立ち上がって散らばった植生を踏みしめる。
このあり得べからぬおかしな状況。危機的な状況なら対処出来る。何かしらが敵対してきてくれるのならば倒すことも出来る。
理解した。
一番恐ろしいのはわからないことだ。
わからないのに引き摺られること。
このまま則子を投げ置いて行けば楽だろう。面倒はない。だがそれをしてはこの先何かが歪む気がした。
理解の及ばないものを放棄した自分。これは保身だ。あってはならない。
任務を投げ出すことも自分に許す気はない。矜持を犯してこの先どう生きていくつもりか。
それに台所…。
「馬鹿かッ!」
思わず声が出た。則子がびくっとして目を開いた。
「…何が馬鹿…」
呟いて寝起きのぼんやりとした様子で辺りを見回した。見回して、抱き抱えられた自分の体に目を移す。脇の下から、膝の裏から回された私の手をまじまじと見る。
「…うん?」
目を閉じて次を待つ。間違いなく叫ぶ。この女、間違いなく叫ぶに違いない。
「あー…」
則子が手を伸ばして、私の手に触れた。乾いて温かな奇妙な感触。ただ生きてそこにあって、自ら触れてくる他者の手。眉根が寄った。またわからない何か。苛立たしい何か。
「まだいたんだ。そうか…」
呟いて、目を瞬かせる。寝惚けているのかと思ったが、暫し何か考える様子で黙り込み、ふと気付いたように私の手に触れた自分の手を見た。
「…ああ…」
目を眇め、閉じ、一度力を込めてぎゅっと握ってから、手を放す。手が放れても尚残る温みが肌に蟠った。
「すいません。ちょっと混乱してしまって」
小さな声で言うと、則子は右手を左手で撫でて溜め息を吐いた。
「下ろして貰っていいですか」
そう言ってから、可笑し気に苦々しく笑う。
「…よくよく下ろして貰う日だな」
「何がです?」
聞き咎めながら下ろしてやると、右手を抱えて則子がまた笑った。
「降れば土砂降りってヤツですかね」
「……」
黙って細い背中に手をあてる。
「入りましょう。一息つきたい」
背中を押すまでもなく、則子が足を踏み出した。押されたからではなく、自分で歩きますよと言わんばかりに。
「そうですね。私も一息つきたい。ふ。寝てたくせに何言ってんだかって感じですが」
自嘲するその様が痛い。何があった?
頻りと右の手を、熱を持っていた三指を擦っている。
「その指…」
言いかけたらば則子がぎゅっと口を引き結んだ。
「…痛むんですか」
「いいえ」
短く答えて首を振る。
「全く」
足元を凝視しながら三指を擦っていた左手を放し、目を眇める。泣きそうに見えた。そう見えたが、逆に笑顔を向けられた。
「全く痛みません」
「…そうですか。熱を持っていたので心配しましたよ」
「ああ。それは申し訳ありません。ですが心配は無用です。何ともありませんから」
にこっとしながら右手をぱっと開いて見せた則子に違和感が拭えない。大体この人が私ににこっと笑いかける?誰だこれはというくらいの違和感が更に募る。
「遅くなったけどお昼を用意しないと。お腹減ったでしょう?」
「……」
そんなことはどうでもいいと言いかけて止めた。
生死に関わらなければ食べなくてもどうということはない。食べられるときは食べるが、それは身体を維持する為だ。
だが当たり前のように食事を支度しようとする則子にそれが言えない。台所を直せと声を張る則子に、それを言えない。
「米が切れたんでしょう?私の分まで無理して支度する必要はありませんよ」
自分なりにやんわり言うと、則子がびっくりしたようにこっちを見た。
「米がなくても食事は用意出来ますが?」
「あなた困窮してるんじゃないんですか?人を気遣う前に自分の心配をしたらどうです」
「ああ。大丈夫ですよ。私は自分の心配ばかりしてますから。お気遣いなく」
「…そうですか」
「干柿さんこそ私のことなんか気にかけてるお暇はないでしょう?外套も乾いたようだし、そろそろお帰りになりますかね?」
「……申し訳ありませんが諸事情で内衣を洗わせて貰わなければなりません」
「は?」
「それが乾くまで帰りません」
「はあ?」
「何か?」
「待て。わかった。まず昼ご飯を作らせて。食べながら聞く」
「いいですよ。私もあなたに聞きたいことが増えた。食べながら聞きましょう」
「…何が聞きたいんです?」
「あんな状態で寝ていて何で何かしら聞かれずにすむと思うんです?」
「…あはは。確かに。不思議ですよねえ。何ですかねえ、あれ」
「いいですよ。今言わなくても。食べながら聞きます」
則子が何とも言えない顔で口を開き、閉じた。
黙って玄関の引き戸を開けて家に入って行く。