あー…。もう駄目だ…。
薬師は薬師如来由来の医師のワード。多分元の世界でもこの認識はズレを生じた筈。
鬼鮫が頭の回転の速い人間であることに甘えて踏み外した。世界観の違うこの場では増して通じないことを言ってしまった。
どうしたらいいって、もうどうにもしようがない。
綻びを繕う気力が続かない。
それにまた、頭がぼんやりする。眠気がさしてきている。
多分通草を生やしたり栗の木を爆誕させたりしたせいだ。
自分で家を壊してしまった。救えない。
鬼鮫の身体がすぐ側にある。側にあるというより密着している。
…正直嫌だ。これ以上自分に負荷をかけたくない。余計な感情にリソースを割く余裕はないんだよ。
人を弑すことに差し足る意味はないと、そう言われたとき、どうしようもない気持ちになった。
ならばこの人は矢張り同じ轍を踏むしかないのかも知れない。いや、踏むんだろう。
私はそれをどうしようもない。
今こうして息をして血を通わせ、皮肉を言って人を煽るこの人が、馬刺を小屋に入れて霜の忍びを弑したであろうこの人が、私は愛おしい。生身の、今ここにいる規格外のこの男が愛おしい。ただ、愛おしい。仕方ない。そう思ってしまうのだもの。認めよう。
これがどういう気持ちなのかって、異性に対する好意なのかこの人の最期に対するくそデカ感情の代替なのかよくわからない。
幸せになってくれまいか。何か出来ることはないのか。
無力すぎて泣けた。
みっともない。こっちに来てから泣いてばかりいる。
ああ。でも。
鬼鮫を見上げる。
行きますと言った、その次の言葉を待っていたのか、目が合う。
…幸せになって欲しいなぁ…。
「荷造りします」
もう一度言って、通草の蔓を左手で千切る。それを青みがかった大きな手が止める。私が触れることでまた蔓が増殖するのを懸念したのか。躊躇いなく通草を引きちぎって、鬼鮫が解せぬという顔をして言った。
「本当についてくるんですか?」
…引っ叩いてやりたくなったが大人だから堪える。
「…ついて来いって言ったのはアンタでしょうが」
「ええ、まあそうなんですが」
「行かなくていいなら行きませんよ」
正直家から離れたくない。
留守中に誰かに家を荒らされたり壊されたりしたくない。祖父母の家がこれ以上蹂躙されるのは見たくないし、許せない。
足元に散らばる通草を見下ろし、壁に突き刺さった栗の木を見る。
「…はあ…」
溜め息が出た。
通草の山を超えて寝室へ行こうとして腕を取られる。
「…何ですか」
振り向いて尋ねれば、鬼鮫が何だか変な顔をして腕を放した。
「…逃げないで下さいよ」
今更逃げて何になる。
大体何処へどう逃げろってんだこのバカモノめ。こんな土地勘のない山奥で闇雲に逃げ出したって息を吸って吐くように当たり前に遭難するのがオチだろうし、第一何だって私が逃げなきゃならないんだ。
何か逃げなきゃないようなことをしたか?私が。ふざけるんじゃない。
あと無闇に触るんじゃないぞ。人をさんざ痴女扱いしておきながら何なんだ。距離感が壊れてんのはそっちだろう。後で物申してやる。
「逃げませんよ」
短く答えてさっさと寝室へ向かう。
いちいち動揺させるような真似をするんじゃないよ、全く。腹が立つ。
寝室に入って取られた腕を擦る。
「ホント…止めてくれ…」
呟きながら押し入れを開ける。MOZの肩掛け鞄を引っ張り出そうとして、それがズタ袋みたいな鞄に変わってるのに気付き、ちょっと笑う。お仕事が丁寧で非常に結構なことです。
必要なものを入れていく。手拭い、着替え…は居間の押し入れを見てみよう。鬼鮫は多分あっちから今来ているものを持ってきてくれた筈。こっちには動き辛い着物みたいなものしかない。薬関係もあっちだな。訳のわからないものもあったけど、まあ持って行った方がいい。ふと思い出して、押し入れの奥の小さな木箪笥を左手で開ける。…通帳の代わりに、現金らしきものの束が入っていた。
「…うん?銀行が、ない?」
もしくは口座が準備出来なかったのか。通帳の中身が現金になったのだとすれば三百万はある。
「なんたる不用心な…。文字通りのタンス貯金だわ」
手拭いに包んで鞄の底に収める。こんな大金持って歩くのは不安だけれど、まあ同行する相手があれだけ強面なら問題ないだろう。
同じ箪笥の二段目を開ける。ルドラグシャと星月菩提樹の腕守り2本と、銀製のスプーンリング。これは流石に変わりない。良かった。祖父母から20歳の祝いに貰った品だ。これが化けてたら絶叫するところだった。
手拭いで慎重に腕守りを掴みあげ、左手につける。スプーンリングはチェーンをつけて首にかけた。
ちょっと気が楽になった。お守りを身につけた気分。