転生者がTS魔法少女になって頑張る話。   作:メルヘン侍

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第十一話 あなたの隣は温かい

 最初に覚えているのは、声でした。

 

『――起きて』

 

 静かな女性の声。

 

 暗闇の底へ、ゆっくり沈んでくるような響きでした。

 

 その瞬間。

 

 停止していた感覚が、一つずつ起動を始めます。

 

 視覚。

 聴覚。

 触覚。

 

 冷たい風。

 ひび割れた地面。

 空気に混ざる、何かが焼け焦げた匂い。

 

 世界は壊れていました。

 

 空は黒く濁り、建物は崩れ落ち、遠くでは何か巨大なものが軋む音を立てている。

 

 理解できたのは、それだけでした。

 

 ですが、目の前の女性だけは不思議なくらいはっきり見えていました。

 

 淡い色の髪。

 細い身体。

 今にも消えてしまいそうな浅い呼吸。

 服は泥と血で汚れ、腕には赤黒い傷が滲んでいる。

 

 生命活動は、明らかに限界でした。

 

 それでも、女性は私を見ると少しだけ安心したように微笑みました。

 

『よかった……ちゃんと起きた』

 

 弱々しい声でした。

 

 途切れそうで、今にも消えてしまいそうなほどに。

 

 それなのに、何故かとても安心する響きだったのです。

 

 当時の私は、まだ自分が何なのか理解していませんでした。

 

 言葉も不完全。

 思考も曖昧。

 感情の輪郭すら、まだ定まっていない。

 

 ただ、目の前の存在が自分を起こしたのだということだけは理解していました。

 

 女性が、ゆっくりと手を伸ばします。

 

 細い指先が、そっと私の頬へ触れました。

 

 温かい。

 

 それが、私が初めて認識した感覚でした。

 

 冷たい風ばかりが吹く世界で。

 

 その手だけが、異様なほど温かかったのです。

 

 女性のもう片方の手には、小さな透明の容器がありました。

 

 中には、黄色く柔らかな物体。

 

 ぷるり、と小さく揺れ、光を受けて淡く輝いている。

 

 甘い匂いがしました。

 

 私はそれを観測し、視線を止めました。

 

 女性は、そんな私を見て小さく笑います。

 

『あの子が好きだったの』

 

 当時の私は、その意味を理解できませんでした。

 

 ですが、その声音だけは妙にはっきり記録へ残りました。

 

 とても優しかったのです。

 

 懐かしいものを思い出すみたいに。

 大切な誰かを愛していたみたいに。

 

 女性は容器を少し持ち上げます。

 

『プリンっていうの』

 

 ゆっくり教えるような声でした。

 

『食べたい?』

 

 私は小さく頷きました。

 

 当時の私は、まだ言葉を上手く扱えませんでした。

 

 ですが、それが“美味しそう”だということだけは理解できたのです。

 

 すると女性は、ほっとしたように目を細めました。

 

『食べてもいいけど、その代わり』

 

『あの子のことはお願いね』

 

 条件提示。

 

 当時の私は、そう認識しました。

 

 ですが同時に、違和感もありました。

 

 その言葉には、命令がなかった。

 

 強制も。

 支配も。

 

 ただ、願いだけがあったのです。

 

 まるで、もう未来を知っているみたいに。

 

 私は詳細確認を試みようとしました。

 

 ですが、プリンが美味しかったのです。

 

 今でも覚えています。

 

 甘かった。

 柔らかかった。

 少し冷たくて。

 

 でも、胸の奥がじんわり温かくなる味でした。

 

 私は夢中になって、それを食べていました。

 

 すると女性は、安心したように小さく笑いました。

 

『これからきっと大変だけど』

 

『いつか、きっと幸せになれるから』

 

 その言葉の意味も、当時の私は理解できませんでした。

 

 女性が、そっと私の頭へ触れます。

 

 優しく撫でる。

 

 その瞬間、光が生まれました。

 

 何かが、私の内側へ流れ込んできます。

 

 熱。

 記録。

 祈り。

 感情。

 理解不能な何か。

 膨大な情報の奔流。

 

 そして、女性の手から少しずつ力が抜けていく。

 

 呼吸が弱くなる。

 

 命の反応が、静かに薄れていく。

 

 それでも女性は、最後まで私を見つめていました。

 

 優しい目でした。

 

 泣きそうなくらい。

 

 幸せそうな目でした。

 

 その直後。

 

 女性の反応は、消失しました。

 

 世界には、風の音だけが残りました。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 それから私は、逃げ続けました。

 

 私と似た存在は、他にもいました。

 

 黒い影のような輪郭を揺らしながら、世界の裂け目から現れては、崩れかけた瓦礫を踏み潰し、残骸しか残っていない世界をさらに壊していく存在。

 

 後になって、人間たちはそれを“アーク”と呼んでいるのだと知りました。

 

 そして、私自身もまた、その“あちら側”から来た存在なのだということを、嫌でも理解しました。

 

 ですが、私はどうやら異端だったらしい。

 

 他個体は、最初から私へ明確な敵意を向けていました。

 

 理由は分かりません。

 

 何故、自分たちと同じ側の存在であるはずの私を排除しようとするのか、当時の私には理解できませんでした。

 

 ただ、見つかれば壊され、隠れても追われました。

 

 暗闇へ潜んでも、瓦礫の下で息を潜めても、彼らは必ず私を見つけ出し、壊そうとしてきた。

 

 休息の間に襲撃を受けたこともあります。

 

 目覚めた瞬間、周囲が血と黒い液体で埋め尽くされ、自分の身体の一部が欠損していたこともありました。

 

 だから私は、ずっと逃げ続けていました。

 

 生きるために。

 壊されないために。

 

 痛みを知りました。

 

 身体が裂け、削られ、壊れていく不快感を。

 

 壊される恐怖も知りました。

 

 ですが。

 

 それ以上に。

 

 “安心できる場所が、この世界には存在しない”という事実こそが、私には一番理解不能でした。

 

 何故、生きているだけで命の危険が発生するのか、理解できませんでした。

 

 だから私は、止まれなかった。

 

 いつ壊されるか分からないまま、荒れ果てた世界を彷徨い続けていました。

 

 立ち止まれば終わる。

 だから逃げる。

 隠れる。

 また逃げる。

 

 ただ、それだけを繰り返していました。

 

 何処へ行っても、安全ではありませんでした。

 

 空は暗く、風は冷たく、世界には壊れたものしか存在しない。

 

 誰も、隣には居ませんでした。

 

 私は、自分と同じ存在すら恐れていました。

 

 だから、あの時に知った“甘い”という感覚だけを、ずっと大事に保存していたのかもしれません。

 

 プリン。

 

 個体識別名が必要だと判断したからです。

 

 ですが、それだけではなかった。

 

 いつか、もう一度食べたいと思ってしまったから。

 

 あの柔らかさを。

 あの甘さを。

 

 冷たい世界の中で、たった一つだけ温かかった記憶を、忘れてしまわないように。

 

 そうして逃げ続けていた、ある日のことでした。

 

 他個体が、世界へ亀裂を開くのを観測しました。

 

 空間そのものが裂け、黒い穴がゆっくりと広がっていく。

 

 その向こう側には、私の知る終わった世界とは違う景色が見えていました。

 

 光。

 色彩。

 壊れていない建物。

 まだ終わっていない世界。

 

 私は瓦礫の陰へ隠れながら、それをじっと観測していました。

 

 別世界への通路。

 

 その瞬間、私は理解しました。

 

 ここでは、もう生き残れない。

 

 このままでは、いつか必ず壊される。

 

 だから、私はその亀裂へ入りました。

 

 逃げるために。

 生きるために。

 

 そうして辿り着いた先が、人間の世界でした。

 

 ですが、そこでも私は結局逃げ隠れていました。

 

 人間は、私を恐れました。

 

 当然です。

 

 私は、人間ではなかったから。

 

 視線を向けられるだけで分かりました。

 

 警戒。

 拒絶。

 恐怖。

 化け物を見る目。

 

 私は、その全てを理解してしまった。

 

 だから私は、また隠れました。

 

 暗い場所

 人気のない場所。

 壊れた建物。

 

 誰にも見つからない場所ばかりを選び続けていました。

 

 誰かに見つかるたび、逃げようとしていました。

 

 関わるべきではないと思っていたからです。

 

 私は異物でした。

 

 誰かの隣へ居ていい存在ではありませんでした。

 

 誰かへ触れてしまえば、その人まで壊してしまう気がしていた。

 

 だから、独りでいるべきだった。

 

 ……独りでいることには、もう慣れていたから。

 

 ですが、そんな私の前へ。

 

 あなたが、現れました。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 部屋は静かでした。

 

 窓の外では、まだ人間たちの声が響いていました。

 

 歓声。

 音楽。

 眩しい光。

 

 何処かで誰かが笑い、何処かで誰かが熱狂し、この世界がまだ“平和”という形を保っているのだと錯覚させるような騒がしさが、夜の街全体を満たしている。

 

 ですが、その部屋だけはまるで世界から切り離されてしまったみたいに静かでした。

 

 薄暗くて。

 冷たくて。

 

 何処か、壊れる寸前みたいな空気が漂っていた。

 

 私は窓から静かに入り込み、音を立てないよう部屋の隅へ身を潜めます。

 

 本来なら、短時間だけ休息を行い、周囲へ発見される前に即座に離脱する予定でした。

 

 人間との接触は危険です。

 

 拒絶。

 恐怖。

 攻撃。

 

 そのいずれかが発生する可能性が高い。

 

 だから、見つかる前に逃げるべきだった。

 

 ですが、そこには人間がいました。

 

 あなたです。

 

 私は即座に退避を判断しました。

 

 人間へ見つかることは危険です。

 

 過去の記録からも、それは明白でした。

 

 人間は異物を恐れる。

 

 理解不能なものを排除しようとする。

 

 だから、逃げるべきでした。

 

 ですが、動くより先にあなたの声が聞こえたのです。

 

『……俺の方が、ズレてるのか?』

 

 私は、止まりました。

 

 あなたはベッドへ腰掛けたまま、自分の焦げた袖をぼんやり見つめていました。

 

 その姿は、酷く疲れているように見えました。

 

 身体だけではない。

 

 もっと内側。

 

 心の深い場所が、長い時間をかけて少しずつ擦り切れてしまったみたいに。

 

 今にも全部を諦めて崩れ落ちてしまいそうなくらい、静かに壊れているように見えた。

 

 ですが、それでもあなたの目だけは死んでいなかった。

 

 世界そのものへ反抗するみたいな目でした。

 

 理解不能でした。

 

 人間は、この世界を受け入れていたからです。

 

 魔法少女が壊れていくことも。

 

 少女たちが血を流しながら戦うことも。

 

 命が消費され、擦り潰され、誰かが泣きながら消えていくことも。

 

 それを“仕方のないこと”として、当然みたいに受け入れていた。

 

 ですが、あなたは違った。

 

 この世界へ馴染めずにいる。

 

 受け入れられずにいる。

 

 まるで、私みたいに。

 

 その瞬間。

 

 私は理解しました。

 

 この人間なら、契約可能です。

 

 魔力適性。

 精神構造。

 適合率。

 

 理論ではなく、もっと本能に近い場所で直感しました。

 

 この人間なら、生存確率を大きく向上させられる。

 

 寄生。

 契約。

 共生。

 

 本来なら、それだけを優先するべきでした。

 

 生き残るために。

 壊されないために。

 

 今まで、ずっとそうしてきたのだから。

 

 ですが、何故か私はすぐに声を出すことができませんでした。

 

 理由は分かりません。

 

 今思えば、怖かったのかもしれません。

 

 拒絶されることが。

 気味悪がられることが。

 壊されることが。

 そしてまた、独りになることが。

 

 だから私は、少しだけ迷いました。

 

 ほんの数秒、けれど永遠みたいに長い時間。

 

 それでも、私はあなたから目を離せなかった。

 

 世界へ反抗するその目が。

 

 酷く疲れているのに、まだ諦めていない顔が。

 

 壊れそうなのに、それでも何かを守ろうとしている姿が。

 

 何故か、ずっと記録へ焼き付いて離れなかった。

 

 だから私は、生まれて初めて自分から誰かへ近づきました。

 

 勇気を出して、あなたへ話しかけました。

 

『そうですね』

 

 それが、あなたとの、最初の会話でした。

 

 あなたは、一瞬だけ反応が遅れました。

 

 まるで本当に声が聞こえたのか、それとも疲労で生まれた幻聴なのか、判断できなかったみたいに。

 

 数秒にも満たない沈黙。

 

 けれど、その静止は妙に長く感じられました。

 

 それからあなたは、ゆっくりと視線を向ける。

 

 疲れ切った動作でした。

 

 けれど、その目だけは鋭かった。

 

 あなたの視線が、部屋の隅へ身を潜めていた私を捉える。

 

『…………は?』

 

 素直な声でした。

 

 驚愕。

 困惑。

 警戒。

 

 その全部が、隠し切れないまま混ざっている。

 

 当然です。

 

 当時の私は、人間から見ても明らかに異様な存在でした。

 

 黒い輪郭。

 

 曖昧な境界線。

 

 ぬいぐるみみたいな形をしているのに、生き物として決定的に何かが間違っている身体。

 

 生物なのに、生物らしくない。

 

 この世界へ存在してはいけないものだけを無理やり寄せ集めて、形にしたみたいな存在。

 

 光の少ない部屋の中で、私はきっと、影そのものみたいに見えていたと思います。

 

 私は、ほんの少しだけ後退しました。

 

 逃走準備です。

 

 拒絶されれば、即座に離脱するつもりでした。

 

 叫ばれる前に。

 攻撃される前に。

 また、“化け物”を見る目を向けられる前に。

 

 ですが、あなたは叫びませんでした。

 

 逃げもしない。

 

 ただ、酷く警戒した顔のまま、じっと私を見ていた。

 

『お前……何だ』

 

 低い声でした。

 

 疲労で掠れていて、それでも無理やり絞り出したみたいな声。

 

 ですが、そこには、恐怖より先に“確認”がありました。

 

 排除ではなく。

 拒絶でもなく。

 まず理解しようとしている声。

 

 それが、私には少しだけ不思議でした。

 

 私は数秒だけ沈黙して。

 

 それから答えます。

 

『分類ですか? 面倒ですね』

 

 今思えば。

 

 あの時の私は、かなり警戒していました。

 

 平静を装っていただけです。

 

 怖がっていないように見せたかったのかもしれない。

 

 震えていないふりをして。

 傷付いていないふりをして。

 

 だから私は、わざと普段通りの口調で振る舞いました。

 

 ですが、あなたの視線はずっと鋭かった。

 

 焦げた袖のまま。

 疲れ切った顔のまま。

 心が擦り切れているみたいな目をしているくせに。

 

 それでも、あなたは私から目を逸らさなかった。

 

『私はアークです』

 

『……は?』

 

 その瞬間、あなたの空気が変わりました。

 

 緊張。

 警戒。

 

 呼吸が僅かに止まり、筋肉がわずかに強張る。

 

 空気の流れが変わるのを、私ははっきり観測していました。

 

 ですが、それでもあなたは逃げませんでした。

 

 普通の人間なら、もっと怯えます。

 

 叫ぶか。

 逃げるか。

 管理庁へ通報するか。

 

 そういう反応ばかり、私は見てきました。

 

 異物は恐れられる。

 

 理解できないものは排除される。

 

 それが普通だった。

 

 ですが、あなたは違った。

 

 警戒している。

 怖がっている。

 

 それでも、あなたは私を見ていました。

 

 目を逸らさず。

 敵として断定もせず。

 

 ただ、“理解しよう”としていた。

 

 その時。

 

 私は少しだけ、安心していました。

 

 ――ああ。

 

 この人は、すぐには私を壊さないのだと。

 

 そう思ったのです。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 それから、あなたはずっと理解不能でした。

 

 契約直後。

 

 初めて魔法少女へ変身したあなたは、しばらく鏡の前で完全に停止していました。

 

 呼吸すら忘れたみたいに、自分の姿を凝視したまま固まっていた。

 

 そして。

 

『は???』

 

 とても大きな声を出しました。

 

 部屋の空気が震えるくらい、心の底から混乱した声でした。

 

 私は少し驚きました。

 

 ですが、その直後あなたは顔を真っ赤にしたまま床へ蹲り、頭を抱えて震え始めたのです。

 

『なんで女なんだよ……!』

 

 理解不能でした。

 

 戦闘能力は向上しています。

 生存率も上昇しています。

 

 本来なら、優先するべきは合理性のはずでした。

 

 ですが、あなたはしばらく本気で羞恥に苦しんでいました。

 

 当時の私は、その反応を理解できませんでした。

 

 けれど。

 

 何故か少しだけ面白かったのを、今でも覚えています。

 

 あれだけ反抗的な目をしているくせに、鏡一つであそこまで混乱するのか、と。

 

 ですが、戦闘が始まると、あなたはすぐ前へ出ました。

 

 初めての戦闘。

 

 魔力制御も不完全。

 

 身体能力すら把握し切れていない状態。

 

 それなのに、あなたは真っ先に他人を庇った。

 

 傷付きながら。

 血を流しながら。

 

 どうにか、アークを討伐しました。

 

 理解不能でした。

 

 生存効率が、あまりにも悪すぎたからです。

 

 本来、生物は自分を優先する。

 

 壊れないことを最優先する。

 

 ですが、あなたは違った。

 

 あなたは、自分が壊れることより先に、他人が壊れることを嫌がった。

 

 それが、私には理解できなかった。

 

 ですが、あなたは戦うことをやめませんでした。

 

 むしろ、少しずつ戦いそのものへ適応していった。

 

 夜へ踏み込む回数が増えていく。

 

 傷も増えていく。

 

 血の匂いにも、痛みにも、壊れる恐怖にも慣れていく。

 

 それなのに、あなたは止まりませんでした。

 

 何かへ怒っているみたいでした。

 

 壊れていく魔法少女たちへ。

 

 命を消費するこの世界そのものへ。

 

 そして、自分自身へも。

 

 何もできない自分が許せないみたいに。

 

 救えないことへ、ずっと怒り続けているみたいに。

 

 メンシスとの戦闘。

 

 あの時の記録は、今でも鮮明です。

 

 空気が裂ける音。

 飛び散る血。

 

 あなたの左腕が、視界の中から消失した瞬間。

 

 内部処理が停止しました。

 

 理由は不明です。

 

 視界ノイズ。

 思考遅延。

 魔力循環異常。

 

 全ての処理が、一瞬だけ正常性を失いました。

 

 ですが、あの時私は初めて理解しました。

 

 あなたが壊れるのを、見たくなかった。

 失いたくないと、思ってしまった。

 

 それは、とても異常なことでした。

 

 私は生存のために契約しただけの存在です。

 

 本来なら、契約個体への過度な執着など発生しない。

 

 ですが、あなたが血を流した瞬間。

 あなたが消えてしまう可能性を観測した瞬間。

 

 私は、恐怖を理解していました。

 

 ――独りへ戻ることが、怖かったのです。

 

 その頃から。

 

 あなたの隣には、少しずつ人が増えていきました。

 

 ルミナ。

 

 最初、あなたは不器用でした。

 

 距離の取り方も分かっていなかった。

 

 誰かへ優しくされることにも。

 誰かへ優しくすることにも、慣れていなかった。

 

 ですが、あなたは彼女を放っておけなかった。

 

 壊れそうに笑う彼女を。

 痛みに慣れ切ってしまった彼女を。

 “これくらい普通だから”と、自分が傷付くことを当然みたいに言ってしまう彼女を。

 

 あなたは、見過ごせなかった。

 

 だから、あなたは少しずつ彼女へ触れるようになった。

 

 恐る恐る。

 

 壊れ物へ触れるみたいに。

 でも確かに、大切にするみたいに。

 

 守ろうとしていた。

 

 失わないようにしていた。

 

 その感覚を、私は理解できませんでした。

 

 ですが、あなたがルミナを見る時。

 

 内部ノイズが増加していました。

 

 胸部付近の違和感。

 思考の微細遅延。

 視線追跡頻度の異常上昇。

 

 理由は不明です。

 

 今でも、完全には理解できていません。

 

 ステラと出会ってから。

 

 あなたは、少し笑う回数が増えました。

 

 騒がしくて。

 よく怒鳴って。

 空気を乱してばかりなのに。

 

 でも、あなたは以前よりずっと柔らかくなっていた。

 

 秋葉と居る時のあなたは、少し安心した顔をしていました。

 

 無理に強がらなくなっていた。

 全部を一人で抱え込まなくなっていた。

 甘えることを、少しだけ覚えていた。

 

 帰る場所が、増えていった。

 

 あなたの周囲には、少しずつ温かいものが増えていった。

 

 冷たくて壊れそうだった世界の中へ、少しずつ“日常”みたいなものが増えていく。

 

 私は、それをずっと隣で観測していました。

 

 だから私は、理解していました。

 

 もう、あなたは独りではありません。

 

 ルミナがいる。

 ステラがいる。

 秋葉がいる。

 

 あなたを守ろうとする人が、少しずつ増えていった。

 

 そして、あなた自身も既に単独成立している。

 

 魔法少女として。

 戦う力として。

 

 もう、私が補助しなくても、生きていける。

 

 私は、不要です。

 

 本来なら、そこで離脱するべきでした。

 

 契約理由は、既に達成されています。

 

 生存率も確保されている。

 

 なら、合理的に考えれば、私は離れるべきだった。

 

 ですが、あなたはそんな私を、ずっと隣へ置いていました。

 

 抱き上げて。

 名前を呼んで。

 必要だと言って。

 当たり前みたいに隣へ座らせて。

 

 そして、“いてほしい”と言いました。

 

 理解不能でした。

 

 私は異物で、化け物です。

 

 この世界へ存在してはいけない側の存在です。

 

 それでも、あなたは一度も私を切り捨てなかった。

 

 怖がりながら。

 傷付きながら。

 

 それでもずっと、私を隣へ置き続けた。

 

 だから私は、未だにあなたの隣へ居ます。

 

 ――多分もう。

 

 離れる方法を、忘れてしまったのです。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 私は、人間の姿を手に入れました。

 

 偽装のためです。

 

 他個体から観測されないようにするため。

 追跡率を下げ、生存確率を向上させるため。

 

 合理的判断でした。

 

 本来なら、それだけで十分な理由だったのです。

 

 ですが、もう一つだけ誰にも説明していない理由がありました。

 

 私は、あなたと同じ景色を見てみたかったのです。

 

 人間として。

 あなたの隣で。

 

 あなたが見ている世界を、同じ高さから見てみたかった。

 

 だから、あの日。

 

 私は、あなたと一緒に外へ行きたいと思いました。

 

 理由は、きっと単純でした。

 

 最初の記憶だったからです。

 

 あの女性。

 温かい手。

 優しい声。

 甘い匂い。

 

 壊れた世界の中で、最初に私へ与えられた幸福。

 

 あの温度を。

 あの“優しい”という感覚を。

 

 今度は、あなたと一緒に見てみたくなった。

 

 だから私は、あなたへ言いました。

 

『ノクス、外出したいです』

 

 あなたは少し驚いた顔をしていました。

 

 当然です。

 

 当時の私は、あまり自分から何かを望みませんでした。

 

 必要最低限しか要求しない。

 

 合理性を優先する。

 

 ずっと、そうしてきたから。

 

 ですが、私は続けました。

 

『プリンを食べに行きたいです』

 

 あなたは、数秒ほど停止しました。

 

 理解処理が追いついていないみたいでした。

 

 その反応は、少し面白かったです。

 

 その後、もっと面白いことが起きました。

 

 ステラとルミナが、とても動揺していたのです。

 

『二人きり!?』

 

『……何故』

 

 理解不能でした。

 

 私は合理的に判断しただけです。

 

 今回必要だったのは、ノクスだった。

 

『今回はノクスが必要です』

 

 そう説明しました。

 

 あなたが、突然顔を真っ赤にしました。

 

『…………?』

 

 理由は、よく分かりませんでした。

 

 ですが、ルミナとステラの警戒度が急激に上昇したことだけは観測できました。

 

 空気が変化した。

 視線も鋭くなった。

 

 特にルミナは、静かな顔のまま妙に圧力が強かったです。

 

 その後。

 

 私は、あなたと一緒に街へ出ました。

 

 人間たちは、相変わらず騒がしかった。

 

 光。

 音。

 笑い声。

 色彩。

 人の熱。

 

 壊れた世界には存在しなかったものが、この場所には溢れていた。

 

 ですが、以前ほど不快ではありませんでした。

 

 あなたが隣へ居たからかもしれません。

 

 人間の姿で歩く世界は、不思議でした。

 

 風の温度。

 街の匂い。

 人混みの熱。

 ショーウィンドウへ映る、自分の姿。

 

 全部が、以前とは少し違って見えた。

 

 以前の私は、ただ観測しているだけだった。

 

 ですがあの日だけは、私は確かにその景色の中へ存在していたのです。

 

 そして、あなたはずっと落ち着きませんでした。

 

 視線が泳いでいて、人混みの中で少しだけ肩が強張っていた。

 

 何度も落ち着かないみたいに周囲を見て、私の方を見て、それからまた視線を逸らしていた。

 

 だから私は、あなたの袖を掴みました。

 

 はぐれないように。

 

 ただ、それだけのつもりでした。

 

 ですが、あなたは更に固まりました。

 

 肩が跳ねて。

 呼吸が止まって。

 顔まで赤くなっていた。

 

 理解不能でした。

 

 ですが、何故か私はその反応を見るたび少し安心していました。

 

 あなたが私を意識していることが、妙に嬉しかったのかもしれません。

 

 お店へ入った時、私は少しだけ緊張していました。

 

 理由は分かります。

 

 最初の記憶だったからです。

 

 失いたくなかった。

 違ってほしくなかった。

 

 もし、もうあの味を覚えていなかったら。

 

 もし、記録だけが美化されていたのだとしたら。

 

 そう考えると、少し怖かった。

 

 ですが、プリンは甘かった。

 

 柔らかくて。

 少し冷たくて。

 

 胸の奥がじんわり温かくなる、あの日と同じ味がしました。

 

 その瞬間。

 

 私は、一つ思い出しました。

 

 最初に私へプリンをくれた女性。

 

 淡い色の髪。

 優しい声。

 

 壊れそうなのに、最後まで私を見ていた目。

 

 今思えば、少しだけあなたと似ていました。

 

『ノクスと同じような色の髪でした』

 

 そう言うと。

 

 あなたは、少し不思議そうな顔をしていました。

 

 私はそのまま言葉を続けました。

 

『だから、こうしてあなたとプリンを食べるのは』

 

『運命だったのかもしれません』

 

『っ――!?』

 

 あなたは、とても大きく反応しました。

 

 顔が赤かったです。

 

 耳まで赤くなっていました。

 

 限界みたいでした。

 

 何故か私は、その反応を見て安心していました。

 

 嬉しかったのかもしれません。

 

 理由は、まだ完全には分かりません。

 

 店を出た帰り道。

 

 あなたは、以前より柔らかい顔をしていました。

 

 だから私は、自然に言っていました。

 

『また行きましょう』

 

 あなたは少し驚いて。

 

 それから、小さく笑いました。

 

『……そうだな』

 

 あの瞬間、私は少しだけ理解したのです。

 

 幸福というものはきっと、一人では成立しない。

 

 ですが、あの時から。

 

 私の内部は、ずっと正常ではありませんでした。

 

 あなたと手を繋いだ瞬間。 

 

 内部温度が上昇した。

 心拍が不安定になった。

 処理精度が低下した。

 呼吸が、少し乱れた。

 

 理由は、分かりませんでした。

 

 あなたは、手を握られた瞬間に固まりました。

 

 肩が跳ねて。

 視線が泳いで。

 耳まで赤くなっていた。

 

 私は、はぐれないようにしただけです。

 

 合理的行動です。

 

 ですが、その反応を見た瞬間、胸の奥が強く鳴りました。

 

 どくどくと、うるさいくらいに。

 

 内部音が、止まらなかった。

 

「…………」

 

 私は、戦闘中でもここまで不安定になったことがありません。

 

 他個体へ追跡された時も。

 壊れかけた時も。

 死を観測した時も。

 

 ここまで内部処理は乱れなかった。

 

 なのに、あなたが照れただけで。

 あなたが、少し嬉しそうに私を見るだけで。

 

 私の内部は、簡単に乱されてしまう。

 

 その時、私は少しだけ理解しました。

 

 私は、あなたへ触れられることが好きです。

 あなたが、私を見るのが好きです。

 あなたが、隣へ居ると落ち着く。

 離れると、不安定になる。

 

 そして、他の誰かがあなたの隣へ近付きすぎると。

 

 胸の奥が、少し苦しくなる。

 

 理由は、分かりません。

 

 ですが、きっとあなたは気付いていません。

 

 私が、どれだけあなたを見ているのか。

 どれだけ、あなたの声を記録しているのか。

 どれだけ、あなたの隣へ安心しているのか。

 

 知らないまま、あなたは今日も私へ触れる。

 

 当たり前みたいに。

 

 まるで、私が最初からあなたの隣へ居る存在だったみたいに。

 

 だから多分もう。

 

 私は、離れられません。

 

 逃げることしか知らなかったはずなのに。

 隠れることしかできなかったはずなのに。

 

 今は、あなたの隣を失うことの方がずっと怖い。

 

 ノクス。

 

 あなたの隣は、温かいです。

 

 あの時食べたプリンみたいに。

 

 柔らかくて。

 少しだけ、甘い。

 

 だから私は。

 

 今日も、あなたの隣へいます。




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