世は全て事もなし   作:エンギウック

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第23話

沢の傍で、あの人は麻布を広げてグスグス言っていた。

 

泣いている。

 

泣いているとは言っても、情緒的でも感情的でもなさそうだ。

 

盛大に鼻を啜り、涙をダダ漏らしている。

 

ー害をなされたらしい。

 

「大丈夫ですか」

 

声を掛けても振り向かない。肘で目を拭って仰け反っている。

 

ー更に害をなされている。

 

盛大に咳込んで身体を折り曲げながら、こっちに来るなと犬でも追い払うように手の甲を振る。

 

風が吹いている。

 

沢からこちらに向かって。

山の、少し土臭く植生の青みの混じった水の匂い。

 

飛び散るほどの辛味はないということだ。

 

つまり、あの人は自爆して付着物に追い打ちをかけられているということだ。

先程至極普通に立ち去った様を思えば、事後処理を抜かったということになる。

 

何をしているんだか。

 

半ば呆れながら近付くと、先ず真っ赤になった首筋が、腕が目に入った。

 

火傷でもしたように真っ赤だ。

 

もとより日に焼けた肌を隠しもせず、化粧っ気もない人ではあったが、その肌を以てしても赤みが全く隠しきれない程真っ赤だ。

 

思わず腕を伸ばしたところに、ぐいと突き立てた掌が押し出される。

 

「触らないで下さい。あっちへ行って」

 

鼻声だが明瞭な声。

 

「…痛むのでは?」

 

「私は痛みに疎いので問題ありません。あっちへ行って。触らないで下さい」

 

初めて聞く厳しい声だった。それだけ本気で言っている。こういう声も出せるのだなと妙に感心する。ふざけてばかりいる訳ではないらしい。

 

「離れて。自分で何とかします。これは強いとか強くないとか、そういうことじゃない。触らないで」

 

手を下ろして、黙って見やる。正直、馬鹿馬鹿しいが、痛々しい。

 

「家にいて下さい」

 

腹を抱えて俯いたまま、低く言われる。

 

「水を浴びて帰ります」

 

「水を浴びる?」

 

服を脱いで?ここで?馬鹿か。幾ら何でも無防備過ぎる。

 

「普通に風呂場を使ったらどうです」

 

「風呂場にカプサイシンを振り撒きたくないので。先に家に戻って下さい」

 

ピシャリと言ってまた咳込み、空嘔して更に身を屈める姿を黙って見下ろす。

 

「…着替えだけ持ってきます。ここに置いておくから着替えて戻りなさい」

 

そう言うと、頷きだけが帰って来た。

 

顔を上げす、こちらを見もせず、ただ頷いてまた手の甲を振る。

 

その手の甲も赤い。

 

赤かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

着替えは居間の押し入れから出した。

着物より動き易いものが好みなのではと考えて、薄手の内衣と脚衣を揃える。色合いが地味なものしかないが、あの人らしいと思った。鶯色の内衣と黒の脚衣にする。

下着は洗濯物から引っ張り出してそのまま添えた。

新しいものを探し回ったりしたくない。

 

「……」

 

ここまでやって、疲れを感じた。

今まで遣ったことのない気を遣っている。訳のわからない負荷が大きい。何なんだこれは。

 

赤い首筋を、腕を、手の甲を思い出す。

腹部に手をあてて俯いていたが、口からも摂ったのか、いや、元々腹が弱いのか。朝も同じ場所に手をあてて顔を顰めていた。

 

大丈夫なのか、あの人は。

 

着替えを鷲掴みにして沢に向かう。

鳥が呑気に囀っている。この鳥は何といったか。鶯?不如帰?

針槐がずっと匂っている。強い匂いだ。

 

春でも夏でもない日差し。

暑くも寒くもない時候。

 

異様だ。こんなものまで気になる。

何の情報も含まない、ただ今この時だけのこの空気。

 

忘れられないものになる気がした。

 

それが煩わしい。

煩わしく纏わりつく。

 

あの人の問題ではない。こう感じている自分の問題だ。

 

苛立ちのまま歩く目の先に沢が映る。

人の姿はない。

 

ただ綺麗に広げられた濡れた麻布があるだけだ。

ここで乾かそうとしているのか。赤い細かな粉がまだところどころ、僅かに付着している。もしかしたら一度乾かして粉を払い落とす気でいるのかも知れない。

 

だとすれば、それは止めさせて貰う。

また訳もわからず疲れることになってしまうからだ。私が。

 

上流から沢水がせせらぎとは異なる水音がした。

 

言った通り、水を浴びているようだ。

本当に不用心な。何故ああも無自覚に隙のある真似ばかりする?自分自身を何だと思っているのか。危なっかしくて腹が立つ。

 

意図せず息が漏れた。

それが何の吐息なのか、自分でもよくわからずまた苛立つ。

 

沢辺りの岩の上に着替えを置き、傍らに腰を下ろして両手で顔を覆い、拭うように擦る。

 

意味もなく情緒が不安定になっているのを感じた。不愉快で堪らない。

 

膝に肘をついて空を見上げると、鳥が輪を描いて飛んでいた。

 

「……」

 

何となく脱力した。

 

ー何をひとりでムキになって空回りしている?

 

 

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