この女は私を知らぬのではない。
だからあのとき名前を呼び、近付いてきたのだ。あの状況でよくあんな真似をしたものだ。この私に対して。
大概頭がおかしいように思うが、話してみれば思いの外厄介。回転が速く、油断出来ないところがある。おかしげな語彙で煙に巻かれそうになるし、そればかりに気を取られていると論理的に足元を掬われそうになる。
「わあぁあ!!!」
物置小屋の方から、女の大声。
切羽詰まったようではない。むしろ歓喜しているような。
ー今度は何だ。
手拭い片手に渋々窓辺に立つと、女がゴツい溶接用ゴーグルを顔にかけて嬉しそうに笑っていた。
窓辺の私に気付く様子はない。
「フルフェイススノーケルが溶接用ゴーグルに、化けた…」
喜びに声を震わせ、小さく呟いている。
また妙なことを。
「…段々仕事が雑になってきてないか…?」
首を傾げ、馬鹿にゴツいゴーグルの重みに細い首を持っていかれかけたのをガクンと持ち直し、女は胡座をかいて腕組みした。
「まあいいか。いい仕事だ。薬缶に次ぐグッジョブ。大変よろしい」
呟きながら何かしら忙しなく考えている様が伝わってくる。ゴーグルをとり、顎先に指をあて、眉根を寄せて口をへの字にして目を眇めている。
愚かではないが、所作がわかり易過ぎる。自宅、自分のテリトリーにあることで、油断しているのか?
矢張りただの女か。不可解な部分は多々あるが、ただの女なのか?
そもそも、私を私と知っていて、その私の身近にいながら油断?
…矢張りただの馬鹿なのか、この女。
ふと女が顔をこちらに向けた。
思考に耽っていた顔がパチンと目を覚ましたように表情を変えた。
一時気まずい空気が流れる。
見られていたことに気付いた気まずさだろう。
気まずさの中に緊張があるのは、女が一瞬で警戒したからだ。探るような目がその色を隠すように眇められる。
「…手拭い、ありました?」
僅かに固い声で聞く女に先程までの寛いだ素の様子はない。
ー独り言を聞かれたこと。それに警戒している。
「ありましたよ。これで間に合いますか」
そう言って畳まれた手拭いを放ってやると、女はバラけた幾枚かの手拭いを器用にまとめて受け止めた。
「人に物を投げて渡しちゃいけませんよ。行儀の悪い」
…着物の裾がはだけるのも気にせず、胡座をかいているような女が何を言う。
「いち、に、さん…と、よん。ま、これだけあれば…ありがとうございます」
緊張と警戒を取り繕っているのか、目も合わせずに礼を言って、女は手拭いを広げて数えた。すうっと深く息を吸って、肩の力を脱いている。落ち着こうとしているのだろう。
わかり易過ぎる。
「お手を煩わせてしまってすいませんでしたね」
お座なりとも取れる詫びを入れてから、女は顔を上げ、くんと鼻を鳴らして辺りを見回した。
風が吹いている。
針槐と、沢の水と、血の匂い。
女はもう一度、くんと鼻を鳴らして頷いた。
沢から家へ視線を動かす。
風向きを見ているようだ。ちょっと顔を顰めて思案する。
今作業すれば、人体に害を為す食料品が家に吹き付けると判断したのだろう。
ちらりとこちらを見て、更に顔を顰める。
何を考えているのか。
「あなた、それをどう使う気でいるんです?」
窓枠に手をかけて尋ねれば、女は難しい顔で首を傾げた。
恐らくは同い年程度と見受けるのに、どうもこの女は所作に幼気なところが見え隠れする。頭は回るのに間も抜けている。素直に話すかと思えば、時折やけに突き放してくる。
度し難い。
「辛味成分がそもそも味覚ではなく痛覚を刺激するものであることはわかります。それを…まあ、人の粘膜に付着させればどうなるかといえば、害になる」
「痛覚というか…熱感を感じさせるものですよね。唐辛子は血流をよくして体を温めますし。足先が冷えるときは靴に唐辛子を突っ込んだらあったまりますよ…て、爪先がないか、あなたの履物には」
あははと朗らかに笑われて、脱力を覚える。
「…年寄りの知恵袋の話をしてるんじゃありませんよ」
「おばあちゃんコなんで知恵袋豆知識大好きなんですよ。悪しからず」
「…ほう。あなたはおばあちゃんコですか」
「おじいちゃんコでもありますね。お年寄りは好きです」
微かに笑みの残滓を残した顔にまた警戒の色を浮かべ、女は微妙に話を流した。
兎角自己開示を避ける。
核心に触れようとすれば肩透かしばかり、だが一体何を隠そうとしているのか、ちぐはぐで読めない。
顔を上げてまた鼻を鳴らし、ちょっと目を細めて辺りを見回す、胡座をかいた薄い身体の妙な女。
"何か"出来そうには見えない。
少なくともこちらから干渉するに値する"何か"、それを出来るだけのものを持っていそうには見えない。