世は全て事もなし   作:エンギウック

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第30話

目の前で則子が、いきなりゼンマイの切れた人形のように崩折れた。

 

抱きとめようとして間に合わず、頭から無防備にごつんと倒れ込む。

 

「…ー則子さん?則子さん?」

 

声をかけても微動だにしない。頬を軽く叩く。

 

「則子さん」

 

全く反応がない。切れ上がった目尻に涙を溜めたまま、僅かに眉根を寄せてかたく目を閉じている。

 

片目をこじ開けて瞳孔を見る。首筋に指をあて、脈を確かめる。薄い肩が呼吸に合わせて穏やかに上下している。

 

異状ない。寝ているだけのようだ。

 

「…一体何なんだ…」

 

あまりに奇妙な寝入り方に呆れる。

昨晩も倒れ込んで寝ていた。こういう寝方をする人なのか?

ちょっと異常だろう。

 

淹れかけのコーヒーが呑気に香っている。

則子を見下ろして溜め息を吐く。

 

則子の目尻から涙が流れてぽたんと床に落ちた。

 

今度は何故泣いたのだろう。

夕べは何故泣いた?

 

何に追い詰まっている?何を隠している?何故触れてきた?

何で現れた?

 

わからないことばかりで苛立つ。

則子は今回の任務の目的の"もの"に関わっているのだろうか。

始めはそう思った。今も疑っている。

 

しかしそれにしてはあまりにこの人は無防備だ。隠し事はあるが、個人的なもののように思える。狡猾に謀るような気配がない。

ただただひたすらズレたところで藻掻いているように見える。

 

寝息を立てて寝入る則子の身体に手をかける。この身体を持ち上げるのは四度目だ。初見で放り投げて一度、そのまま寝床に運び込んで二度、寝室から身体半分突出して寝入った夕べで三度。

 

そして今で四度目。兎に角細くて軽い。身体が薄い。

 

しっかり食事を摂っているのだろうか。台所や米への執着、料理の手際をみれば心配要らないように思えるが。

 

寝室の襖を開ける。

血腥い。敷きっぱなしで畳む間がなかったのだろう布団に血がこびりついたままだからだ。

 

このまま寝かせるべきか躊躇した。

がっくり寝入っている腕の中の則子を見下ろす。

 

濡れた髪や赤みの残る肌が目に付く。薄いが長い睫毛、切れ上がった目尻、深い二重、眉間の皺。

 

初めてマジマジと顔を見た。

あちこち表情の変わる顔ばかり見ていたから、不思議な気がする。こんな顔をしていたのか。

 

「…早いとこ目を覚ましなさい。話をしましょう」

 

腹の探り合いをする程知りたいことから距離が開いている。いい加減蹴りをつけなければならない。

 

布団を見下ろし、則子を見、居間に戻る。

 

居間の押し入れから布団を出して敷き延べた。則子を寝かせ、掛布をかける。

 

則子はただただ眠っている。

昨晩も泥のように眠っていたのに、陽の高いうちからまたこうも寝入るものだろうか。

 

ふと布団からはみ出た則子の右手を、掛布の中に戻そうとして触れて、驚いた。

 

馬鹿に熱い。

 

「…熱がある?」

 

眉を顰めて額に手をあてるが、額はひんやりしている。首筋に触れる。矢張りひんやりした感触があるばかり。

 

右手だけが馬鹿に熱い。

 

「…辛味のせいですかね…」

 

呟いて、改めて右手に触れる。

 

熱い。異常に熱い。

仔細に触れ、確認すれば母指、示指、中指が殊に熱かった。

 

「……」

 

傷があるわけでも色味が悪いわけでも、浮腫んでいるわけでもない。

 

ただ熱い。

 

作業に最も使う利き手の三指。だからダメージが目立って大きいのか。

 

則子は深く寝入っている。眉間に皺してはいるが、これは視力の悪さ故の皺だろう。

目を眇める癖があるらしい則子の様子を思い出して、今はただ寝ているのだと判断する。苦しんだり痛がったりしている訳ではない。

寝息は安らかなのだから。

 

何がなし解せないまま、則子の手を布団の中に戻す。

 

今一度額に触れ、熱がないのを確かめて立ち上がった。則子に目覚める兆しはない。

 

ーだがまあ。

 

丁度良かった。目を細めて気を澄ます。

 

家の表に異物の気配がある。

 

何人だ?雑な気配が複数。先に3人始末しているのだから、それ以上なのは確かだろう。

 

如何に小国の霜の国といえど同じ轍を踏んで徒に戦力を削る事はすまい。とはいえ、私がここにいることを、果たして把握しているかどうか。

 

ここに至るまで何ら監視の目がなかったことを思い、失笑する。

 

だから小国なのだ。霜。甘い。何もかも甘い。

 

外で気配が蠢き出す。

足を踏み出しかけてふと思いつき、目を窓へ、小屋へ向けた。卓袱台に置かれた煙草と燐寸箱を見る。

 

「…ふん?」

 

寝入る則子を見下ろし、我知らず笑みが浮かんだ。

 

「一石二鳥」

 

 

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