台所の跡地に女の姿はなかった。
「……」
台所の入り口に手をかけ、一時辺りの様子に気を張る。
胡乱な気配はない。血腥さは昨日片を付けた3人の血溜まりを吸った地面から臭うもの。
剥き出しになった水道管の傍らに洗い終わった食器が積んであった。引っ張り出したらしい手頃な廃材の上に手拭いが敷かれ、その上に濡れた食器が置かれている。
風が吹いて、針槐が、沢の水が、血が匂った。
顎に手をあてた途端、予期せずまた溜め息が漏れた。
ー何処へ行った?本当にひとりで町に向かったか?…不案内なように見受けたが、そう見せかけただけか?
頭こそそこそこ回るようだが、立ち振舞がわかり易く、間抜けた油断の塊のような女が、そこまで立ち回れるか?
そうは見えないがわからない。決めつけは容易に足元を掬う。
尚も辺りに気を張りながら思案した耳に、物音が聴こえた。
家の裏手、物置小屋の方から、ガラス瓶を土間に置いたような、鈍く澄んだ音。
台所の入り口だったところから手を離し、居間に戻る。開いたままの窓から、物置小屋の入り口で女が座り込んで液体の入ったガラス瓶ー酒精の類に見えるーと、小ぶりの袋を並べて何やら考え込んでいるのが見えた。
ー今度は何を始める気だ…?
ふと女が目を上げてこちらを見た。
「…何してるんですか?」
聞かれて口角を上げる。それはこっちの台詞だ。呑気に何をしている?
「あなたこそ何をしてるんです?」
「護身用の小道具を作っておこうかと思いまして」
「…ほう。護身用…」
…嫌な予感がした。
「…何で何を作る気でいるんです?」
「ペッパーXとスピリタスでカプサイシン爆弾を作ろうかと思っています」
「…は?何が何ですって?」
また訳のわからないことを言い出した。
「唐辛子と純度の高いアルコールで、辛味爆弾を作ろうと思っています」
言い直して、女は瓶と小袋を見比べた。
「干柿さん、ちょっと危ないかも知れないから家中の窓と、居間と寝室と、居間横の小部屋の襖戸を閉めて下さい。あ、小部屋のポットの横の籠に手拭いが何枚か入っているのでそれも持ってきて貰っていいですか?」
「危ない?」
「この唐辛子はネタ枠の唐辛子なので、人体によろしくありません」
「…ねた枠?」
「洒落や冗談みたいな食料品なので、あまり体内には取り込まない方がいいということです。取り込みたけりゃまあ毒じゃないですから、構わないっちゃ構わないですけどね?…毒見してみます?」
女が真顔で言うのに、真顔で返す。
「食べられない上に危険物扱いのものを食料品と呼ぶのですか、あなたの地元は」
「…まあ。私の地元は洒落や冗談をこよなく愛する層が一定数いるので。味覚異常おこしてる人も少なくないから、こういう食料品もありっちゃありなんですよ」
「あなたも味覚異常なんですか」
「辛いものは嫌いじゃありませんが体中の穴という穴から体液を垂れ流してまで限界にチャレンジする程の執着はありません。蕎麦に一味を二分の一瓶もかけられれば、十分満足出来る慎ましやかな辛味好きですからね、私は」
「慎ましやか…」
「慎ましやかです。しかも、それすらあまりやりません。自分の嗜好に拍車をかけたくないからです。ああ、慎ましやかだ」
「…はあ。慎ましやか…」
慎ましやかとは?
言葉の繰り方に異議申し立てしたくなったが、止める。不毛なやり取りの予感しかしなかったからだ。
ここは追求するところではない。深追いしても相手のペースに飲まれるだけだ。
頭の中で辛味好きな地方へ検索をかけながら、窓から離れ、今の隣の小部屋に入る。確かにポットの横に蔓で編んだ小振りの籠があった。中に丁寧に畳んだ手拭いが何枚も重ねられている。
この女、思いの外几帳面なところがあるようだ。
下着みたような格好で何ら悪びれず恥ずかしがりもせず、のほほんとしていた野放図さからすると意外だ。
家の中は無駄な装飾品が少なく必要最低限のものばかり、家主そのままの色気も素っ気もない機能重視の配置だが、悪くはない。食器も家具も飾り気はないが粋、家主が拘って選び、使っているのがわかる。
気ままに伸び伸びと暮らしているのだろう。
女が気絶したように寝入っていた様や窓を開けて風呂に入っていたこと、台所に執着して目を吊り上げる様子などを思い出して、内心苦笑いする。
私はとんだ闖入者という訳か。
呑気なものだ。