「これがあなたにとってーあなたたちにとって不都合なものだとしても、私にはどうしようもない」
最早呟きに近い小さな声が力無く告げる。
「これは今私が持つ唯一のものです。…奪われるばかりの現状の、どうしようもない唯一のギフト」
譫言のような言葉が次ぐ。
「どうしようもなくても、何とかしたい…」
「つまりあなたはそれをどう使いこなそうとしているのです」
無防備に独り言し始めた則子に静かに尋ねた。初めて核心の一部に触れられそうな場所にいる。則子の言葉の鎧が弛んでいる。
「…私は…」
身を縮めた則子が、溜め息と共に吐き出した。
「生きたいし生きて欲しい。だから、何が出来るか考える」
生きたいし生きて欲しい。
ー誰に生きて欲しい?何をしようと考えるんだ?
誰のことを考えている?
則子が寝息を立て始めた。起こそうかと思って止めた。覚醒すればもう無防備に譫言は言わないだろう。そうなれば何かを聞き出すのは困難になる。
それに本当に則子は混乱している。何もかもわかっていないようにしか見えない。それを自分自身もどかしく思って藻掻いている。そう見えた。そうとしか見えなかった。
ただひとつ。
則子は目的を持っている。
誰かの為に何かを考えようとしている。それ故に不便だ、どうしようもないと言いながら右手の異変に向き合おうとしている。
誰の為に?何の為に?
立ち上がって枕辺に寄る。則子の左の手首に腕守りが二連、植物由来のものに見えた。飴色に黒い斑のある鉱物とは違う質感の玉の連なりに紅翡翠が三つ配されたもの。もう一つは明らかに何かしらの種子を連ねた赤焦げ茶色の不思議な質感のもの。
これは何だ?
訝しみながら念の為外して卓の上に置いた。植物由来のものだとして、うっかり発芽暴走させられては敵わない。
首元からは重たげな指輪を連ねた鎖が垂れて、顔の傍、布団の上で鈍く光っている。こんなものもつけていたか?家を出るときに持ち出してつけたのかも知れない。だとすれば大切なものなのだろう。
流石に首元からそれを外すのは憚って、掛布をかけた。
暁にこの人を連れていったとして。
考える。
この人をどうすべきか。
このままでは末路が見えている。
無為な犠牲にはしたくない。
…使いこなす。ああ。そうか。
則子の台詞を思い出し、思考の軸が動いた。
使えるものとして連れ帰る。その価値はある。資金稼ぎの一助になるとすれば、少なくとも財源を管理する守銭奴や組織運用に頭を悩ます苦労人にはつけ入る隙がある。初めから違う視点で則子を見るよう誘導すれば、排除対象どころか…。
布団越しに則子の肩に触れる。
深く規則的な寝息で肩はゆっくり上下し、その”生きている兆し”が妙に生々しく感じられた。
風呂に入っているときに何があったのかを確認しに行きたいが、今則子の傍を離れるのは気が進まない。自分が居ぬ間に目を覚ました則子が何をやらかすかわからないからだ。目的を持っているのであればその為に逃げ出す可能性が排除できない。暁への同道が目的の遂行に添わないのであれば大いにあり得ることだ。
人が居て生活が営まれている場所に紛れ込まれてしまえば見つけ出すのは困難になる。木を隠すなら森の中。市井の人間だからこそ里や町場では痕跡が辿り辛くなる。まして人の出入りの激しい温泉街とあっては尚更だ。
則子は馬鹿ではない。その気になって本気で逃げようとするならば、小賢しく策を弄して痕跡を隠しながら立ち回るだろう。馬刺を連れていれば目に付き易くもあろうがそれで万一山側に逃げ込まれれば捜索の範囲が広がり、探すべき方角の特定も出来ないまま手をこまねくことになりかねない。
何より、私に先んじて霜が則子を見つけたらどうなる?ー霜の張った奇妙な術に関わったかも知れない何かが則子を見つけたらどうなる?
いずれにせよ任務の成果が丸ごと消えてしまえば、何をどう言おうとこの先則子の身の上に干渉する立場には立てなくなる。
ここまで考えて苦笑いした。
何故干渉出来る立場に立とうとするのか。
答えは簡単だ。
この女が、則子が先に私に干渉したからだ。
抱き着き、好きだと言い、間抜けでいろと言い、喜びを否定する私を否定した。
それが何からう萌したものなのか掴めていない。それが知りたい。何故私を、この私をー求めたのか。
下らない私事、私情だ。けれど私事の、私情の引っ掛かりを追求して何が悪い?その権利すら自分にないとは思いたくなかった。それすら許さない硬直した生き方をしているとは思いたくなかった。
簡単に出た答えの先に何があるのかはわからない。わからなくていい。わからないからこそその先がある。