世は全て事もなし   作:エンギウック

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第52話

「…あなたも使うのかって、元々これは私の湯呑ですが?」

 

「そういえばそうでしたね。使いますよ。荷物に入れておいて下さい」

 

「自分で持って頂いても結構ですが?」

 

「私は荷物を持っていません。それを何処に入れて歩けというのです?」

 

「手で持って歩けば?」

 

「湯呑ひとつ手に持って歩く私は傍目にどう見えると思います?」

 

「今更湯呑ひとつで傍目がどうこうなりますかね?それ以前の問題では?」

 

「いいから鞄に入れておきなさい。割れても困る」

 

「…困るのは持ち主の私でしょうが」

 

「入れておきなさい」

 

「わかりましたよ」

 

「割るんじゃないですよ」

 

「わかりましたって。うるさいな、もう」

 

この口うるさいお母さんめ。デカい体に余計な母性を宿しやがって。たかだかひとつ上の男にお母さんムーブをかまされるとは思いもしなかった。正直訳がわからない。

 

「念の為聞きますが、あなた、あの馬鹿げた辛味調味料はもう持ってませんよね?」

 

鞄をじろじろ見ながら鬼鮫が疑心暗鬼の権化みたいな顔で聞いてきた。

 

「…持ってませんよ。ペッパーXはあなたが綺麗さっぱり殲滅しました」

 

「そうですか。わかりました」

 

「小屋から現の証拠と甘草をとって来ていいですか?」

 

「現の証拠?甘草?」

 

「胃があまり強くないので、常薬にしているんです」

 

「ああ…」

 

私の腹部に目を落とした鬼鮫が得心したように頷いた。

 

「では一緒に行きましょう」

 

「はあ」

 

何か警戒されている。が、まあいい。好きにしたらいい。

 

小屋に入って乾燥させた薬草の束を選り分ける。馬刺が摘まみ食いした跡が見られる。あの食いしん坊め。

床に置いてあった溶接用のゴーグルを持ち上げたのを鬼鮫が見咎めた。

 

「要らないでしょう?」

 

「…まあ、そうですね」

 

遮光プレートの裏に入れてあった小袋を手に滑り込ませ、薬草と一緒に握り締める。

 

「干柿さん。そこの麻袋を取ってください」

 

食器の入った箱の横に何枚が重ねられていた麻袋を目で示し、鬼鮫が背中を向けた隙に小袋だけ鞄の中にそっと落とした。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

薬草をガサガサと麻袋に詰めて、これも鞄に入れる。小袋の上から。

 

「薬草を使うんですね」

 

呟いた鬼鮫に顔を顰めて見せる。

 

「薬草乾かして使うくらいで薬師がどうこう言い出したら薬師が怒りますよ」

 

笑いながら小屋の外に足を踏み出したら、陽差しに目が眩んで目が回った。足が縺れる。

 

あ。あ。あ。

 

慌てて何かに縋りつこうと泳いだ右手が掴まれる。霞んだ目に鬼鮫が映り、一瞬視界が暗くなる。

 

パチンと頬を叩かれて星が飛んだ。

 

「また落ちるんですか?今落ちたら私はあなたを抱えてこの家を出ますよ?しっかりしなさい」

 

そ…そうか。それは駄目だ。また借りが増えてしまう。しっかりしなければ。

 

歯を食いしばって目を凝らす。視界が明滅して吐き気がした。

 

「…ぅえ…。ほ…干柿さん。ちょっと放して…。は…吐くかもしれない…」

 

「…仕方ない人ですねえ…」

 

仕方ないったって仕方ない。どうしようもないもの。

 

「かなり消耗するようですね。これは」

 

掴んだ手を吊り上げて、鬼鮫が測るように目を細めた。丈高い鬼鮫が吊り上げられ、力なくぶら下がる恰好になってしまうが抗いようがない。視界が狭窄する。気持ち悪い。

鬼鮫は楽しそうに私の顔を覗き込んだ。

 

「…ああ、そういえば朝食以来何も食べていませんでした。だから尚更なんですかね?一食抜いたくらいで脆弱な」

 

この…。

 

「言い返さないんですか?詰まらないですねえ」

 

口を開けば吐きそうで何も言えない。吐けば胃液しか出てこないだろうことがわかるから尚のこと吐きたくない。

 

「…面白い。本当に抵抗出来ないようですね。元から非力ではありますが、ますます何も出来なくなってしまう訳だ」

 

…コイツ…。…後で覚え…

 

生唾を飲みながら歯を食いしばったところで、皮手袋をするっと外された。

 

「…何を…す…」

 

辛うじて顔を上げて情けない掠れ声を出した私を、鬼鮫の目が一瞥する。それから素手の右手を確かめるように、ぎゅっと握ってきた。

硬く大きな手が熱い。…熱でもあるのか、この人。

 

握った手を開いて、三指を立て、頬に押し当て、額あてに触らせ、硬い外套を羽織った胸元に置く。

 

何かを確かめている。

 

多分、三指が何に反応するか見ようとしているのだ。

 

「…ふむ」

 

チラと私に視線をくれ、鬼鮫がちょっと笑った。

 

「腹を立てる余裕はありませんか?それとも嬲られるのは満更でもない?」

 

馬鹿なことを言う。呆れて目の前が暗くなった。

 

「仕方ない。寝ていいですよ。妙な真似をする気はありませんから気兼ねなくどうぞ」

 

吊るされていた手が下ろされる。がくんと体がくず折れて、膝が地面についた。

 

「立てますか?」

 

…立てるか馬鹿と叫びたいが、我慢する。気を失うのは嫌だった。

 

とはいえ、どうあがいてもこの状態では出立ち出来ない。

 

「…寝かせて、下さい」

 

「ほう?」

 

「ちょっとだけ…」

 

ぺたんと地面に倒れ込んで目を閉じる。

 

「このまま。すぐ、起きるから、触れないで」

 

鬼鮫の返事はなかった。返事をしなかったのか、聞く前に寝落ちたのか。

 

ーわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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