祖父母は育ての親だ。父母は仕事や趣味で忙しく、あまり私に構わなかった。若くして親になったので、子育てよりやりたいことが沢山あったのだろう。そういう父母も好きだ。でも祖父母はもっと好きだ。
左手の腕守りを見る。
うーん。ちょっと危ないか?うっかり触って爆誕した、菩提樹の下敷きにでもなって涅槃入りしたら、洒落にならないよな。お釈迦様も苦笑いの馬鹿展開だ。
手袋だな。手袋。遮蔽物が要る。押し入れの衣装箪笥を見る。確か羊革の手袋があった筈。靴下が何足か何か足袋みたいになってるが見ないことにして手袋を引っ張り出した。
右手につけて息を吐く。
よし。まずこれでひと安心。…でもこれで生活するのは不便だ。後でちょっと手を加えよう。裁縫道具も鞄に入れる。
「則子さん」
「ひ…ッ」
不意に声をかけられてピッと背筋が伸びた。振り返れば戸口に鴨居へ手をかけた鬼鮫がいる。
「もう行きますよ」
「…随分急ぐんですね」
何でだ?
「行くと決めたならグズグズしないで行った方がいい」
あなたの気が変わると困る。と、いう言外の圧を感じる。
「行くと決めたからには行きますよ、ちゃんと」
鬼鮫を退けて寝室を出る。居間の押し入れから薬と着替え、そしてあの本。横手土産の湯飲みも持って行こう。鬼鮫が使っているのを見ていたら、寝かせて置くより使うのが正解な気がしてきた。4脚セットの、2個を持って行こう。あと、コーヒーと携帯用のドリッパー、千鳥の飛ぶ南部鉄器の小さな急須とメスティン。鹿角の柄の折りたたみナイフ。
「…重い…」
「…でしょうね。荷物なんか要りませんよ」
「要りますよ。あなたはどうか知らないけれど、私は要るんです」
途中何かの拍子で鬼鮫から逸れるなりーもしかして逃げたくなったりした場合、手ぶらじゃあっと言う間に詰む。まあ逃げたところで私がここに戻ることはもうわかられてしまっているだろうから、逃げることに意味はないとは思うけれども。
「因みに馬刺ですが」
鬼鮫に言われて反射的に目が尖った。
「連れていきますよ。でなきゃ行きません」
「連れて行く?何の為に?」
「置いてったら野生化しちゃうでしょうが」
「いいんじゃないですか?その方が」
く。確かにそうかも知れない。野生で生きていけるならその方が幸せかも。私が馬ならそうしたい。餌も潤沢だし、水場も近い。
だけど駄目だ。馬刺は元がサンバーディアス。軽バンだ。ハリー・ポッターじゃあるまいし、車は野生化しない。…しないよな?しないでくれ。馬刺が離れてしまうことに私が耐えられない。元の世界の生きた縁を手放せない。嫌だ。
「まあ…どうしてもというなら抱えて…」
「か?抱えて?」
道中馬を抱えて歩く気か、この男。
「抱えなければ一緒に移動出来ませんが?」
「ーえ?」
「あなたも抱えますよ」
「な、何で?」
「瞬身で移動しますからね。当然そうなります」
「ま…待て待て待てぃ!!!」
瞬身ってのは確か高速移動のことだった…よな。それが瞬間移動みたように見える…てことはだ。てことは。
「無理です。首がもげます」
「は?」
「は?じゃありません。頑丈なあなた基準で考えるんじゃない。普通に負荷がデカすぎて首がもげるか鯖折りになって死にます。馬刺は増して危ない。馬の首は長いですからより危ない」
「ああ。成る程」
「成る程じゃないだろ。死に体持って帰って何になるんだ?」
「…面倒ですねえ…」
「じゃひとりで帰ったらいいですよ。それがいい」
「歩いて行ったら少なくとも2週間はかかりますよ」
「…2週間も歩きたくないな…」
「だから瞬身で…」
「死体を持って帰りたいなら今殺した方が早いでしょうが」
「…成る程」
「私の死体に用があるんですか?」
「残念ながらそうじゃない」
「残念ながらって言葉がこんなに有難いのは初めてですよ」
「ふん?良い経験になりましたね」
「…そうですね。有難うございます」
「感謝には及びませんよ。しかし面倒ですね」
「私だって面倒です。行きたくもないところに2週間もかけて行くなんて、転げ回って暴れたいくらい嫌です」
「…止めて下さいよ、見苦しい」
「見たくない?そうですか。じゃやってやろうかな」
「止めなさい。時間の無駄です」
「自己主張くらい見守って下さいよ。そんだけ嫌なんですからね」
「我慢しなさい。いい歳をして何をする気でいるんです」
「童心に帰って駄々を捏ねる気でいますが」
「捏ねても大局に変わりありませんよ」
「そういうときにこそ繰り出すのが駄々でしょうが」
「…面倒な人ですねえ…。腹立たしい」
「私だって腹を立ててますよ。ムカついてるのはあなたばかりじゃない」