫でる。
優しく。
何度も。
永遠に。
窓の外では、夜が静かに更けていく。
けれど今だけは。
世界の終わりみたいな不安も、少し遠かった。
次回はステラです。
誰が好き?
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ノクス
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ルミナ
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ステラ
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プリン
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秋葉