殊に三指の跡が色濃く黒い。
耳の中で血管を凄い勢いでどくどくと流れていく血流の音がした。どっどっと脈が、心拍数が上がる。
血糖スパーク?不整脈?
心拍数が度外れて上がっていく。
どうした?何だコレ?ヤバい怖い。
「だから慣れときなさいって言ったでしょう?」
熱を持った耳にひんやりした声が滑り込んで来た。この声。話し方。
乱れていた脈がまた跳ね上がる。
「と言ったところで、一朝一夕には無理よね。でもちょっとは頭に入ったかしらね。身に染みたって言うの?前は溜まった分を吐き出して、今度は足りない分を奪った。まあ収支は合ってるんじゃない?律儀なこと」
木立の木陰、曇天の淡い日差しの透ける濃い陰の中、山躑躅の咲き乱れるその合間にうっそりと染みのように佇む姿が目に入った。
「過摂取」
辺りを見回しながら染みがガサと枯れた苔の上に足を踏み出した。
その足元で砕けて粉のようになった枯苔を見下ろし、大蛇丸が目を細め、口角を上げる。
「面白い。もしかして経口摂取しなくても生きていけるかも知れないわね、あなた」
何が面白いものか。素っ頓狂の極みみたいなことを言うんじゃない。
「また行き詰まってるわねえ?」
深呼吸する。
まあ、動悸は収まらない。が、腹は座る。
「先ず言わせて貰っても?」
「何?」
言いながら近づいて来る大蛇丸に掌を立てて腕を突き出し気力を張って大蛇丸を睨む。
「ここは女風呂です。あなた自身の性自認がどうなっているか知りませんが、周囲への気配りは性の彼我に関わらず必要最低限の社会的ルールです」
「何が言いたい?」
「おっさんが女湯に我が物顔で入って来るなと言っている。先ず出て行って下さい。ここで話は出来ません」
「話にならないわね」
「話になるならない以前に文脈がなってない。先ず出てけですよ。他の客が来たらどうします?温泉を楽しみたい善良な一般市民にトラウマを植え付けるような真似をするなと言っている。人生の思い出の一頁にあなたを刻みつけてどうする。市井の人間とは違うスタンスでいるなら境界線は自ずから引くべきでしょう。かくあるべきこそ強者の理屈たれ。そうあるべきです」
「べきべきうるさいわね」
「こっちはどくどくしてそれどこじゃないですわ。湯舟から上がりたい。あなたがいるからそれが出来ないんですが?わかりますか?」
「上がったらいいじゃない。てか上がりなさい?何で上がらないの?逆上せるわよ?」
「いいからあっちへ行け。先ずあっちへ行け。世の中には自分以外にも物を感じて考えている生き物がいることを知覚して下さい。あなたが平気でも私が嫌なんですよ。わかりますか?」
心臓を拳で叩いて咳き込む。心臓を捧げ損なったポンコツみたいなポーズで咳き込む。いやもう、無垢の巨人の方がまだ話が通じるのでは?
そんな私を見て大蛇丸が呆れ顔をした。
「上がりなさいよ」
何たる腹立たしい。この世界の公共ルールはどうなってるんだ。忍なら何をしてもいいことになってるのか。いい加減にしろ。
「服を着ていませんが?」
「全然興味ないから大丈夫よ」
「それは何よりですがね。自分以外の生き物を知覚しろと言っている」
「してるわよ?だから話しかけてるんじゃない」
「わかった。わかりました。自他の差を認識して下さい。あなたの認識で他人の認識を上塗りしてはいけない」
「私にはそれが許されるのよ。それだけのことをしてきたんだから」
「誰でも許すとは限りません」
「そう?許せるか許せないか試してみる?気が変わると思うわよ?」
「…どうでしょうね。試してみなきゃわかりません」
耳鳴りがしてきた。大蛇丸が胡乱に笑う。
「まあアンタの認識なんかどうだっていいのよ。どっちみち」
「そうですね。一貫してそう見受けます」
「まず上がりなさいよ。そして服を着ないと話す気になれないなら着替えなさい」
「…いやもう…着替えたら部屋に戻って寝ますよ。あなたどころの話じゃない…」
「鬼鮫のいる部屋に戻る?」
「さあ。いますかね。まだ風呂に入ってりゃいないんじゃないですか?水を得た魚が烏の行水をするかどうかなんて私の知ったこっちゃない」
「出来てるの?」
背中を向けた大蛇丸が嘲笑含みに言った。
だっは!
内蔵がゲロみたいに飛び出るかと思ったが、まあ普通に出なかった。フラつきながら葦簾張りの脱衣所で、体を拭くのもそこそこに着衣する。
いや、ガチで浴衣なんか着てなくて良かった。動き辛くて往生するところだった。ありがとう、干柿さん。
こめかみが痛む。本当にこっちに来てからロクな目にあってない。何の因果でこんなことになっているのか。もう馬刺に飛び乗って地平の彼方目指して駆け出したい。
今後の活躍にご期待下さいっつって何もかも投げ出して逃げ出したい。
「ねえ」
不意に耳元で囁かれて背筋が凍った。ひっと身が縮まる。
目をぎゅっと閉じて俯く耳元で、更に囁き声が鼓膜を震わせる。
「見て見なさいよ。皆枯れちゃってるわ。アンタがやったのよ、これ」
背筋が凍った。
枯れ果てた苔。具には見なかったが、他の下生えもきっと枯れている。
「どう?飢えは満ちた?」
どっと目の前が暗くなる。
「何でそんな顔をするのかしら?いいじゃない。必要だから奪ったんでしょ?それをするだけのものがアンタにはある」
脇の下から腕が差し伸べられ、右手の三指が掴まれた。
「知るべきことがあるのはわかってるんでしょう?私と来なさい」
掴まれた三指が動悸に合わせて脈を打っている。
そうだ。私が枯らした。枯らしてしまった。ああ。嫌だ。嫌だけれど、今の私にはこれしかない。
湿って冷たい手の感触に脈打つ三指の熱が奪われていく。
「知りたいんでしょう?使いこなしたいんでしょう?」
知りたい。使いこなしたい。やりたいことがある。
あの人に生き延びて欲しいように、私も生きたい。
不意に楢の木を揺らして鳥が飛び立った。雨露が落ちかかり、バサバサいう羽音。飛ぶことに特化した骨組みと、筋肉と羽の奏でる血肉の音。
三指を握る手が、寸の間弛んだ。すかさず引き抜いて葦簀に触れる。
「……ッ」
枯れた葦簀がぶわと膨れ上がるように芽吹いた。尖った葦の葉先が一切に襲い掛かってくる。背後にあった気配が動いた。足を踏み切って前に出る。息を詰めて身を屈め、葦簀の下をくぐり抜けて宿の中に駆け込んだ。目が回って戸口に勢いよく右半身がぶつかったその拍子に三指が引き戸の縁を掴む。掴んでしまった。
どんと軽く足元が揺れて杉の木が横ざまに生え伸びた。
慌てて引き戸から手を離し、走った。
宿の廊下を、右手を押さえながら。