あぁ、羨ましい。私も馬刺みたいな食形態で済むんなら楽だったろうに。
痛みに集中しないよう、考えごとしていたら包帯がひらっと濡れた草の上に落ちた。
何の気なしに腰を屈め、包帯を拾おうと利き手の癖で伸ばした右手の先が草に触れる。
ーあ、痛…。
ビリッと痛みが走って息を詰めた刹那、どかんと身体が持ち上がって視界が反転した。
「…は……」
青い空が視界いっぱいに広がる。奇妙な浮遊感に体幹の軸を失った手足が意思と関わりなくバタついた。
「ぁ、わ、わ…わ…ぎィやああァァァあ!!!!何これヤダこれ!うわうわうわあァァァ!!!!」
身体の下で何かがざわめいている。安定感のない不確かででも突き上げるような勢いで持ち上げてくる何か。
右手に違和感を感じてハッと目を向ければ、葛の葉が巻きついて右手が見えない。
く…葛の葉ぁ⁉
途端に背中を押し上げるものに合点がいった。
植物だ。何かの植物に…もしかしたら葛に持ち上げられている。
「…いや、待て!何か違う!ちょ…かなり違う!何が何だか…ッ」
焦りと恐怖と"わからなさ"に頭が完全に混乱した。
これだけは絶対言いたくなかった言葉が喉奥から抗いようもなく迸る。
「たァすぅけぇてえェェ干柿さあぁぁーん!!!!!」
最悪だ…!最悪過ぎる。
また迷惑をかけてしまう…!借りが増えて胃が痛む!
頼む…!助けに来るなら鮫じゃなく猫型タヌキのロボットにしてくれ…!どっちも青いんだから、それでいい!それがいい!そうしてくれないか!
頼む…!!鮫以外の青いの…なんか…青くて助けてくれるヤツ…!
「あらぁ…。あなた何やってるの?」
「…あ?」
野太いのにテイストが性を否認する語り口。
うん?これ…。いやいやいや。
「干柿って鬼鮫のこと?あなた鬼鮫と関わってるわけ?」
「え?」
ちょっと待って欲しい。
何を普通に話しかけてくるのか。
下を見たいがバランスを崩して落下するのが怖くて青空から目を離せない。どれくらい高いところにいるのかも見当がつかないから、無闇に動けない。
「また暁ね。油断も隙もないわ。目障りだわぁ…」
「あの!」
「…何?」
「申し訳ありませんが、助けて頂けませんか⁉」
「何よ。何から助けて欲しいわけ?」
「下りたいんです!地面に!」
「下りたらいいじゃない?」
爆笑。話が通じる相手じゃなかった!
「自力で下りられないから頼んでるんです。お願いします」
「自分で下りられないのに何でそんなとこにいるわけ?」
「…それが…」
それがわかればここまで動揺してないわ!私とて!!!
下からガサガサ音がする。
おい待て。体が揺れる。何に触ってる?
「あの…何をしてます?」
「何でもいいでしょ?」
「ば…馬鹿!いいわけあるか!無闇に触るな!落ちたらどうする⁉」
私はこの世界観に適応した生き物じゃないんだ!リアルに止めてくれ!
「何よ。下りたいんじゃないの?」
「私は!五体満足で下りたいから助けを求めたんです!」
「ふぅん?なら始めからそう言ったらいいじゃない。回りくどいこと」
…適当に落ちてその後どうなってもいいなら誰も助けを呼ばないという当たり前の人情が通じない相手に助けが届いてしまったらしい。
「怪我なしで下ろしたらいいわけ?」
「……」
この人に助けられちゃっていいわけ?
大体わかる。何となくわかる。あまりよくない。多分よくない。
空が青い。
馬刺は多分草を食んでいる。
干柿さんはいない。
右手が痛い。
台所どころじゃなくなってしまった自分が悲しい。
「助けなくていいなら行くわよ、私」
「助けて下さいませますです!下りたいです!助けて下さい!」
「…そう?なら歯を食いしばりなさい」
「は…を食いしばる…?」
あ。
物申そうとした瞬間に体がふわっと。ふわっと支えを失って宙に浮いた。
ぅわ…!
ギリッと歯を食いしばった途端に体が腰から鯖折りになって一気に落下した。
「うぅわあ!」
手が泳いで空を搔く。胃が体を突き抜けて先に落ちていくような不快感。
気持ち悪いぃ!!!
「あ"ッ」
即どっと自重がかかる。が、痛みはない。何かに受け止められた。
「……」
視界いっぱいガサガサとうるさい葛の葉の隙間から、瞳を縦に割るような黒目が覗く。葛の葉の乳液の青臭さに混じって、消毒液のような匂いが鼻を突いた。
うわ、これ…。
「…ぅえ…」
胃が痛い。気持ち悪い。
「うえ?助けてあげたってのにご挨拶だこと」