世は全て事もなし   作:エンギウック

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昨晩、間違って33話と同じシーンを34話にあげてしまいました。
改めて34話をあげています。
昨晩重なってしまった34話を読まれた方は、お手数ですが改めて34話にお目通し下さってから35話をお読み頂けたらと思います。
混乱させてしまいまして申し訳ありません。



第35話

…沢で洗った服にカプサイシンが残ってたか?いや、でもそれだって濡れて拡散することはない…と思うんだけどな。

 

ビリビリ痛む右手を左手で押さえながら玄関から外に出る。突っ掛けたスニーカーが濡れて緩んだ地面に沈み込んだ。

 

足元がビチャビチャだ。子供が水遊びしたビニールプールの周りみたいにズブズブに水浸しになってる。

どんな雨が降ったんだ?ちょっと尋常じゃない…。

 

くんと周りの匂いを嗅ぐ。土が、草木が、飲み込んだ水を吐く息で、雨上がりの匂いしかしない。

 

「……」

 

モヤッと思い当たる。

 

干柿鬼鮫は水を操る術を使う。

 

ー明らかに何かやらかしたんだな。一体何を…。

 

わかっている。昨日から、片を付けると言っていた何か。それを片付けたに違いない。

 

床に残った血痕を思って胃が痛くなった。

 

…させたくなかった。

 

止めることは出来ない。出来る訳もない。

だから敵味方関係なく何もかも無力化出来るカプサイシンを使おうと思ったのに。

 

後先考えない真似だったのはわかる。わかるが、今こうして身近にいる間だけでも、干柿鬼鮫が血で手を汚すことを少しでも、ほんの少しでも回避させたかった。

馬鹿馬鹿しい。

わかってる。

自己満足だ。

でも、そうしようと思った。

あの人の救いになどなり得ない。意味すらない。

でも、干柿鬼鮫という人が、生きて目の前にいる人が、何かを傷付けるのを、止めたいと思った。

 

くどいように匂い立つ草熱れを嗅ぎ、ハッと馬刺を思い出す。

 

ちょ…まさか、まさか一緒くたに流されてないよね⁉

 

慌てて家の裏手に周り込むも馬刺の姿がない。

 

「…そんな…」

 

そんなそんなそんな…。

 

目が痛いくらい見開いた。呑気で食い意地の張った、あったかくて可愛いあのコがいない。いなくなってる。

 

じがじが痛む右手を胸元に抱え込む。

見開いた目が乾いて怠い。

 

馬刺がいない。鬼鮫もいない。家には血痕。右手に異常。

 

息が浅く速くなる。

 

「落ち着け落ち着け。大丈夫。大丈夫」

 

どくどく脈打つ心臓を胸骨の上から左手でトントン叩いて呟く。

 

「大丈夫大丈夫。何てことない」

 

一度息を詰め、鼻から深く吸った息を口から底まで吐き出す。

 

小屋が目に止まった。

小屋の中は無事だろうか。カプサイシンとスピリタスで作ったあの水風船はどうなってる?

 

酸っぱい唾液を飲み込んで足を踏み出したら、小屋の戸がガタガタ鳴った。

 

…誰かいる…。

 

足が止まって冷や汗が流れ、こめかみと右の三指がドクドクと痛く脈打った。

 

…誰?誰だ?干柿さん…ならとっとと顔を出す。

怪我をした人が押し込まれてる?…え?どうしよ…って見に行くしかないだろ!馬鹿か!

 

足早に小屋に歩み寄り、思い切りよくバーンと引き戸を開けたら中から出てきた何かに腹を押しこくられて尻餅をついてしまった。

 

「な…何…お前…」

 

馬刺が額に鼻面を押し付けて、小さくブルルと息を吐いた。猫が喉を鳴らすみたいな、自分のご機嫌を伝えたいみたいな鼻音。

 

「…ばァさァしィィ゙…」

 

文字通りの馬面を左手で抱き寄せて呻いたら、乾物や香草の乾いた匂いがした。

 

ーあ。中を食い荒らしてやがるコイツ…。

 

貴重な備蓄が馬刺の餌になってしまったようだ。誰だコイツを小屋に入れたのは…ッ、て、干柿さんしかいないな。

 

濡れた尻の感触に顔を顰めながら立ち上がり、小屋を覗き込むと水風船が木桶ごと消えている。猪口もなくなっている。

 

これも鬼鮫の仕業だろう。

 

「…まあ…。そりゃ好きにするよな。他人ちの台所壊してケロッとしてる人だもんな」

 

人が苦労して作ったものを勝手に持ち出しやがって、あの敬語鮫…!

 

しかしどう使ったのだろう。

あれはフィジカルが強いからってどうこうなるモンじゃない。かなーり扱いが厄介だ。何なら自爆覚悟で使うモンだ。自爆する側が事前の心構えと事後処理の覚悟がある分、ちょーっと有利になる程度で、立ち回りが難しい…と思うんだけど…。

 

もしかしてそこらへんにカプサイシンにやられて蹲っていないかと念の為馬刺を連れて家の周りを一周したが、勿論そんな面白い鬼鮫は転がっていなかった。

 

ほっとしてムッとする。

 

まあ…。当たり前か。干柿鬼鮫が私みたいな真似をする訳がない。

 

「…何処に行ったんだろ。なあ、馬刺」

 

馬刺の首筋を叩いて、その振動がまた右手に響いて、忌々しく目をやれば、きつく縛り過ぎた三指の根元が赤紫色に染まっている。

 

…道理で痛みが鈍くなってきた筈だ。良くない。壊死する。

 

気は進まないが包帯を噛んで左手を使い、結び目を解く。

馬刺が少し離れたところで草を食み出した。

 

 

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