世は全て事もなし   作:エンギウック

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第22話

「よし分かった。干柿さん。家の戸締まりを厳重にお願いします。念の為」

 

女が勢いよく立ち上がった。

 

「戸締まりしたら本でも読んで待ってて下さい。洗濯物は玄関に入れてありますから、そのままで。後で干し直しますから、ご自分の外套以外にはくれぐれも触れないで下さい。あと、寝室には入らないで。当たり前ですが、寝室は立ち入り禁止です。飲みたければ居間にポットを持ち込んで、お好きにコーヒーなりお湯なりどうぞ。えー、兎に角、良識を踏まえてお待ち下さい」

 

言い残して足元のガラス瓶と小袋、手拭いを浚って物置小屋に入る女をただ見送る。

 

無駄だから止めておけと言いたい。護身用の小道具?無駄だから止めておけと言いたい。が、聞き入れなさそうだ。

 

止めろと言ったところであの女は恐らく滔々と理屈を並べ立て、感情の籠もらない声でこれを退ける。

手がつけられなくなる気がした。

意固地なのだ。それはもうわかっている。間抜けだが意固地。面倒な。

 

静かに窓を閉めて、風呂やトイレの窓や戸を閉めて歩く。一応覗いた寝室は抜かりなく窓も障子も閉められていた。洗い上げられた水道管横の食器と玄関に置かれた洗濯物をー外套以外触るなとは言われたが念の為"全部"ー居間に運び込み、ポットを持って襖戸を閉める。

 

小屋の見える窓の障子は閉めなかった。

目放しする気はない。

 

窓辺の本棚を改めて見る。

見たことのない本ばかりだ。背表紙の色彩の豊かさと題名の柔らかくかつ直裁的な言葉選びから子供向けのものが多いように見える。

 

ふと思い立ち、良識に背いて押し入れを開ける。

 

中にもびっしり本棚。こちらは大人向けらしい小説や実用書が並んでいる。よく板面の底が抜けないものだ。造りが頑丈な家なのだろう。

他には、僅かな衣類と画材。

 

窓表を気にしながら、中から一冊抜き出す。

 

栞が頭を出していて、気になった。大人向けの中で、一冊だけ子供向けらしい違和感を放ってもいる。

詩集らしい。手ズレのついた、読み込まれてきたらしい本の、栞の挟まったところを開く。

 

"さようなら"と銘打ったひらがなだらけの一編。

前向きさが寂しさと孤独と、惜懐を膨れ上がらせる詩だった。

 

目を通し、本を閉じる。

 

表へ目を走らせる。

 

小屋は閉まったままシンとしている。

 

もう一度、本を開く。小屋を見る。

 

何故、この詩に栞したのだろう。

 

本を閉じ、白地に緑の筆で奔放に椅子に座る子供の描かれた古びた表紙を撫で、何気なく見返しを開いた手が止まった。

 

表紙を撫でた指で、見返しをなぞる様に撫でる。

 

ガタガタと小屋の戸が開く音がした。

はっと目をやると、大きな麻布を引きずった女がこちらを見て立ち竦んでいた。

 

女の目が、手元の本に注がれている。

 

黙って見ていると、女が本から、私に目を移した。

キツい目だ。疲れたような目でもある。

 

見返しても目を逸らされることもなく、暫し瞬きもせず見合っていると、不意に女が不可解な笑みを浮かべて目を逸らした。

諦めたような、力の抜けた笑み。

 

その笑みの意味がわからない。

いや、わからなくもない。わからなくもないが、そこまで諦観して笑う程のことか?

 

名前を知られたくらいのことが。

 

女は私の手元の本をまたじっと見た後、麻布を引きずって沢の方へ歩いて行った。

劇薬を洗い流しに行ったのだろう。

 

"大切なものを大切なあなたに。則子へ。祖母より"

 

則子。

子のつく名前はあまり聞かない。則の字も名前に使うのを見たことがない。どちらの字を珍しいとしてヒントにしたのかわからないが、珍しい名前であることに変わりない。

 

もう一度、見返しの文字を指先でなぞり、詩集を本棚へ静かに戻した。

 

窓の外には人影がない。女のーあの人の姿が視界から消えた。

押し入れを閉めて居間を出、玄関へ向かう。

 

家を出て後を追った。

 

 

 

 

 




詩は、谷川俊太郎の"さようなら"です。
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