「…あの…」
「何です?」
「そろそろお引き取り頂いてよろしいでしょうか?…私、明日から忙しくなりますので」
冷や汗をかきながら呟くように言った私を、干柿鬼鮫は黙って見ている。
「…忙しくなる?何が?」
暫く間をおいてから、問われた。
仕事を探すんだよ、仕事を!
ああ、でもその前に人のいる場所、街場への道を知らなくちゃならない。
誰に聞く…って、目の前のこの男に聞くしかない。
凄く嫌だ。いくら引っ越してきたばかりだとしても街への行き方も知らないなんてのはおかしすぎる。また突っ込まれる。
手持ちの現金は幾らくらいあった?
失くなってなければさっきの小箪笥に五万、財布に二万弱、車に五千円くらいはあった筈だけど…。
「うわぁ!車!!!」
思わず頓狂な声が出た。
卓袱台に勢い良く手をついて立ち上がろうとしたら、卓袱台が梃子の原理でぐんと跳ね上がり、顔面に迫ってきた。
「…く…ッ」
咄嗟に目を閉じて歯を食い縛る。
「……あれ?」
衝撃も痛みもない。
身体から力を抜いて目を開けると、顰め面の鬼鮫が板面に片手をかけて跳ねた卓袱台を引き止めていた。
「何をやってるんですか、あなたは。危ないですよ?」
「…あぁ…。すいません。ありがとうございます…」
へたへたと腰が抜けそうになったが、踏ん張って踏み止まる。
「ちょっと失礼」
車が駐車している場所に面した窓に歩み寄って、表を見た。
馬がいた。
「…ぅうわ…。どうしろってんだい、これェ…」
杭に繋がれた馬が、呑気に足元の草を食んでいる。小柄な黒馬だ。
黒のサンバーディアスが黒い馬に化けた。
…車くらい…ッ、車くらいあって欲しかった…!
こ…この忍者中心のニンニンワールドめ…ッ!
窓辺に手をついてがっくり肩を落とす。
馬の世話なんかしたことないし、馬に乗ったことなんかほとんど無い。体験乗馬を何回かやったくらい、馬とは距離のある人生を歩んできた。
なのに何コレ?流石に忖度な過ぎじゃないか?
…いや待てしかし。
視点を変えれば馬肉という生きる非常食を手に入れたとも言える。
私に馬が捌けるかどうかと言ったら今のままでは絶対無理だが、スキルを磨くべきだろう。
「…あなたの馬ですよね、あれ?」
傍らに干柿鬼鮫が立った。私と同じく窓枠に手をついて表を眺める。近い。思っていたより気安い人間なのか、干柿鬼鮫。止めて欲しい。
「名前は?」
聞かれて溜め息が出た。まだ言うか。
「それは自分で考えて下さい」
「馬の名前まで当てなきゃならないんですか」
ああ。
馬の名前か。
「桜鍋馬刺です」
「サクラナベバサシ?御大層な名前ですねぇ…」
「短く馬刺と呼んで下さい」
「馬とまで関わる気はありませんよ」
じゃあ聞くなよ。名前なんか。
年式は古いけれど大事に乗ってきた愛車だったのに…。
せめて自転車になって欲しかった…。
泣きたくなってきた。日も暮れ始めていよいよ心細い。
鼻が痛くなって来て、慌てて咳払いして鼻水を啜る。
身近に在る人肌に縋りたくなるから、あっちに行って欲しい。いや、私があっちに行けばいいんだな。
すぐ側に立つ鬼鮫から離れようと、窓枠から手を離し、でもぼんやり立ち竦んで馬を眺める。
干柿鬼鮫が帰ったら、ご飯を作る前にちょっと泣いておこう。
空気抜きしないと壊れそうだ。
目を瞬かせて涙を堪えながらまた鼻を啜ったら、とんと肩を叩かれた。
「念の為言っておきますが、今夜はここで寝ない方がいいですよ。私が始末した連中の仲間が現れないとも限らない。妙な誤解を受けて襲われるのは嫌でしょう?台所も壊れているし、不用心だ。まああなたがどうしようとあなたの勝手ですが、あなたは私に貸しがあることをお忘れなく。くれぐれも不用意に死んだりして貸しを宙吊りにしないで下さいよ」
干柿鬼鮫が馬刺と私を見比べながら滔々と言った。
「……」
言い返す気力もない。
黙って手を伸ばして、干柿鬼鮫の腰に両手を回し、固くて血腥い黒い外套に額を着けた。
物騒だが人肌だ。
涙が滴り落ちた。鼻水も滴り落ちる。
「…まあ明日には遺恨なく始末がつきますから、安心しなさい」
突き放すでも受け止めるでもなく、干柿鬼鮫は静かに言って、それきり黙った。
私は暫く声もなく泣き、その間鬼鮫はひと言も話さなかった。