朝から散々だった。
いや、散々という一言で片付けてしまうには少し惜しいくらいには騒がしかった。
校門へ辿り着く前に告白され、その返事を終えたと思えば今度は別の問題が待ち構えていて、結局一番時間を取られたのは告白相手でなく、なぜか身内三人の説得だったのだから世の中は理不尽である。
「昼休みに会えるだろ」
「でも」
「放課後も一緒だ」
「でも」
「家も同じだ」
「でも」
会話として成立していない。
特に銀髪の少女は酷かった。
理屈を積み上げても全部同じ場所へ戻ってくるので、まるで出口のない迷路を歩かされている気分だった。
ルミナとステラも大差なかったが、あちらはまだ羞恥心や体裁という名のブレーキが残っている。
プリンにはそれが無い。
だから強い。
そして面倒臭い。
最終的に何とか納得させた頃には、朝だというのに一仕事終えた後みたいな気分になっていた。
「災難だったな」
隣を歩く担任が肩を揺らす。
笑いを堪えている。
助ける気は最初から無かったらしい。
「他人事だな」
「実際他人事だからな」
返答が早い。
この男はきっと教師になるべくしてなった人間ではない。
少なくとも生徒に寄り添うタイプではなかった。
もっとも、否定できない辺りが腹立たしい。
校舎へ入る。
磨かれた床へ朝の日差しが落ちていて、窓際だけが妙に明るい。
その光景を眺めながら歩いていると、不意に先生が何かを思い出したように口を開いた。
「それにしても聞いてなかったのか」
「何を」
「名前だ」
名前。
その一言に首を傾げる。
すると逆に先生の方が意外そうな顔をした。
「魔法少女は基本そのままだぞ」
「は?」
「プライバシー保護。身元管理。色々だ」
なるほど。
そこでようやく繋がった。
だから誰も本名を呼ばないのか。
だからテレビでも、管理庁でも、学校でも。
「つまり」
「今日からお前はずっとノクスだ」
「そうなのか」
「そうだ」
今更ながら妙な話だった。
けれど不思議と違和感は無い。
以前の名前を懐かしむ気持ちは薄いし、管理庁の登録情報も、戦闘記録も、誰かの記憶の中にいる自分も、既にノクスという名前で統一されている。
考えてみれば当然だった。
「どうりで」
「ん?」
「告白されるわけだ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、先生が盛大に吹き出した。
「今気付いたのか」
「今気付いた」
つまりそういうことだ。
一般生徒から見れば、今日は転校生が来る日ではない。
現役魔法少女が編入してくる日だ。
しかも一人ではない。
ルミナ。
ステラ。
プリン。
そしてノクス。
テレビの向こう側にいた人間が急に同じ校舎を歩き始めたようなものなのだから、騒ぎにならない方がおかしい。
「四人揃ってだからな」
先生が言う。
「今頃校内掲示板は大変なことになってるぞ」
「聞きたくない」
「無理だな」
即答だった。
まだ何も始まっていないのに、胃だけが先に下校しようとしている気がする。
教室の前へ辿り着く。
見慣れない教室。
見慣れない扉。
その向こう側からは話し声が漏れていて、時折誰かの笑い声が混ざる。
普通の光景だった。
たぶん、普通の高校生なら。
「覚悟はいいか」
担任が面白がるように聞いてくる。
「帰りたい」
「まだ来たばかりだぞ」
「今なら傷は浅い」
「無理だな」
知っていた。
先生の手が引き戸へ掛かる。
容赦は無い。
数秒後には現実が待っている。
そして、扉が開いた。
ざわめきが止まる。
誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。
教室中の視線が一斉に集まる。
まるで探照灯だった。
しかも全部こちらを向いている。
戦場で敵意を向けられることには慣れている。
だが好奇心は慣れない。
というか質が悪い。
敵なら殴れば静かになる。
生徒は殴れない。
「今日から編入する」
担任が教壇へ立つ。
「自己紹介を」
逃げ道は閉鎖された。
仕方なく前へ出る。
床板が一枚鳴る。
その小さな音すら妙に大きく聞こえた。
全員見ている。
本当に全員見ている。
動物園の珍獣もたぶんこんな気持ちだろう。
「ノクスです」
短く言う。
「よろしく」
これ以上言うことはない。
名前を名乗った。
挨拶もした。
完璧だ。
百点満点である。
席へ戻ろうとした。
「質問いいですか!」
銃弾より早い。
「彼氏いますか!」
「いない」
「好きなタイプは!?」
「知らん」
「本物の魔法少女ですか!?」
「見れば分かるだろ」
「戦ったことありますか!?」
「ある」
「何体くらい倒したんですか!?」
「数えてない」
「サインください!」
「何でだ」
「握手でもいいです!」
「よくない」
終わらない。
終わる気配もない。
質問が飛んでくる。
右から。
左から。
後ろから。
気付けば前後左右を囲まれていた。
まるで記者会見だった。
いや、記者会見の方が秩序がある。
質問する側も興奮しているらしく、途中から誰が何を聞いているのか分からなくなっていた。
戦闘報告書を書かされる方がまだ楽かもしれない。
少なくとも報告書は途中で「好きな食べ物は何ですか」など聞いてこない。
ようやく担任が止めに入った頃には、一時間目の開始チャイムが鳴っていた。
席へ着く。
窓際の後方、悪くない。
景色が見える上、逃走経路も確保しやすい。
大事なことだった。
授業が始まる。
教師が話す。
黒板へ文字が並ぶ。
生徒達がノートを取る。
普通の学校。
普通の授業。
普通の光景。
そのはずなのに、妙に落ち着かない。
理由は簡単だった。
視線である。
前から。
横から。
斜め後ろから。
まるで観察対象にでもなった気分だった。
黒板を見る。
数秒後には誰かがこちらを見る。
ノートを開く。
また誰かがこちらを見る。
窓の外を見る。
やっぱり誰かがこちらを見る。
何なんだ。
そんなに珍しいだろうか。
珍しいのだろう。
知りたくなかった。
授業終了のチャイムが鳴った時には、アーク討伐を終えた後みたいな疲労感が肩へ乗っていた。
もちろん実際には何もしていない。
ただ座っていただけだ。
だが、人間の好奇心というのは時々大型アークより面倒臭い。
そんなことを考えながら午前中を乗り切る。
そして昼休みのチャイムが鳴った瞬間、自分がまだ現実を甘く見ていたことを思い知る。
「ノクスさん!」
「質問いいですか!」
「好きな食べ物は!?」
「休日は何してるんですか!?」
「魔法少女って普段何してるんですか!?」
「どれくらいアーク倒したんですか!?」
同じ質問はするな。
しかも授業前より増えている。
何故だ。
昼休みとは弁当を食べる時間ではなかったのか。
この学校の生徒は光合成でもしているのだろうか。
「肉」
「寝る」
「戦う」
「いっぱい」
半ば反射で答える。
だが焼け石に水だった。
むしろ勢いが増す。
人は餌を与えると寄ってくるらしい。
知らなかった。
勉強になった。
できれば二度と学びたくない知識だった。
そろそろ本気で逃げようか。
窓から。
いや三階だった。
却下。
そんな現実逃避を始めた頃。
教室の外が急に騒がしくなる。
波紋みたいにざわめきが広がった。
誰かが来たらしい。
それも相当目立つ誰かが。
不思議に思って顔を上げる。
そして、人混みの向こうで揺れる銀色を見付けた。
見覚えがある。
というか毎日見ている。
小柄な身体。
陽光を弾く銀髪。
そして、こちらを見付けた瞬間から一度も視線を逸らさないその顔。
「プリン?」
教室の入口に立っていた。
周囲のざわめきなんて最初から存在しないみたいに。
ただ一人、真っ直ぐこちらだけを見ている。
迷子になった子供が保護者を見付けた時も、きっとこんな目をするのだろう。
そのまま歩き出し、人混みが自然と割れる。
誰かへ向かっているというより最初から目的地が決まっている流星みたいだった。
止まらない。
逸れない。
一直線、そして数秒後には、当然のように目の前へ辿り着いていた。
教室中の視線が集まっているけれど、プリンは気にしていない。
気付いていないわけではない。
ただ、それ以上に優先順位の高いものがあるだけだ。
こちらを見上げる。
「ノクス」
「何だ」
「行きます」
開口一番それだった。
「どこへ」
「行きます」
「会話をしろ」
返答は無い。
代わりに制服の袖が引っ張られる。
ぐい、と遠慮の欠片も無い力だった。
周囲から小さな歓声が上がる。
嫌な予感しかしない。
「待て」
「昼休みです」
「そうだな」
「一緒に居ます」
「そうだな」
「約束です」
そこでようやく思い出した。
昨日の夜、不安そうな顔で何度も確認してきたことを。
登校は一緒。
下校も一緒。
昼休みも会える。
約束した。
確かにしたのだが。
「だからって迎えに来るのか」
「迎えに来ました」
悪びれる様子が無い。
むしろ少し誇らしげだった。
褒められると思っているらしい。
実際問題、叱る理由も見当たらない。
ただ、周囲の視線だけが死ぬほど痛い。
「可愛い……」
「何あれ」
「迎えに来たの?」
「恋人?」
「違う」
即座に否定するが、誰も聞いていない。
人間は聞きたいことしか聞かない生き物らしい。
また一つ賢くなった。
嬉しくない。
プリンはそんな周囲の反応へ興味を示さず、もう一度袖を引いた。
離す気は無いらしい。
その指先へ少しだけ力が入る。
急かすような強さではない。
逃がさないための強さだった。
あなたは小さく息を吐く。
「悪い」
周囲へ向かって言う。
「昼飯行ってくる」
「えー!」
不満の声が上がる。
まるでアイドルが途中退席するとでも言ったみたいな反応だった。
「午後もあるだろ」
「また来ます!」
「来なくていい」
「無理です!」
元気だった。
その元気を授業へ向けてほしい。
切実に。
そんなことを思いながら席を立つ。
するとプリンの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
本当に微かだった。
見逃しても不思議ではないくらい小さな変化。
けれど長く一緒にいれば分かる。
ああ。
待っていたのか。
迎えに来たかっただけじゃない。
ちゃんと来るか不安だったのだ。
言葉にはしない。
言える性格でもない。
だからこうして迎えに来た。
それだけの話だった。
教室を出る。
途端に空気が変わる。
今度は廊下の生徒達がこちらを見る。
「ノクスさんだ」
「あの子って」
「未登録の魔法少女だよね?」
「可愛い」
聞こえないふりをする。
慣れない。
たぶんこれからも慣れない。
隣を歩くプリンを見る。
相変わらず無表情だった。
けれど、袖を掴む指だけは離れない。
それどころか人が増えるたび、少しだけ距離が近付く。
半歩。
また半歩。
気付けば肩が触れそうな位置にいた。
そのくせ本人は何も言わない。
何も言わず。
何も求めず。
ただ離れない。
だから分かる。
たぶん怖いのだ。
知らない人間。
知らない場所。
知らない学校。
プリンは人間社会へ馴染み始めている。
けれど、まだ生まれて一年も経っていない。
昨日まで人の少ない家で暮らしていた子供を、いきなり祭りの真ん中へ放り込んだようなものだった。
そう考えると少しだけ申し訳なくなる。
「プリン」
「はい」
「疲れたか」
数秒の沈黙。
返事が無い。
代わりに、袖を握る力だけが少し強くなった。
それで十分だった。
あなたは小さく笑う。
「屋上行くか」
その瞬間、プリンが顔を上げた。
無表情で、いつも通りなのに何故か少しだけ明るく見える。
不思議なものだ。
「行きます」
即答だった。
さっきまでで一番早かった。
どうやら正解らしい。
階段へ向かう。
人の流れから離れるように。
ざわめきから逃げるように。
屋上へ続く階段は静かだった。
下の喧騒が遠ざかっていく。
それだけで少し気が楽になる。
隣を見る。
いつの間にか、プリンは袖ではなくあなたの手を握っていた。
まるで最初からそうだったみたいな自然さで。
本人は気付いているのかいないのか。
聞いてもたぶん答えないだろう。
だから何も言わない。
ただ、握られた指先だけが少し温かかった。
*
屋上へ出る。
その瞬間、肺の奥に張り付いていた空気が少しだけ軽くなった。
校舎の下では昼休みの喧騒が広がっているはずなのに、ここまで上がってくる頃には輪郭を失い、遠い波音みたいにぼやけている。
風が吹く。
あなたはフェンス際の日陰へ腰を下ろす。
隣ではプリンが小さく周囲を見回していた。
人がいないことを確認するように。
ようやく息ができる場所を探すように。
「よし」
指先へ魔力を集める。
淡い桃色の光が零れ、それが糸を紡ぐみたいに空中で形を作り始めた。
数秒後、現れたのは大きなハート型のクッションだった。
しかも無駄にふかふかしている。
「できた」
少しだけ胸を張る。
最近覚えた魔力操作だ。
戦闘には一切役立たない。
アークへ投げても傷はつかないし、防御力も無い。
だが気に入っていた。
理由は分からない。
たぶん可愛いからだ。
「ほら」
ぽんぽんと叩く。
「座れ」
プリンは素直だった。
言われるまま腰を下ろし、身体がふわりと沈む。
それから無言でクッションを見つめる。
じっと。
本当にじっと。
「どうだ」
「……可愛いです」
「だろ」
少し誇らしくなる。
褒められると嬉しい。
単純な話だった。
けれど、視線を上げた先でプリンの肩はまだ少しだけ固かった。
静かな屋上。
誰もいない空間。
それでも緊張だけは身体の奥に残っているらしい。
白い指先が制服の裾を握っている。
気付かないうちに皺が増えていた。
「プリン」
「はい」
淡い氷色の瞳がこちらを見る。
近くで見るたび思う。
綺麗な色だった。
凍った湖をそのまま閉じ込めたみたいな透明さがある。
「疲れたか」
返事はすぐに返ってこなかった。
代わりに風が吹く。
雪みたいな白髪が揺れる。
陽射しを受けた髪は銀というより白かった。
朝の新雪を削って糸にしたら、きっとこんな色になる。
「……少し」
小さな声だった。
その一言だけで十分だった。
知らない教室。
知らない生徒。
知らない視線。
人混みの中ではずっと袖を握っていた。
教室へ迎えに来たのだって不安だったからだろう。
言葉にしないだけで。
あなたは頭を掻く。
気の利いた慰め方なんて知らない。
だから。
「こっち来い」
「?」
小さく首を傾げる。
白い髪がさらりと揺れた。
雪の妖精が人間の真似をしているみたいだった。
あなたは隣を軽く叩く。
意味が分からないまま近付いてくる。
警戒も疑いも無く、当たり前みたいに。
だから。
「よいしょ」
そっと頭を支える。
「え」
気付けば白銀の髪が膝の上へ零れている。
プリンが固まる。
時間まで止まったみたいだった。
淡い瞳が大きく開く。
耳が少しずつ赤くなっていく。
「ノ、ノクス」
「昼休みまで頑張っただろ」
前髪を梳く。
指の間を流れる髪は、水より静かだった。
触れているというより光へ触れている感覚に近い。
「だから休憩」
ぽん。
もう一度。
ぽん。
ゆっくり頭を撫でる。
白い花弁へ触れるみたいに。
壊れ物を扱うみたいに。
優しく、慎重に。
プリンは何か言おうとする。
けれど言葉にならない。
代わりに身体から少しずつ力が抜けていく。
最初は固かった肩が。
張り詰めていた首筋が。
少しずつ。
春の日差しで雪が溶けるみたいに緩んでいく。
「よしよし」
思わず笑う。
「頑張ったな」
髪を撫でる。
「知らない人ばっかりだったもんな」
返事は無い。
けれど膝の上の身体が少しだけ近付いた。
寒い日に毛布へ潜り込むみたいに。
安心できる場所を確かめるみたいに。
言葉なんて必要なかった。
「無理しなくていいぞ」
指を髪へ通す。
「少しずつ慣れればいい」
プリンは黙ったまま聞いている。
ただ最初は強く握られていた制服の裾が、いつの間にか手の中から解放されていて。
閉じていた指先も緩んでいて。
その変化だけで十分だった。
しばらくして。
「……ノクス」
「ん?」
「落ち着きます」
風に攫われそうなくらい小さな声。
あなたは少しだけ笑う。
そうか、それなら良かった。
そう返そうとして。
やめた。
膝の上で目を閉じる姿を見ていたら、わざわざ確認する必要も無い気がしたからだ。
風が吹く。
白い髪が揺れ、睫毛へ昼の陽射しが落ちる。
まるで雪で作られた人形みたいな少女だった。
綺麗で。
儚くて。
少し目を離しただけで消えてしまいそうで。
だからもう一度だけ頭を撫でる。
子供を寝かしつけるみたいに。
大切な宝物を扱うみたいに。
ゆっくりと。
昼休みはまだ始まったばかりだった。
さて、昼飯はどうしようか。
適当に済ませても構わない。
けれど今のプリンを連れて人混みへ戻すのは少し気が引けた。
ようやく肩の力が抜けたところなのだ。
せっかく落ち着いた雪を、わざわざ嵐の中へ戻す必要もないだろう。
どうしたものか。
そんなことを考えた、その時だった。
屋上の扉が開く。
静かな空気へ差し込むように聞こえた声は、どちらも聞き慣れたものだった。
「いた」
「やっぱりここだった」
振り返ると、そこに立っていたのはルミナとステラだった。
二人とも手には弁当箱を抱えている。
どうやら最初から捜索していたらしい。
「何だ」
「何だじゃないですよ」
ルミナが小さく息を吐く。
呆れた顔をしているが、本気で怒っているわけではない。
「プリンを探してたの」
「教室行ったら居ないし!」
ステラも続く。
「たぶん屋上だろうなって」
言いながら二人の視線が自然と膝の上へ落ちる。
白い髪。
閉じた瞳。
あなたの膝へ身を預けたまま静かに呼吸する少女。
その姿を見た瞬間、二人の肩から同時に力が抜けた。
ようやく見付けたらしい。
探し物というより、心配事の方を。
「落ち着いた?」
ルミナがしゃがみ込む。
声が柔らかい。
まるで眠っている子供へ話しかけるみたいだった。
プリンは目を開く。
淡い氷色の瞳がルミナを見る。
それから小さく頷いた。
「はい」
その一言だけで十分だった。
ルミナも。
ステラも。
どちらも何も言わない。
ただ目元だけが少し緩む。
朝からの様子を見ていたのだろう。
知らない環境へ放り込まれたプリンがどれだけ緊張していたか。
二人には分かっていた。
少なくない時間を一緒に過ごしてきたから。
言葉より先に、沈黙の意味を知っているから。
「はい」
不意にステラが弁当箱を持ち上げる。
「ん?」
「お昼」
そこでようやく気付く。
四つある。
あなた。
プリン。
ルミナ。
ステラ。
最初から全員分だった。
「作ったのか」
「うん」
ステラが少しだけ胸を張る。
「ルミナと一緒に」
「へえ」
思わず感心する。
戦闘より面倒なことをしている気がした。
「言ってくれれば手伝ったのに」
するとルミナが肩を竦める。
長い青髪がさらりと揺れた。
「別に」
言葉は短い。
けれど。
「私たちがやりたかっただけ」
その声音は少しだけ照れていた。
「そうそう!」
ステラも笑う。
「ノクスに食べてほしかったし!」
そして。
「プリンにも」
ルミナの視線がプリンへ向く。
その眼差しは優しい。
雨上がりの空みたいに。
「少しでも元気になってほしかったから」
プリンが瞬きをする。
一度。
二度。
それから少しだけ視線を落とした。
雪みたいに白い睫毛が揺れる。
耳がほんのり赤い。
「……ありがとうございます」
小さな声だけが零れた。
ルミナは笑う。
本当に嬉しそうに。
「どういたしまして」
そして、そのまま頭へ手を置く。
撫でる。
ゆっくり。
慈しむように。
「頑張ったわね」
続いて。
「よしよし」
今度はステラだった。
便乗である。
躊躇も遠慮も無い。
気付けば両側から抱き寄せられていた。
白い髪が二人の腕の中へ埋もれる。
完全包囲だった。
「おい」
「捕獲!」
ステラが言う。
「逃がさない」
ルミナまで続く。
何なんだそれは。
そう思う。
思うのだが、当の本人は抵抗していない。
それどころか、身体の力は完全に抜けている。
居心地が悪いなら離れるはずだ。
離れない。
つまりそういうことだった。
まるで雪うさぎが巣へ戻ったみたいだった。
見ているこちらまで肩の力が抜ける。
「じゃあ食べましょう」
ルミナが弁当箱を開く。
蓋が外れる。
途端に香りが広がった。
卵焼き。
唐揚げ。
彩りの野菜。
小さな隙間まで綺麗に埋められていて、どう見ても朝から相当手間を掛けている。
「美味そうだな」
「でしょ」
ステラが得意げに笑う。
「結構頑張った」
「私も手伝ったわ」
ルミナも珍しく誇らしげだった。
その時。
「プリン」
ステラが箸を持つ。
「はい」
「あーん」
迷いが無い。
当然のようだった。
プリンも当然のように口を開く。
「あー」
ぱくり。
数秒。
静かに咀嚼する。
そして。
淡い瞳が少しだけ見開かれた。
冬空へ朝日が差し込むみたいに。
分かりやすい。
「美味しいです」
即答だった。
その瞬間。
ステラが勝ち誇った顔をする。
「ほら!」
「まだあるわよ」
今度はルミナだった。
箸が差し出される。
「あーん」
ぱく。
また食べる。
幸せそうだった。
頬は緩まない。
大きく笑ったりもしない。
けれど分かる。
白い睫毛が少しだけ上がっていて。
食べる速度が少しだけ早くなっていて。
何より。
さっきまであれほど固かった身体から、緊張の欠片も消えていた。
あなたはその光景を眺める。
ほんの少し前まで、人波の中で袖を離さなかった少女。
今は二人に囲まれながら弁当を食べている。
静かで。
穏やかで。
まるで最初からここが居場所だったみたいに。
学校は面倒だ。
人も多い。
騒がしいし。
朝から胃も痛い。
これから先もきっと色々あるだろう。
けれど。
こういう時間があるなら。
案外悪くないのかもしれない。
風が吹く。
笑い声が混ざる。
空は青い。
あなたは小さく息を吐き、ようやく自分の弁当へ箸を伸ばした。
四人で弁当を囲む。
それだけのことだった。
けれど朝から続いていた騒がしさが嘘みたいに遠い。
風が吹き、フェンスが小さく鳴る。
青空には雲がゆっくり流れている。
誰かの笑い声も。
好奇心だらけの視線も。
今はここまで届かない。
卵焼きを口へ運ぶ。
ほんのり甘い。
たぶんルミナだ。
次に唐揚げを食べる。
味付けが少し濃い。
こちらはステラだろう。
分かりやすかった。
「美味いな」
「当然」
ルミナが即答する。
少しだけ胸を張る姿は珍しい。
普段は余裕そうにしているくせに、褒められると意外と分かりやすい。
「私も頑張ったからね」
ステラも負けじと笑う。
その様子がおかしくて少し笑ってしまう。
すると二人とも満足そうな顔をした。
単純だった。
たぶん自分も同じだが。
視線を横へ向けると、プリンは相変わらず二人に挟まれていた。
完全に捕獲され、逃走経路は無い。
本人も逃げる気が無い。
「プリン」
「あーん」
「あー」
ぱくり。
もぐもぐ。
また食べる。
まるで餌付けだった。
雪の妖精を保護した結果、周囲が甘やかし始めたみたいな光景である。
何なんだこれは。
けれど、淡い氷色の瞳は少し柔らかい。
頬も僅かに緩んでいる。
本人は気付いていないだろう。
だが朝から見ている側には分かる。
あれだけ固かった身体から緊張が消えている。
だから何も言わない。
今くらい甘やかされてもいいだろう。
「そういえば」
ふと思い出す。
「そっちはどうだったんだ」
聞くと、三人とも微妙な顔をした。
見事なくらい同じ顔だった。
思わず笑いそうになる。
「大変だった」
最初に口を開いたのはルミナだった。
ため息混じりである。
「質問が多いの」
「私も」
ステラが頷く。
「休日何してるんですか」
「好きな人いますか」
「戦闘って怖くないんですか」
「どうやって強くなったんですか」
「ずっとそんな感じ」
途中から物真似みたいになっていた。
どうやら本当に大変だったらしい。
「なるほど」
頷く。
「どこも同じか」
「そっちも?」
「酷かった」
即答する。
ルミナが笑う。
ステラも笑う。
戦場を生き延びた兵士同士みたいな空気になっていた。
敵は生徒だが。
「プリンは?」
今度はそちらを見る。
プリンは少し考える。
答えを探すみたいに。
数秒。
「触られました」
「何を」
「髪」
あの髪は目立つ。
むしろ目立たない方がおかしい。
窓際へ立っているだけで光を反射する。
雪そのものが歩いているみたいなものだ。
「可愛いとも言われました」
「それも納得」
ルミナが頷く。
ステラも頷く。
満場一致だった。
当の本人だけが不思議そうな顔をしている。
「あと」
プリンが続ける。
ほんの少しだけ眉が寄った。
「知らない人に抱き付かれました」
「それは駄目だろ」
思わず即答する。
ルミナも頷く。
ステラも頷く。
三票。
満場一致だった。
「逃げました」
「偉い」
「頑張ったわね」
頭を撫でられる。
また撫でられる。
今日だけで何回目だろう。
プリンは抵抗しない。
むしろ少し目を細めた。
猫か。
そんなやり取りを続けながら時間が流れる。
笑って。
話して。
弁当を食べる。
ただそれだけだった。
戦いも無い。
任務も無い。
誰かが傷付くことも無い。
穏やかな時間だった。
だからだろうか。
不意に、小さな違和感が引っ掛かった。
「……?」
顔を上げると、それは視線だった。
誰かに見られている。
敵意ではない。
警戒でもない。
もっと弱くて。
もっと臆病なもの。
視線を辿ると、屋上の出入り口の扉の陰だった。
誰かいる。
小柄な少女だった。
淡いミントグリーンの髪。
白と緑を基調にした制服。
春の若葉をそのまま人の形へしたみたいな色合い。
扉から半分だけ顔を覗かせている。
いや、半分隠れているつもりなのだが、実際には全く隠れられていない。
髪も見えている。
肩も見えている。
制服も見えている。
隠密性能は壊滅的だった。
けれど本人だけは必死らしい。
こちらを見ている。
正確には。
あなた達四人を。
そして何故か、一番長く視線が止まっているのはプリンだった。
笑っている姿を。
弁当を食べている姿を。
静かに見つめている。
「……」
目が合う一瞬、少女の肩が跳ねる。
小動物が天敵を見付けた時みたいに。
びくりと。
それから慌てて扉の陰へ隠れようとする。
だが、全然隠れていない。
むしろ慌てたせいで余計に目立っている。
「……何してるんだ?」
思わず呟く。
すると。
「ん?」
ステラが振り返る。
「誰?」
ルミナも気付く。
プリンもそちらを見る。
視線が集まる。
少女はさらに固まる。
逃げたい。
けれど逃げたくない。
近付きたい。
でも怖い。
そんな感情がそのまま身体へ出ていた。
まるで餌を欲しがる野良猫みたいだった。
あと一歩が踏み出せない。
だから、あなたは何となく思う。
たぶんあの子は自分達へ用がある。
しかも、その用事はきっとプリンに関係している。
あなたは立ち上がった。
風が制服の裾を揺らし、昼下がりの陽光が屋上へ柔らかく降り注いでいる。
その穏やかな景色の中で、出入り口の傍に立つ少女だけがどこか場違いだった。
隠れているつもりなのだろう。
けれど、蔦の陰から覗く髪も、こちらを盗み見る視線も、あまりにも分かりやすい。
逃げたいけど、気になる。
そんな相反する感情が小さな身体の中で喧嘩しているみたいだった。
あなたが近付くたびに少女の肩は小さく震え、下がろうとしては踏み止まり、踏み止まっては視線だけを泳がせる。
妙だなと思った。
本当に怖いなら、とっくに逃げているはずだった。
「どうした?」
声を掛ける。
少女の身体がびくりと跳ねた。
胸元で組まれた指先がきゅっと強く絡まり、言葉になれなかった感情だけがそこへ集まっているように見える。
「ぁ……」
唇が動く。
けれど続かない。
声は生まれる前に萎んでしまい、風の中へ溶けていく。
かなり重度の人見知りだな。
あなたはそう結論付けた。
だからしゃがむ。
見上げ続ける首が疲れないように。
警戒している猫を追い詰めないように。
目線を合わせる。
近くで見ると、なおさら小さかった。
若葉を溶かしたような淡い髪。
森の奥に差し込む木漏れ日を閉じ込めたような瞳。
どこか儚くて、少し目を離したら風と一緒に消えてしまいそうだった。
「大丈夫」
ゆっくり言う。
少女の睫毛が震える。
「落ち着いて」
視線が揺れる。
逃げ場を探すように。
けれど最後には、恐る恐るあなたへ戻ってくる。
その様子が妙に小動物めいていて、あなたは自然と笑ってしまった。
「ゆっくりでいいから話してごらん」
そう言って頭へ手を置く。
さらり、柔らかな髪が指の間を流れた。
安心させるように。
子供をあやすみたいに。
優しく撫でる。
その瞬間だった。
少女の時間が止まった。
本当にそう見えた。
風だけが吹いている。
木々が揺れている。
なのに彼女だけが世界から切り離されたみたいに動かない。
若葉色の瞳が見開かれる。
頬へ色が差す。
白かった肌へ春の夕焼けみたいな赤が広がり、それは瞬く間に耳まで染め上げていった。
「……?」
熱でもあるのだろうか。
そんなことを考えている間にも少女の顔はどんどん赤くなっていく。
何か言いたそうなのに言葉にならない。
息だけが浅くなっていく。
胸の奥へ閉じ込められた感情が行き場を失って暴れているみたいだった。
「ぁ……」
小さな音。
吐息より軽い声。
そして、限界だった。
ぽふっと、花が咲くみたいに少女はその場へ崩れ落ちた。
「え」
軽い。
気絶ではない。
だが、腕の中の少女は真っ赤なまま動かない。
「どうしたんだ?」
本気で分からなかった。
何かまずいことをしただろうか。
考える。
分からない。
だから助けを求めるように振り返る。
そこで初めて気付いた。
空気が変わっていた。
日差しは変わらない。
風も穏やかなままなのに、背筋だけが妙に冷たい。
ルミナが微笑んでいた。
綺麗だった。
湖面みたいに静かな笑顔だった。
静かな湖ほど深さが分からない。
「ノクス」
優しい声だったから、余計に怖い。
「何」
「初対面の女の子にそんなことするんだ」
責める口調ではなく、事実を確認しているだけ。
なのに胃が痛い。
隣ではステラが笑っていた。
楽しそうに、心の底から。
けれど猫が獲物を追い詰める時も似たような顔をする。
「すごいね」
肩を震わせながら言う。
「初日で二人目だよ?」
「二人目?」
「告白された子と、この子」
数えられた。
何故か数えられた。
そして、一番後ろ。
プリンがいた。
何も言わない無表情で、いつも通り。
けれど、それが一番怖かった。
逃げ場を塞ぐみたいに、真っ直ぐこちらを見ている。
「プリン?」
呼ぶ。
返事はすぐだった。
「ノクス」
「うん」
数秒、沈黙。
それから。
「私には頑張ったご褒美だったのに」
静かな声だった。
昨日の夜、不安で眠れなかった彼女へ贈ったおでこへの小さなキス。
あれを思い出した瞬間、あなたの思考が止まる。
「え」
「知らない人には頭を撫でるんですね」
平坦だった。
だからこそ重かった。
陽射しの中で、腕の中には真っ赤な少女。
目の前には怒っている三人。
そして、あなただけが本気で何が悪かったのか分からなかった。
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