世は全て事もなし   作:エンギウック

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第12話

日が暮れた。

 

表で馬刺がまだ草を食んでいる音がする。

 

ここらへんの植生が馬刺のせいで変わりそうでちょっと怖い。

 

目の前で干柿鬼鮫が、横手土産の湯呑みでコーヒーを飲んでいる。気に入ったらしい。マグを勧めたのに固辞された。

 

マグも湯呑みも卓袱台がひっくり返りそうになったとき、床に落ちたものをこの人が拾い上げてくれていた。

 

申し訳ない。

ありがとう。

 

私の顔面もマグも湯呑みもあなたに頭が上がらない。

 

私は本当に馬鹿だ。

また負債を増やしてしまった。

 

さんざっぱら泣いた私が後退りしたとき、干柿鬼鮫は静かに言った。

 

「貸しが増えましたねえ」

 

何も言えなかった。

 

黙って台所の廃材で火を起こし、メスティンを引っ張り出して米を炊き、健在していた家庭菜園から浅葱と独活を引っこ抜いて味噌汁を作り、オイルサーディンを缶のまま遠火にかけてそこらに生えていた蕗の薹の葉を刻んで振った。

 

非常時用のリュックから皿や割り箸を出して、出来た料理を鍋ごと缶ごとどんと卓袱台に置くと、勝手に本棚から出したをなめとこ山の熊を読んでいた鬼鮫が顔を上げて、本を閉じ、黙って食べ始めた。

 

…この人が宮沢賢治を読むのは如何なものか。

 

自分も黙って食べながら、考える。

 

思想的によろしくない気がする。

 

ご飯が凄く美味しくて悲しくなる。リアルだなぁ。

 

食べ終わった鬼鮫に丁寧に淹れたコーヒーを出し、表に出る。

 

馬刺に挨拶しようと思ったからだ。

 

恐る恐る近付いた馬刺は大人しく、何故か私に懐いている様子を見せた。

 

愛車が化けたものだからかな。

 

ただ可愛く思って、鬣を指で漉き、首に顔を埋めた。

 

…馬刺に抱きついていれば負債は避けられたのでは…?

 

それくらい安心した。温かい。柔らかい。優しい。

 

「お前、今日から馬刺だからね?…いや、いつでも馬刺か…。まあ、暫くよろしく頼むよ?」

 

馬刺がいよいよ馬刺にならずにすむよう願いつつ、家に入ると玄関の上がり框に鬼鮫が腰かけていた。

 

「逃げ出したかと思いましたよ」

 

電気も点けず、暗闇で言った干柿鬼鮫に背筋が伸びた。

 

「何で自分の家から逃げ出さなきゃならないんです?ちょっとどいて下さい。中に入れない」

 

鬼鮫は黙って腰を上げ、居間に戻って行った。

 

その後を追い、居間に入ってまたコーヒーを入れる。

 

ーそうして、今に至っている。

 

何でまだここにいるのか。

 

向かいあってコーヒーを飲みながら考える。

 

考えて、あまり頭が回らなくなり始めているのに気付いた。

 

眠い。

 

猛烈に。

 

鬼鮫を見る。

目があった。向こうもこっちを見ていた。

 

…いやちょっと…。この人、凄い重たいんだけど。

 

害意は途中から感じなくなった。でもその分何を考えてるのかわからなくなった気がする。

 

「干柿さん」

 

初めて、でも自然に名前を呼び掛けた。

推しの名前ではなく、今目の前にいる男の名前を。

 

「泊まっていくなら、ここで寝て下さいね。布団は押し入れに入ってますから、ご自分で敷いてどうぞ。泊まらないなら、鍵をかけて行って下さい。鍵は玄関の靴棚の上にあります。施錠したら郵便受けに鍵を入れて下さい」

 

眠くてぐらぐらしてきた。

 

布団は血塊でごわついたまま、でもそれもどうでもいい。

 

兎に角、疲れた。

 

頷きもせず黙って見返してくる鬼鮫に苛立つ。

 

「今頼んだこと、わかってくれましたかね?」

 

「…泊まらせてもいいと思っている?馬鹿ですか、あなた」

 

「いやもう、馬鹿でも何でもいいから、寝るなり出てくなり好きにしてくれ!まず!私が眠い!」

 

「…駄目な人ですねえ…。よくよく駄目だ」

 

「駄目?駄目が何だ?駄目で結構!何が言いたい⁉一反木綿で性欲処理でもしたいのか、あなたは⁉違うだろ?違ってあれ!一反木綿を毛布か湯たんぽにしたいなら好きにしろ!ぜーんぜん構わない!ただただ、ただただ寝かせろ!ダダ漏れで眠い!!クッソ疲れてんだ、こっちはァ!!!」

 

「…駄目ですね」

 

「…やかましいわ」

 

力無く呟いて立ち上がる。

 

限界だ。

 

デカい干柿鬼鮫が三人に見える。起きてみる悪夢はもう腹いっぱいだってのに。

 

「兎に角。お休みなさい。後はお好きにしてどうぞ。私は寝ます。邪魔だけはしないで下さい。絶対だぞ?…色々ありがとうございましたコノヤロウ」

 

中も外もごっちゃになった思考回路で、辛うじて就寝の挨拶と今日1日のお礼を言って、居間を出る。

全壊した台所に横目をくれる余裕もなく、寝室の襖戸を開けた途端、私は倒れ込んで、眠った。

 

布団に入る暇もなく。

 

 

 

 

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