世は全て事もなし   作:エンギウック

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第58話

則子を害しないとは言い切れない立場でそれらしく思いやるような態度をとることが、浅ましく感じた。

出しかけた手を握って、ただ則子を見る。

 

「あなたと霜の国に関わりは?」

 

「全くありません。…それこそ移動してきたばかりですから」

 

ー移動ー。引っ越しではなく移動。

 

「何故霜に移動を?」

 

「止むを得ずです。そうは言っても事情はありません。ただ、移動してきた。私が霜を選んだのではない。霜も知らなければ薬師も知らない。私はあなたが関わる務めに、私の知る限りでは関わっていない筈なんです」

 

言い回しが曖昧過ぎるものの何が言いたいかはわかる。つまり、やはり何もわからないと言っているのだ。苛立ちが湧いた。が、押さえて則子の右の手を取った。

 

「あなたのこの手。移動してきてから発現したものと見受けましたが」

 

則子が自分の右手を見ながら頷いた。

 

「そうですね。前はこんなことありませんでしたから。同じことを聞いてどうするんです?家でもそう答えた筈ですが?」

 

「何故こうなったかの覚えはない?」

 

「あったら随分気が楽になるでしょうね」

 

苛立たしげに即答されて、口角が上がった。

 

「わかれば気が楽になる?」

 

「わからないままが一番怖い」

 

同感だ。

ならわからないことを理解出来るよう話を話を進められる筈。

 

「私が知る限りあなたは傾眠傾向が異様に強い。これは以前から?」

 

「いいえ。私はむしろ不眠傾向で更には短時間睡眠の傾向もあります。眠りは浅く、幾ら夜更かししようと定時には目が覚める。倒れ込んで前後不覚に寝入るなんて今までなかった」

 

傾眠状態は右手の異変が発現する予兆から始まって、今はその力の消費によって引き起こされているのではないか?

ならば則子は体を削って力を使っていることになる。

 

「ちょっと放して下さい」

 

私の手から右手を抜いて立ち上がろうとした則子が横様に倒れた。咄嗟に手が出て則子の肩に腕を回す。

 

「…何をしてるんですか」

 

舌打ちしたい気持ちで忌々しく尋ねれば、性懲りもなく則子が立ち上がろうとする。

 

「いや。気付けにコーヒーを飲もうと思って」

 

…馬鹿者め。

 

「水にしなさい」

 

「なら一服していいですか」

 

溜め息が出た。

 

「後にしなさい」

 

則子も溜め息を吐いた。

 

「もう、どうでもいいから兎に角息を抜きたいんです」

 

「温泉で息抜き出来ませんでしたか」

 

「温泉なんかもう当分いいです。特に露天は駄目です。いつ変質者が現れるかわかったもんじゃない」

 

「何があったんです?」

 

「別に何も」

 

すぱっと言って則子は一枚板の卓に肘をつき、頭を抱えた。

 

「あー、もう喜びがない。きつ過ぎる」

 

「喜びなんかそうそうありませんよ。期待し過ぎないことです、則子さん」

 

衷心からそう言うと、則子が青い顔に呆れの色を浮かべてこっちをちらりと見た。

 

「そういうところだ、干柿さん。もうちょっと前向きに人生を捉えて喜びながら生きていい。あなたは」

 

何を知ったようなことを。鼻白みかけて、思い直す。私自身則子に対して余計なことを言った。期待し過ぎるな?そんなことを他人に言ってどうする。下らないことを言ってしまった。

 

則子が緩慢な動作で鞄をまさぐりながら苦笑いした。

 

「ハチワレ構文に真面目に付き合わなくていいのに」

 

「はちわれ?」

 

「あー…ハチワレってのは、友達思いで線引き上手な猫」

 

「…そんな猫いるんですか」

 

「いるところにはいる」

 

投げ遣りに言って、則子が湯呑を取り出した。

 

「お茶を淹れます。飲みますか」

 

疲れた声で聞かれて眉間に皴が寄る。

 

「私が淹れますよ」

 

「結構です。私が淹れます」

 

いや。というか。

 

「お茶は要りません。あなたも水を飲みなさい」

 

湯呑を取り上げて、飲み口を掌で覆う。

 

これで飲むのはお茶ではない。

 

「お茶も駄目とか…」

 

ほとほと疲れた様子で則子が顔を上げた。目の下に隈が浮いている。

 

「じゃビールを持って来て…あぃた…」

 

「ああ、失礼」

 

思わず手が出た。則子がこっちを睨みつける。

 

「また叩きましたね」

 

「睨む元気が出たようですね。何よりです」

 

手前に並べた湯呑を鞄に戻して鼻で笑う。鼻で笑う自分をまた笑う。

 

この湯呑で飲むのはコーヒーだ。お茶でもビールでもない。

 

「もういい。寝ます。起きるまで起こさないで下さい」

 

うんざりしたように布団に這い戻って倒れ込んだ則子の寝姿を見やり、その形を目でなぞり、瞠目した。

 

「傾眠傾向はその右手のせいでしょうね」

 

窓表へ顔を向け、窓越しの景色を眺めて話を戻す。

 

「…寝かせて下さいよ」

 

則子が面倒そうに答える。が、忖度する気はない。話せるときに話しておかなければ。

 

「制御出来ていないから身体に支障を来しているんだと思いますよ」

 

「かもね」

 

かもね?

 

「慣れて覚えていくしかない。そういうことです」

 

紙に書いた文言を読み上げるような、感情ののらない小さな声が溜め息混じりに吐き出される。

 

 

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