「感謝なんか要りませんよ。それより先ず名前を教えなさい」
ぐいと突きつけるように言われて詰まった。
何故か名乗りたくない。名乗ればここに居場所が確定してしまうようで、何となく怖い。
ナンセンスだとは思うけれど、"何となく"に抗い難い。
万一仕事を始めるにしても偽名を使おうと思っていた。
だからここで偽名を言ってもいい。けれど今それをするのはアンフェアだ。鬼鮫は負債の対価、その手始めとして名乗りを求めている。
「…わかりました。ヒントをあげましょう」
「…は?」
また干柿鬼鮫の間抜けた声。
申し訳ない。また間抜け声を出させてしまった。
だけど私もそれなりに必死だ。
私はこの男をはぐらかし続けなければならない。
お家が一番。
私は私の世界に帰りたい。オズのドロシーみたいに。
「私の名前は、あなたの世界では多分ちょっと珍しいものです」
鬼鮫が目を眇めた。
「…成る程」
「漢字で二文字。…一字はあまり名前に使われてないんじゃないかな…多分。だから比較的珍しいと思うんだけど」
「ほう」
「以上です」
「…お粗末なヒントですねえ…」
「台所を直す手筈をして下さったら、第二ヒントが出ます」
「その前にひとつ。あなたにとってその名前は珍しいものですか?」
鬼鮫の質問に私は眉を顰めた。
私にとって私の名前は珍しいものか?
変なことを聞く。
それが何のヒントに…。
考えかけてガツンと殴られたような衝撃を覚えた。
"あなたの世界では"
私はさっき、そう口走った。
鬼鮫は聞き咎めている。だから目を眇めた。
"あなたにとって珍しいか"
これは"あなたの世界にとって"珍しいかどうかの探りだ。私の反応を見て私の失言の根幹を探ろうとしている。
「…わたしの"地元"では珍しくはありません。ただちょっと古風の類に入るかも知れない」
飽くまで淡々と、けれど最早鬼鮫の目は見れず、卓袱台のマグと湯呑みを手を取って私は忙しく瞬きした。
「…そうですか。わかりました。考えてみましょう。因みに私があなたの名前を言い当てたら、どういう褒美が出るんですかね?」
背中に人の悪い、この場を面白がっている声がぶつけられた。
…おっとぉ…。抉ってくるねえ…。
マグと湯呑みを並べて卓袱台に置き、歯噛みを済ませてから振り返る。
「名前が知れるだけのことですよ?それ以上でもそれ以下でもありません。何ならあなたの求める私の奇行の対価が私の名前でも私は構いませんよ?」
「成る程。それは詰まらない。では黙ってあなたの名前を考えてみましょう。…珍しい名前をね」
「…さぁ?私がそう思うだけで、大して珍しいものではないかも知れませんよ?何せつい最近"越してきた"ので、"この辺り"には不案内なんです」
「ああ、確かについ最近越してらしたんでしょうね。先にも言いましたが、数日前にはこの家はここになかった」
「私は越して来ただけなので、"その前のこと"はわかりません。この家は借家なんでね。詳しい話が聞きたければ家主に聞いて下さい」
じわじわ背中が冷えてきた。
この夢が。
夢だとして。
覚めないならば勢いだけで何もかも乗り切ることはできない。
万一。
万が一現実か何かだとしたら。
慎重に生きなければならない。妙な妄想を語り奇行に走る人間は、受け入れ難いものだ。
干柿鬼鮫といればいるほど、状況が重たくなっていく気がする。
早く帰ってくれないだろか。
これじゃご飯も食べられない。このまま食事の支度を始めた日には干柿鬼鮫にご飯食べます?のひと声をかけざるを得ない状態になるのは目に見えてる。
それは避けたい。
外は薄っすら橙色、つまり夕刻が近い。
思いの外長く意識を失くしていたらしい。
ここでふと気が付く。
ー夢の中で意識が失くなるなんてことあるのか?
あのとき目が覚めなかったのは何でだ?
ご飯を食べて、風呂に入って、寝る。
そしてまた、ここで目覚める?
そんなディティールが生々しい夢があるか?それじゃ夢に生きてることになってしまう。
終わらない夢だ。