則子はピクリともせず寝ている。
また右手が布団から出ていた。熱いのだろう。戻したところでまた出すだけだと判断し、そのまま窓を開けて身を乗り出す。
散らばったいくつかの気配が揺れるのを感じたが、構わずそのまま外へ出た。
小屋の横、草を食む馬刺へ向かって歩く。
風が止み、地面から植生の蒸れた草熱れが立ち昇る。踏みしだく度、青臭く匂う。
こちらに気付いた馬刺は呑気にこちらを見、僅かに鼻を鳴らしてまた草を食み出した。
飼い主に似て間の抜けた馬だ。
引き手を繋ぎ杭から外すと、馬刺は首を振ってまた鼻を鳴らした。
「暴れたら痛い目を見ることになりますよ」
穏やな口調で胡乱に話しかけ引き手を引くと、馬刺は大人しく向きを変えた。
頗る素直だ。話が早くていい。飼い主にも見習って貰いたい。
複数の視線が貼り付くのを感じる。5人…6人か。
雑然とした気配にうんざりしながら馬刺共々物置小屋に入った。
途端に酒精が鼻を突く。
ー酒臭い。何を作ったんだ、あの人は。
入口すぐ横、硝子の空き瓶と空の小袋。漏斗や注水器、手袋に溶接用ゴーグル、そして手拭いがまとめて置いてある。後で洗うつもりだったのだろう。いずれも赤い。明らかに辛味を纏っている。
その横に、小さな、妙な質感を持った…風船?赤や黄色、水色のそれが、6個、浅い木桶におさめられている。
「…これはまた…随分賑やかな…」
場違いに取り取りな色彩に顔を顰めながら、水の入ったタブンとした風船をひとつ、慎重に持ち上げて鼻に近付けてくんと嗅ぐ。
「…ッ」
強烈な酒精が、辛味が、痛みが鼻腔内を刺して思わず咳き込みそうになった。
「なッ…な…、何を作って…、馬鹿かッ」
馬刺の引き縄を離して鼻を押さえる。想像以上に強烈だ。これはキツい。則子のあちこち赤らんだ姿を思い浮かべ、納得した。
確かに強い弱いは関わりない。この毒水には神経生理上の避けようがない効果がある。
咳き込みを堪えて足元の木桶を見下ろした。嗅いだだけでこうなるものが詰まった爆弾が6個。
手元のものを見、眉を顰めてそっと木桶に戻す。
こんなものをわざわざ使うほどの状況ではない。
が、使う。使い辛く非合理ではあるが使う。
使って失くさせて貰う。あれば則子は使おうとするだろう。使えば自爆する。多分。
ぷよぷよと如何にも脆弱な小さな風船を眺めて思案する。
「…こんな脆いものをどう使う気で…」
ますます自爆する則子しか思い浮かばない。
小屋の中に目を走らせる。ふと棚の上に箱に気付いた。中に雑多な陶器が入っている。箱の横に在り来りな猪口が6個、重ねて置いてあった。
則子の段取りが見えた。
「…まあ…多少はマシになりますかね」
腰を屈めて小さな風船を用心深くまた摘み上げる。
馬刺がぶつかって邪魔だ。狭い。
もう少し広い小屋に出来なかったものか。不便でならない。自分がやや規格外なのは知っているが、いっそバラバラにしてやりたい程狭い。
表で微かに下生えを踏むかさという音。
お粗末過ぎて笑えてくる。
猪口へ柔く脆い小さな風船を慎重に詰める。正直表の気配に気を配るより気を遣う。
溜め息を吐いて息を吸えば、微かに漂っていたカプサイシンと酒精が口腔から鼻腔に抜けてまた咳き込みそうになった。
「…くッ」
腹が立ってきた。ロクなことをしない女だ。
何で私がこの馬鹿らしく下らない上に手に負えない危険物に始末をつけなければならないのか。
この貸しは大きい。則子によくよく言い含め、諭さなければならない。
馬刺は大丈夫かと目を向ければ、呑気に鼻面で何か漁っている。
「…いい気なものですね」
呟いて苦笑し、木桶に猪口を入れ小脇に抱える。
「ひと仕事してきます。ー大人しくここにいないと酷い目にあいますよ」
馬刺に言って眉間に皺した。
この馬がこの馬鹿げた辛味と酒精でどうにかなったりしたら、則子は黙っていないだろう。下手な真似をすればこっちの負債が増える。貸しを増やすのは兎も角、借りが増えるのは面倒だ。それは避けたい。
小屋の引き戸を開けた刹那首元に白刃が走った。
屈んで避け、木桶を置いて後ろ手に小屋の戸を閉め、返す手で背中の鮫肌を握ってそこにいた3人を、まとめて薙ぎ払った。
掌の鮫肌から柔らかな肉を噛む感触と骨が折れ砕ける感触が伝わってくる。
血飛沫が飛び、薙ぎ払われて左に倒れた3人の巻き添えを食ってひとり倒れる。
無様。
仰向けに倒れたその顔を踏みつけ、鮫肌の毛羽立つ切っ先で胸を突く。
胸骨が潰れる鈍く硬い音。
踏みつけた顔の口元から、薄紅の泡が溢れた。
肺もいったか。成る程。よしんば事切れていなくても肺で辛味を味わうことは出来ないか?残念な事だ。