いつも通り、目が覚めた。
寝起きのぼんやりした目で周りを見回す。時計の場所を探して目が動く。
ずっと同じ場所にある時計を探してしまうのもいつものことだ。何故か寝起きは時計を見失う。
6時半。
いくら遅く寝ても早く寝ても、大体5時から6時半にかけて目が覚める。
だから目覚ましを使ったことがない。
布団から出てテーブルに肘をつく。欠伸をして煙草を一本吸う。昨日の残りのコーヒーを飲む。
ぼんやりTVをつけようとコントローラーを探し、見当たらず、眉を顰めてTVを見たらば、TVがなかった。
「…は…?」
いや、あるにはあるが随分小さくて前時代的なTVだ。
こんなものは買った覚えがない。
大事な給料を家電のアンティークに注ぎ込む趣味はないのだから、こんなものがある由もない。
「…大変だ。TVが退化した…」
呟いてテーブルの上に置いた眼鏡をかける。TVを見直す。
「……」
TVはTVだ。
但し、私の血肉を費して買った51型4kの目に優しいやら厳しいやらの矢鱈滅多ら美しい画素を誇る一品ではない。
あるのは、何か、丸っこい昔懐かしいTV。
「…ちょっとちょっとちょっとちょっと」
立ち上がり、TVに触れる。ちゃんと触れる。寄りかかってみる。ちょっと動く。何なら傾く。
「…うん?何だ?ちょっと待て。考えさせてくれ」
TVを撫て眉間を揉み、煙草を灰皿に押し付けて消す。
チラリとTVを見る。51型は戻らない。アンティークが鎮座ましましている。
よしよし落ち着け、間もなく出勤だと腕組みして頷きながら台所に入った瞬間、目の前に木片と土煙がブワッと吹き込み、バキバキと小気味よく台所が半壊した。
「…は?え?…は?」
土埃の中に、大きな人影がある。随分大きい。尋常でない。何もかも。
すとんと腰が抜けた。
「…あの…ど…どちら様…?」
「…ああ、失礼。人がいたとは思いませんでした」
慇懃無礼が擬人化して話してるような、全く悪いとは思っていなさそうな声がして、木っ端と埃の中から胡乱な大男が現れる。
見覚えがある。見覚えがあるがあり得ない。
しげしげと目の前の大男を見上げる。
「…干柿鬼鮫…」
男が癇に障ったように眉を上げた。
「如何にも私は干柿き…」
何とこれがリアルな名乗り。
鼻血が出るかと鼻翼を摘み、盆の窪を叩いて大男を眺める。
青い肌、頬骨に走るエラのような筋、尖った歯、全然愛らしくない丸い瞳。
知っている。この人を。だとすれば多分次はこれだ。
「以後お見知りおきを?」
男が呆れ顔をした。
「…しませんよ。なんですが、あなたは」
「しませんか。そうですね。流石にそうですよね。用もないのに名乗りはしない…」
いや待て。うちの心臓部たる台所を壊しておいて用があるもないも、ないだろう?
推しだ。この人は私の大好きな2次元の人だ。びっくりしちゃう。何だコレ。
でもだがしかし。
「…台所…」
どうしてくれる?うちの心臓部。
「はぁ?」
多分干柿鬼鮫だろう男がますます眉を上げる。
その顔、その姿、その威風。威圧感が凄い。人外みも強い。いやいやいやいや、格好よろしい。干柿鬼鮫ここにあり。
明け方に良い夢を見ている。これは所謂明晰夢。
ならいいか。台所くらい。良い夢だ。ありがとう。私の海馬。頑張った。私の扁桃体。よくやった。私の前頭葉。
「…いえ、何でもありません」
「…何を言っているのかわかりませんが、私はあなたに呼び捨てされる覚えも理解を乞う必要もありませんよ」
「ご尤も。ご尤もですが、私にも言い分があります」
「聞きましょう」
「私は平凡な女です」
「…言うまでもないように思いますがそれで?」
「私はいつも通り、朝目を覚まして仕事に行こうとしていた」
「確かにそういう時間帯です。それで?」
「それでと聞くその思考回路が最早平凡な私からしてどうにかしていますが、あの、干柿さん?」
「気安く呼ばないで下さい」
「えぇ?…では干柿鬼鮫」
「…私は私であなたの思考回路を疑いますが、まあいいでしょう。で?何ですか?」
「多分これは私の夢だと思うのですが」
「…ああ、そうですか。あなたがそうだと言うならそれで一向に構いませんよ、私は」
「夢だとして」
「はあ、夢だとして?」
「どうせならもう少し尋常な夢をみたい」
「…はあ、そうですか」
「あなたは私の推しです」
「おし?何ですか、それは」
「いいでしょう。夢だろうから有り体に言います。私はあなたが大好きです」
「…帰っていいですか」
「帰って下さって一向に構いません。ですがもしこれが私の夢ならばもう少し私に忖度頂いても悪くないかと思わないでもな…」
言いかけた瞬間、台所の残り半分が吹き飛び、私は干柿鬼鮫に横ざまに抱きかかえられて目を回した。
「な何々何ィいいィィい!!!こんだ何だァあああァ!!!!」
「やかましい!黙りなさい!」
どぅんという鈍い音がして、さっきまで立っていた台所の入口がバラバラと崩れ、推しの腕に雑に攫われた私は涙と鼻水を必死で堪えながら我が家の崩壊を見やった。
愛しの我が家がぶっ壊れている。
愛しの推しに小脇に抱えられている。
流れ行く視界に自分の鼻血の帯があっても何ら不思議ない状況に、私はもう黙って身を任せた。
干柿鬼鮫は汗臭く、血腥い。手がデカい。身体が堅い。
抱えられてそれが生々しく伝わってきた。
台所の残り半分を吹き飛ばしたのは三人の死に体の内の誰かかも知れないし、その仲間か、もしくは全く関係ない誰かかも知れない。
誰かを狙って傷付けているか、誰かに狙われて傷付けられようとしているのか、兎に角物騒この上ない事態が、私の台所を道連れに展開している。
こういう土壌が常態として、我が推し干柿鬼鮫にはある。
てことは、それを理解している私の夢がこう展開するのは至極当たり前だ。
だがしかし。意外に優しい。抱き抱えて庇ってくれるとは。
「あ!ぅわッ!!」
そう思った瞬間、荷物か何かのように勢いよくどさっと投げ出され、私はゴロゴロ転がって受け身らしきものをとった。
「…おぉう…。人間やれば出来るもんだな…。これが受け身…痛い…」
横になったままぼんやり呟く私の目の前で、干柿鬼鮫が誰かと斬り合っている。
成る程そりゃ投げ出される。私を小脇に抱えたまま斬り結ぶなんてことは、流石の我が推しもしかねるだろう。安全の為にぶん投げられたのだ。有り難く思おう。
しかし律儀な夢だ。きちんと身体が痛い。
私は眉根を寄せて目を閉じた。
斬り合いも律儀にリアルだ。見たくないなら目を閉じるしかない。
夢で目を閉じるってのは、何だか不思議な感じがする。そもそも目を閉じて寝ているものが、更に"目を閉じてたこと"にして、"瞼の裏の暗さ"を演出しているわけだから、本当に律儀な夢だ。
こんな真面目な夢を見るとは、私も根は真面目に出来ているのかも知れない。
寝転がって目を閉じ、考え込んでいたら、どさりと何かが被さってきた。
重い!そして、臭い。鉄臭い。
「うわ!な…」
目を開けると、腹の上に血塗れの誰かが倒れ込んでいた。
鉄臭いのは血だ。さっき干柿鬼鮫に感じたものより、臭いは薄いが量が多い。出血量が半端ない。
「ぅぎゃッ!!!し…死ぬんじゃない、この人⁉ヤバいヤバいヤバい!!!」
反射的に身体を起こして腹の上の人を動かそうとして一時悩む。無闇に動かしたらますます出血する?いや、待て、それじゃ何も出来ない。兎に角何処から出血してるか見ないことには…
「…ふんぬ…ッ」
デカくて重い身体を動かし、仰向けにしてやると右の肩口から左の脇腹に向けて、掻き毟ったようなひどい傷が露わになった。
「…ちょ…ぅえ…これは…何を何処から…ぅおえ…ッ、手をつけ…つけ…」
つけれるかぁ!!!!
無残な傷口から溢れる血を両の掌で無為に押さえつけたその視界の先に、黒い爪、青い肌に地下足袋だかサンダルだか判断しかねる履物を履いた足が映った。
目を上げると血の滴る鮫肌を肩に担いだ干柿鬼鮫がこちらを見下ろしている。
「…あなた、この人のお身内ですか」
「はいぃ?」
突拍子もないことを聞かれて、目が吊り上がった。うちの家系には人のうちの台所をぶっ壊して鮫の化け物に襲われるような突き抜けた身内はいない。
「…そんなことありそうに見えます?」
「なら何故その人を庇うのです」
「かば…庇うというより、これは救命処置…」
いや、救命処置にもなっていない。ただ動揺して無為な真似をしているだけだ。言い淀んだ私に干柿鬼鮫は皮肉げに笑った。
「そうですね。救命処置にもなっていませんよ、それは」
そう言われても、今更傷口から手を離したら益々血が溢れ出そうで、怖くて動けない。
黙って肉の引き千切れた無残な傷口を眺める。血の臭いが強くなってきた。喉の奥から目覚めに飲んだコーヒーが込み上げてくる。飲み下したら咳が出て、鼻水が垂れそうになる。
これは…これはひどい夢だ。早く目を覚まさないと夢に疲れて仕事にならない。
気が遠くなってきた。これは多分目覚めの兆し。
良かった!
私はふらりと立ち上がって、血に塗れた誰かを跨ぎ、干柿鬼鮫の前に立った。
…いや、まあデカい。160そこそこの私から見て、頭ひとつ半はデカい。195センチの威力がリアルに再現されている。
ありがとう海馬。ありがとう扁桃体。よくやった前頭葉。
「…何ですか?その人を助けなくていいんですか?」
ちょっと面白そうに干柿鬼鮫が目を眇めた。"大変で死にそうな人"を見捨てて、自分に向き合った私が何をするのか、皮肉に面白がっているのだろう。
ふ…。馬鹿め。これ以上夢に振り回されると思うなよ?
間もなく私は目覚める。で煙草をもう一本吸って顔を洗い、コーヒーを淹れてちいかわ占いを見て出勤する。気が遠くなってきているのは目覚めの兆し。
私は血塗れの手を伸ばして干柿鬼鮫を抱き締めた。
「…よし。してやったり」
幅が厚くて手が周りきらない。顔に触れる黒い外套は堅くて、あまり気持ち良くはない。そしてやっぱり、血腥い。
それでもしてやったりだ。私は今推しを抱き締めている。夢を制覇してやった。あんまり嬉しくないのが何だけれど、感激はひとしお。目覚めてからじわじわ嬉しくなってくるかも知れない。この感触や臭い、声を思い出して。
「…は?何ですって?」
私の戯言を律儀に聞き返し、干柿鬼鮫は鮫肌を地面に着いて片手で私の腰に手を回した。私が倒れかかったからだ。これは嬉しいサービスタイム。
視界が掠れた。
やれやれ。やっと目が覚める。最後に、可愛げのない丸い瞳と目が合った。あからさまに迷惑そうな、でも少しだけ困惑した目色。
干柿鬼鮫だなぁ…。
そう思って笑ったら、そこで意識が途切れた。
初めての投稿です。お目通し下さり、ありがとうございます。