「そうですね」
当たり前みたいに答えて鬼鮫が顎を上げる。下らないことを聞くなという仕草だ。
解せない。
「どういう不測の事態を想定してます?」
尋ねれば鬼鮫はまた呆れ顔をした。
「不測の事態ではなく、あり得ることを警戒しています」
「あなたが私にあるとしている用と同じ用を持つ人がいると、そういうことですかね」
「概ねそういうことです」
「私は誰にも用がありませんが」
「…あなたの用なんか誰も知ったこっちゃないんですよ」
「ああ、それは怖い事ですね」
「わかったら大人しく言う通りにしなさい」
「…わかりました。干柿さんもお風呂に行きますよね?」
大人しく頷いたら鬼鮫が変な顔をした。しかしいちいち変な顔をする人だな。反応に困るからもう少しポーカーフェイスを心掛けてくれまいか。…多分私も人のことは言えないんだろうけれども。
「お気遣い頂かなくてもそうします」
「あなたこそ体を休めて温まって下さい。またご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」
言いたいことは沢山あるが、まずは骨を折ってくれたことへの感謝を伝えなければならない。大したことじゃないとは言うけれど、こっちからしたら大したことだ。馬刺は大丈夫だろうか。しかしまさかそんなに走れる馬だったとは。流石元が車だけはある…てことか?
考え考え、無意識にまた浴衣を掴んで部屋を出かけたら後ろから頭をパンと叩かれた。
「…痛い」
振り向くと鬼鮫が目を細めてこちらを睨んでいる。
「話を聞いてましたか?」
「聞いてましたよ。叩きましたね?」
「聞いてたんなら何でそれを持って行こうとするんです」
言われて初めて浴衣を抱えていることに気付く。
「あれ?」
「あれじゃないですよ」
「だって温泉といえば浴衣でしょう?湯上りは浴衣じゃないんですか」
「遊びに来てるんじゃないんですよ」
「仕事でもないじゃないですか」
「…確かにあなたは仕事じゃないでしょうがね」
「折角の温泉なのに…」
「さっきわかりましたって言いましたよね、あなた?」
「心霊現象でも構わないかな…」
「いい歳してなんですか、その聞き分けのなさは」
「あなたこそいい歳して気安く人を叩かないで下さい。子供じゃあるまいし」
「私は…」
「そういう筋の仕事をしていたとしても日常的な暴力は別物でしょう」
「ほう?」
「その別が付くのが大人ってもんでしょう?」
「あなたは付くんですか?その別が?」
「付かないですね」
「…則子さん…?」
「だからこういう幼稚な言い合いになる。お互い大人になりましょう。そうしましょう」
「はあ」
鬼鮫が大きな手で額から顎まで顔を撫で下ろした。
「わかりました。どうでも着たいなら着ればいい。お好きにどうぞ」
あれ?何だか浴衣マニアが浴衣に拘って訳のわからない我を通したような恰好になってしまった。大人になろうと言っておいてここで要らない我を通したら、私だけ幼稚なままじゃないか。
ここでふと目が覚めたとき聞こえてきた会話を思い出した。
二泊一部屋って言ってたな。どの道浴衣を着てのんびりするような状況じゃない。
腹が決まった。
「いや、ごめんなさい。ちゃんと持って来たものを着ます。浴衣どころじゃない」
「…何ですか急に。気持ち悪い。好きにしろと言ったでしょう?」
「いや、大丈夫。予測される事態に備えませんと」
「いいですよ。私が対応出来る程度の事態なら、そこまで警戒しなくともいい」
「あなたが対応出来る程度?」
聞き返すと、鬼鮫は口角を上げて顎を引いた。
「さあ?それがどこまでのことなのか、今のところは測りかねますね。それこそ不測の事態が起きないとも限らない。それは否定出来ない」
意味深なことを言うと思った途端、大蛇丸の顔が頭に浮かんだ。消毒液が匂ったような気さえした。
ちょっと口元を押さえて咳払いしたら、鬼鮫は腕組みを解いて両の手を脇に垂らした。
「私は兎も角あなたは…」
私の腹部に目を走らせ、窓の外に視線を逸らして鬼鮫が息を吐いて肩を上下させた。
「脆弱ですからね。警戒はすべきだ」
「確かに私はちょっとばかり胃は弱いですが、あとは頑丈です」
「だといいですけどね。それは追々私が判断しますよ。今日のところは好きにしなさい」
そう言われたら反ってやり辛い。
「さあ、風呂に行きますよ」
…さあ?
「一緒に行く気ですか?」
「一緒に行ったって構わないでしょう?何も同じ湯舟に入ろうって言うんじゃない」
当たり前だ。何を言うか。
鬼鮫が眉を上げる。
「警戒“出来る”のは私です。あなたは警戒”出来ない”。あなたがのんびりしたいというなら、その分私があなたに貼りついて警戒することになる」