それはそうだ。
だから則子は動揺している。馬鹿なことを聞いた。舌打ちしたくなるがこれもまた堪える。
「痛みはない?」
「今はないです」
「動かすのに支障は?」
「ありませんよ」
「またやれと言われたら出来ますかね?」
聞いたらば、則子の目が揺れた。私の掌の上から右手を引っ込めて、庇うように左手で握りしめる。
「わかりません」
「やってみて下さい」
「は?」
則子が眉を顰めた。
揺れていた目が動きを止め、呆れた表情が浮かび上がる。
「どうやって?」
…何でそんな顔で見られなければならないのか。一発引っ叩きたくなって三度堪える。
「…何でそれを私に聞くんです?あなたは馬鹿ですか」
「…わかってりゃこれは何だとあなたに聞いたりしないんですよ?馬鹿とは何だ馬鹿め」
「…馬鹿?こんな馬鹿なあなたに根気強く付き合っている私を馬鹿だと言いますか」
「馬鹿に何かやらせようと思いつくのは馬鹿のすることでは?」
「あなたが馬鹿だから話が進まないという話ですか」
「馬鹿に馬鹿が絡めば話は後退するばかりという話じゃないですかね」
「馬鹿馬鹿言うんじゃありませんよ。聞き苦しい」
「先に言い出したのはあなたですが?」
「言わせたのはあなたです」
「言葉選びが出来ない自分の未熟さを棚に上げて他責に走るのは止めて下さい」
「言葉選びする気などさらさらありませんよ。あなたは馬鹿だ。他に言いようがない」
「なら私も言わせて貰いますよ。私が馬鹿ならあなたも馬鹿だ。こんなやり取りをしている時点でどっちも馬鹿です。それこそ他に言いようがない。いい大人が雁首揃えて恥ずかしいことです。お互い反省すべきですよ」
「…わかりました。馬鹿でも何でも構いません。そんなことはどうでもいい。手を出しなさい」
「嫌です」
「いいから出しなさい。自分で試す気がないなら私が試します」
「何をどう試すんです?」
「いちいちうるさいですよ。ちょっと黙ってなさい」
「はあ?あなたがあなたのことを勝手に何かしらやるのなら私だって干渉せずに黙って見て……」
言いかけてふと則子が口を噤んだ。左手で擦る右手を見、床に目を落とす。
何を見ているのかと思って気付いた。
血痕を見ている。私が残した、霜の国の者の血痕を。
「…私が言えたことじゃないか。わかりました。どうぞ」
何を考えているのか思案する間もなく、則子が右手を差し出した。
何が言えたことじゃないのか。
則子が私の行為に干渉したことがあったか?私そのものへの痴女行為という干渉はあったが、行為へ関わることはなかったように思うが。
血を見て怖がっているのとは違う。また何かを諦観したような投げ遣りな態度。
「…何ですか?必要ないなら引っ込めますよ」
突き出されたまま宙ぶらりんにされた右手が下がりかかるのを掴まえる。
「あなたは何の為にここに来ました?」
「…何の為?」
「こんな山の中にわざわざ引っ越して来る人がいますか?私の説明であなたもそれを知った筈だ。あなたはここがどういう場所かさえ定かに理解していない。何をはぐらかしています?」
「……」
則子が口を開けて、閉じた。まただ。また何か言いかけて止める。
「私が始末したのがどういうものか、あなたは知っていますか?」
「……」
則子が口を引き結んで右手を引いた。逃がさず引き寄せて則子を見下ろす。
「あれは霜の国の者です。恐らくはあなたを目当てにここに来た」
「…霜の国…」
則子が目線を斜め上に向けた。顔を顰めて脳内の何かを検索しているような様子。
「…霜の…国…」
「……」
「…霜…」
「…もう一回言ったら引っぱたきますよ。わからないならわからないと言いなさい。あなた霜の国を知りませんね?」
「ちょっと待って下さい。思い出します」
「思い出さなきゃいけないようなところに引っ越して来たんですか、あなたは」
「みたいですね。私は土地勘が弱いので」
「…馬鹿と言わせないで下さい。私だって言いたくないんですよ」
呆れて言っても則子は考え込むのを止めない。
「霜の国。ここは霜の国です」
妙な確認の仕方をする。これは多分自分の知識ではなく先刻の私の地形の説明を思い出し、辿っているだけの言葉。
「…霜の国…」
その上でまだ何か思い出そうとしている。本を繰って目当ての箇所を探すように。
「…ここが薬師の里の跡地だというのは先刻説明しましたよね」
「随分前に根絶やしにされたんですよね。心霊現象の多発地帯になってたりします?だとすれば住み辛いな」
「…どうでも馬鹿だと言わせたいようですね」
「大事なことですよ。住む身にしてみれば」
「あなた本当にここにこのまま住み着く気でいるんですか」