水音が止んだ。
せせらぎと葉擦れ、鳥の鳴き声。
溜め息を吐いて立ち上がろうとしたところで、濡れた着物を纏ったあの人と目があった。
「……」
「……」
「…何を座り込まれてるんです?」
「着替えを持って来たんですが?」
「そのついでに座り込んで森林浴ですか?場合が場合だけに痴漢に等しいように思いますが」
…クソ…。
何で座り込んで空なぞ見上げてしまったのか。いよいよ腹が立つ。自分に。
「これで2回目の痴女行為はイーブン、水に流して貰えますよね?」
無造作に結い上げた髪から水を払いながら笑うその目が真っ赤だ。肌の赤みは大分引いている。
「元からカウントしてませんよ」
溜め息を噛み殺して答えると、驚かれた。
「へえぇ?本当に?あんな色々言ってたのに?…そりゃまた…ありがとうございます…?」
「疑問形で礼を言うのは止めて貰えますかね。はっきりしなくて苛々します」
「いやまあ、こっちもはっきりしないまま言ってますからね。でも、ありがとうございます。着替え、持って来てくれて」
こっちならはっきり言えるとばかりにハキハキ言われて苦笑が浮かぶ。
「ちょっとばかりやらかしましたがお陰様で守備は上々です。いいものが出来ました」
嬉しそうに言いながら着替えに伸ばした手の指先が赤い。
まだ痛むのだろうか。いや、痛むに決まっている。そう簡単におさまるものではないだろう。
「拡散防止に被った天幕が仇になりました。作業し辛いのなんのって…あ。まともな服だ…」
矢張りこっちで正解か。
「早いところ着替えて下さい。風邪でもひかれたら後生が悪い」
立ち上がって背を向けると、背後から濡れた服を脱ぐ湿った気配が立ち昇った。
さっさと迷いなく着替えているらしい無造作に忙しない衣擦れの音がこの人らしい。
「あー、あったかい。この気候でも水浴びは堪えますねえ」
呑気に言って背後から覗き込むように顔を出したその顔を見て、ふと手が伸びた。
額にかかった髪を摘み上げ、濡れた頭に撫でつける。途端に警戒した様子で身を引かれた。
「何してんですか。触らないで下さいよ」
「私はあなたを何と呼べばいいですか」
「…何と呼べばって…」
距離を置きながら言い淀んで目を伏せるその姿を見ながら古びた詩集を思い浮かべた。
そこに書かれていた名前を思う。
私に名前を呼ばれることに抵抗があるのか。
自分は初見から遠慮なく私の名を口にしたのに。
ーとはいえ。
呼ばれたくないのなら、無理をいう気はないと言いかけたとき、答えが返ってきた。
「なら、菅原と呼んで下さい」
「…スガワラ?何と書きます?」
「菅の笠の菅に原っぱで菅原。それが私の姓です。私があなたを干柿と呼ぶように、あなたは私を菅原と呼んで下さったらいい」
「菅の原?珍しい姓ですね。…名前も珍しかった」
ここで"菅原"と名乗ったこの人は痛いような、悲しいような妙な顔をした。
が、そう見えたのも束の間、パッと沈んだ表情を打ち消して、笑う。最前の顔が間違いか何かだったかのように、笑う。
「…ははァ…。そうですか?私の地元では珍しくもない姓名ですがね。恐ろしく普通です。普通を恐怖に換算するなら13日の金曜日も来週にしてくれって泣き言言い出すくらいド直球で普通ですよ?」
「13日の金曜日?」
「…4と9のつく日は不吉で死んじゃいそうディみたいなニュアンスですよ」
「…普通を恐怖に換算する必要ありますかね?」
「うん?良いところに気付きましたね?概念から概念へのアプローチ、違和感のマリアージュ、変化し続ける言葉の本質とその流動性を究極まで煮詰めてみれば、普通と恐怖が並び立つこともないこともないと、言えないこともない。そういう話です」
「…ニュアンスで理解しろと言っている訳ですね。そうしますよ。突き詰めれば長くなりそうだ」
「流石飲み込みが早くてらっしゃる。突き詰めて話を長くするのは私も本意ではありません。大体私の言ってることはお年寄りのネイティブが話す訛りだと思って下さればそれで結構。ニュアンスよりかは訛りだ訛り。みーんな訛り。ちっせごど気にしてばりいれば、やちゃくちゃねぐなっがらな?」
「……」
「もし菅原が慣れなくて呼び辛いようなら、甘柿でも渋柿でもお好きなように呼んでどうぞ」
「…何で柿で統一しようとする?」
「目の前に干柿がいるからじゃないんですかね?」
「うちはがいたら?」
「扇子でしょうね」
「渦巻なら?」
「海苔巻にしときますか」
「猿飛は?」
「さあ?キョンでも飛ばしときます?」
「…菅原も偽名でしょう、あなた」
「いいえ。名を知られたのに今更姓を偽って何になります?」
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拙い物語に目を向け、気持ちを留めて下さりありがとうございます。
うっれしくて嬉してなじょせばいんだがわがんねぐれだ!
です!
物価高騰気候不順天災人災各方面からアタタな世界の生活を共有しながら、読み、思って下さる皆様へ感謝と愛情をこめて。
ありがとうございます!