世は全て事もなし   作:エンギウック

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第32話

右手から玄関、家の表に回りかけていたふたりに向けて大きく足を踏み出し、腰を屈めて鮫肌を操る。腰骨を砕いた鮫肌の軌道が血脂でずれ滑るのを力尽くで振り抜いた。肉と臓腑の柔らかで弾力のある手応え、空を切る鮫肌の刃先から血の筋が流れる。

 

鮫肌は人を斬るものではない。引き千切り、噛み、毟る。削り砕き、押し潰し、チャクラまでも啜る。

質は悪いが使い勝手のいい、如何にも私らしい得物。

 

裏手で物置小屋を囲んでいた6人は、倒れ伏したまま動かない。

生きているのか死んでいるのか。いずれ息絶えるだろうが。

 

玄関横に台所の廃材が積まれた家の表には、更に数の増した気配がある。ある程度異変を察知しているのか、その輪が縮まっている。

 

最も輪が縮まったというのは裏手が見えていない残党の思い込みだが。

 

輪の鎖は切れた。

 

片付けた連中の後先見ない動きから見て、残党は私がここにいることを"知らない"。わかっていればもう少しマシな布陣を組むなり、踏み込むタイミングを測るなりした筈。

 

そう思いたいところだ。

でなければ一国の機密を担う任務というに、あまりに稚拙で痛々しい。

 

血脂で滑る鮫肌の柄を葛の葉になすって擦り、手に付いた血は脚衣で拭う。小屋の前の木桶を拾い上げ、鮫肌を背中に収めた。

 

ここからは鮫肌は必要ない。

 

居間の窓を開き、土足のまま中に入る。

 

則子が右の手を畳に伏せて、静かに寝ていた。眉間に皺して、深く寝息して。

 

「……」

 

窓を慎重に閉め、ふと気が付いた。

 

血の匂いに麻痺した鼻に僅か、薄荷と香木が混ざったような香りが感じられる。そして、昨日今日と未だかつてなく飲んだコーヒーの香り。微細な煙草。

 

…そうか。これがこの人の、この人とこの人の家の匂いか。

 

深く息を吸って、隣の小部屋へ入る。ポットの脇の籠に残っていた手拭いを2枚取り出し、口と鼻を覆うように縛った。

 

一度居間を振り返る。

 

寝入っている則子、窓辺の本棚。閉まった押し入れ。簡単に持ち上がる扱い辛い卓袱台。

 

いやに赤い則子の、右手の指先。

 

眉間に皺が寄った。

後で冷やす様に言わなければ。痛がられても手出し出来ない。また何をするのかと言われたら癇に障る。

 

さて。

 

居間の襖を閉め、小部屋を出て同じく襖を閉めた。

血で濡れた足元が足跡を残す。また借りを増やされそうだ。畳替えしなければならないかも知れない。

 

板張りの、申し訳程度の廊下を数歩、台所のあった場所の明け放された木の引き戸を引いてみる。ー動く。

 

重い木製の引き戸を半ば閉じて、ひょいと外に出る。

 

晴れた空が未だ麗らかだ。

今この場が血生臭くあるから尚麗らか。

 

流石に殺気が立っている。

 

まあ、それはそうだろう。連中も忍びだ。

 

だが弱い。弱過ぎる。

 

力のない小国で力は育たない。力ある者は力のある場所へ引き寄せられていく。自明の理だ。

少しでも使える頭と腕があれば、自分の意思で強国へ売り込みをするか、目を付けられて引き抜かれるかいずれよくせき国への情がなければ弱い在郷を見限る。弱い在郷に好き好んで縛られたままいれば、要らざる脅威として真っ先に他国から消される。誰にも守られず、何も守りきらず、風に弄ばれ地に落ちて朽ちる紙屑のように死んでいくことになる。

力ある者になり得る後進を掬い上げ、守り鍛える素地のない国の力は、ただただ衰えて消える。

 

風は止んだまま。鳥が囀っている。

 

藪から木立から人の気の吐くざわめきが空気を震わせている。

 

怯えの混じる、私からすれば些少な気。

 

そうしようと思えば私を私と見留めないまま、皆片付けることも出来た。この程度であれば殺気を抱く必要すらない。だから、私の気配を感じさせることなく、容易に片付けられた。なのに回りくどい真似をしている。溜め息が出た。

 

「…やれやれ」

 

台所の廃材に木桶から片手で掴み出した猪口を3つ、無造作に投げ込んだ。

 

辛味と酒精が立ち昇り、咳き込みかける。

 

どこまでも扱い辛い。

 

こんなものが則子に使いこなせる筈がない。

全く馬鹿な女だ。また裸で水浴びでもする気か。これは護身向けではない。共倒れ、若しくは自爆向けの自暴自棄な危険物だ。

 

ここにこのまま置いていけば、則子はどうなるのかふと考えた。あの人は事態を把握しているようには見えない。

ここらはただの国境の山地ではない。市井の人間は滅多と足を踏み入れないが、そうでない者が跋扈する影の要所。

 

つまり、忍びやそれに準じる血腥い生業の者が行き来する場なのだ。

 

一歩退がって燐寸を擦る。硫黄がパッと火花を散らし、その刺激臭がほんの刹那血の匂いを押し退けて鼻を刺した。

 

気配が姿を現した。引き気味の殺気を纏った黒装束の忍びがクナイや小太刀を構えて廃材を挟んだ向こうにゾロリと並ぶ。

 

 

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