「あ、そういうの要らない。もう全く浴衣どころじゃない。何ならその外套を私が着ます。この状況で浴衣を着てあなたに貼りつかれるくらいなら着辛くて固くて重たくて半乾きの外套を着た方がマシです」
「…また可愛げのない事を言う」
「何でそんなに可愛げを欲しがるかなあ。そんなに欲しけりゃ自分でお持ちになったら如何です?可愛げ」
「私が可愛くてどうするんです…。何になるんですか、それが」
「それはこっちも同様ですよ。もういいから。わかった。一緒に風呂に行こう。浴衣は着ない。あったまったらお互い勝手に部屋に戻る。それでいい?」
「はあ…」
「話し辛いな。やっぱりもうちょっとまともに話をしなきゃ駄目だ。あなたも私も、お風呂からあがったら何か食べて、ちゃんと話す。前後不覚になった私が悪いとは言え、なあなあでここに来てしまっています。ちゃんとした説明を受けていない。ー家に鍵はかけてきました?」
「かけましたよ。どれだけ意味があるかわかりませんがね」
「そういうネガティブなことを言わない!帰りたくなるでしょうが!」
大体そんなこた言われないでもわかってる。ここじゃ私の常識だったものは通じない。
なら覚えるまでだ。常識を書き換えるまで。
…その途端あっちに戻ることになったらどうするんだ?
とか!
もういい。
わからないまま振り回されて脆弱だ警戒出来ないだ、自分の世話も自分で見れないままでいて堪るか。
私はここでも私の生き方をする。誰かに左右されたりしない。自分で先行きを選んで、自分の足で歩いてやる。
右手を握り締める。
これだ。
これを使いこなしてやる。
露天風呂の石造りの湯船の縁に、羊歯や猩々袴、這苔や蛇苔が生え寄っている。
泉質が優しいのか、育ちが良い。
濃い緑や黄緑の混ざり合った苔はフカフカと柔らかに生え延べ、裸足で歩けばさぞ心地よいだろうと思わせる。羊歯は健やかに羽片を伸ばし、猩々袴は石の隙間から生え出て、湯気に濡れた深緑色の厚く艷やかな袴を煌めかせている。
薄明るい曇天の日差しの中鳥が囀り、宿を囲む山毛欅、水楢、栃の木に桂、谷空木や山紅葉が雨露を滴らせて微かな風に葉擦れを鳴らす。湯気が揺れて、水気が匂う。
頭と体を洗い清めてから少し熱めのお湯に身を沈めて、暫しぼうっとしていた。
体温より熱いお湯がじわじわと身体の熱を上げていく。
…気持ちいいな…。
何だか久し振りに、まともに呼吸したような気がした。
源泉がチョロチョロと湯船を満たし、透明な泉水の中で屈折した鈍い日差しがくらくらと揺れる。
湯船の縁に背中を預け、両の肘をのせて空を仰ぐ。
あー…。気持ちいい…。
が、逆上せそうだ。
まさか裸で倒れて運び出される訳にはいかない。それでなくても真っ黒な歴史が並ぶ自分史手帳に、脇が甘いにも程がある黒歴史が要らなく上書きされてしまう。
湯船から身体を引き抜くように立ち上がり、縁石に腰掛ける。
熱を持った身体に雨上りの外気が程良く心地良い。
温泉は変わりなくあるんだな。有難い。
地元も周囲に温泉が多かった。居住地から少し行けば山も深く、険しくなる。
違う世界にいるとはいえど、親和性を感じる。
距離にして30キロ程度。元の世界でも丁度それくらいの距離に温泉があった。あっちの地理であれば、もう少し行けば更に豊富に湯の湧く温泉地に入る。
…どの方向に進んだんだろう。
生い茂る広葉樹林の見慣れた様な気がする木立を眺め、ふと考えた。
多分鬼鮫は暁のアジトに向かっている。そのアジトは何処にある?
地図を見たいな。自分が何処にいるのか知りたい。
温泉街ならものを売る場所もあるだろう。地図を買おう。地図が手に入れば鬼鮫に頼らずとも、家から町場までの道筋も距離も理解出来る。
何かしようとするたびにいちいち鬼鮫を基準に考えて理解しようとする自分が嫌だった。雛の刷り込みではあるまいし、こういう形の頼り方は鬼鮫にも失礼だ。鬼鮫はこの世界の鍵ではない。私の推しでもない。ただここに生きている一人の人だ。
元の世界から持ち込んだ感情をのせて見てはいけない。そうしてしまっているから尚更自戒しなければ。少なくとも絶対にそれを本人に悟られてはいけない。
簡単な話ではないのだ。一人の人間の結末を知っているということは。
そこに至るまでのその葛藤を、誰にも知られていない筈の苦しみを痛みを、誰かに、意味もなく知られているという尊厳破壊。
私がこの世界から逃れられないとして、いや逃れたとしても、これは私が墓場まで持っていくもの。干柿鬼鮫本人が他に知らしめようとしなかったものを、私が明かすことは許されない。
だから、私は何故鬼鮫に抱き着いたか、好きと言ったかを明かすことは出来ないし、何処からここに来て奇妙な齟齬を起こしているかを話せない。それは突き詰めて話してしまえば鬼鮫の尊厳を損なうことに繋がるから。
話せたら楽なのに。
すとんとお湯に身を滑り込ませ、目線の間近に密集する苔を眺める。
蛇苔の艶艶しい、蛇の鱗のような網目模様をじっと見るうち、気持ち悪くなってきた。
大蛇丸がまんま連想された。
あまり考えたくないな、と思う。意味深な言葉を突き詰めれば絡め取られる気がした。
でも、絡め取られてもいいという気持ちがある。
だから怖い。
だってもし帰れたら?なら帰りたい。
ほら。
それが許せない。
今ある現実を受け入れろ。寝て起きて、またここで目覚める以上、これが現実。
揺らめくお湯の中で右手を握り締めた。
痛みはない。いつもの私の利き手。別になんてことのない、私の手。
「緑の指だよ、おじいちゃん」
呟いて目を閉じる。
「秘密の花園が作れちゃうよ。おばあちゃん」
呟いて目を開ける。
お湯から右手を差し抜いて、苔の上にそっとのせる。ふかっと掌が沈んだ。
気持ちいいな。
苔と、苔の下の地面から泉水の湧き出る音が振動で伝わって来る。
ぐぅ。
ー何ならついでに腹の虫の音が更に力強い振動で身内を震わせた。わあ、正直な私の身体。
苦笑いして苔から手を離そうとしたその刹那、どぐんと心臓がなって脈が跳ねた。ばくばくと心臓がおかしげに波打ち、息が上がってきた。
そして。
さっきまであれほど生き生きしていた下生えの植生が、一面ぞろりと枯れ果てている。
え?え?…え?
ぎょっとして咄嗟に手を引っ込めたその手形が、焦げたように黒く枯れた苔の上に残った。