世は全て事もなし   作:エンギウック

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第6話

「…まだ何か話す気でいるんですか?」

 

うんざりして襖の縦枠に手をかけて振り向くと、コーヒーを飲みかけていた鬼鮫が眉を上げて見返してきた。

 

「台所、直さなくていいんですかね?」

 

「え?直す気でいらっしゃる⁉本当に?誠に⁉」

 

スライディングで座り直したら心底嫌な顔をされた。

 

「着替えてきて下さい。話し辛い」

 

「善は急いで鉄は熱い内に打つべきです。あなたの気が変わらないうちに確約を頂きたい」

 

我ながら漢らしく力強い声が出た。

いつもは声が小さくて聞き返されるばかりの私からこうもデシベルの高い声が出るとは…。

理屈っぽさを気にかけず話せるって機能的だな。推しも理屈っぽくて良かった。

 

「…いくら何処もかしこも平べったい一反木綿もかくやな貧相な身体でも、慎みは持つべきですよ?一応確認しておきますが、あなた女性でしょう?」

 

「あらぁ。きっついこと言いますね。如何にも私はフェメールです」

 

「雌ではなく、女性でしょう?きちんと服を着なさい」

 

「何でここにきて口うるさいお母ちゃんテイストが出てきました?」

 

「…私が母親に見えるのなら、あなたは眼鏡の替え時です。眼科に行きなさい」

 

「…何故私が眼鏡者だとご存知で?」

 

「あなたを布団に寝かせたとき、枕辺に眼鏡が剥き出しで置かれてましたよ。不注意すぎる。いずれ踏み壊しますよ、あなたきっと」

 

「あーあー、眼鏡の心配まで頂いちゃってすいませんねぇ。ホントウにアナタはコマヤカでオモイヤリに溢れたナイスガイだ」

 

「何です、その片言は?」

 

「何って…。皮肉ですが?」

 

「ああ。やっぱりそうですか。あまりに幼稚なので他意があるのかと思いましたが、そのままでしたか」

 

「他意も鯉もありません。私はただストレートにあなたをイラッとさせたかっただけです」

 

「…いい度胸ですね?」

 

「人を一反木綿扱いした挙句誰が鳥の雌雄を知ろうかみたいな言い回しで性別を疑われた日には人格否定の否定の為に立ち上がりますよ、そりゃ私だって」

 

「…変な人ですねえ…」

 

呆れを通り越して感心したような干柿鬼鮫に胸が痛む。

 

推しにここまで呆れられるのは流石に本意ではない。

ないけれど、台所は直して貰いたいし、正直そろそろ立ち去って貰いたい。

 

この人がいなくならなければ夢は終わらないんじゃないか?

何なら私は夢をみているのではなく、睡眠中に何らかの異状を来たして意識不明になっているのでは?

三途の川を渡る代わりに変に詳細な明晰夢を走馬灯のようにみているのかも知れない。

 

ストンとテンションが落ちた。

 

「…着替えてきます」

 

「はい、どうぞ。今度こそきちんと着替えてきて下さいよ?」

 

「そうします」

 

すぅっと襖戸を閉めて、全壊した台所を横目に寝室に戻る。

血塗れの布団が生臭い。ファブリーズを撒き狂ってやろうと小箪笥を開けたら、そこには薄荷油の小瓶がぽつねんとあった。

 

「…せめて大瓶にしてくれ…」

 

小箪笥に額をつけて脱力する。

 

腹がぐうと鳴った。額をついた小箪笥の木肌がひんやりしている。血生臭さが鼻につく。外から風に吹かれた樹木の葉擦れが聞こえて来る。

 

生々しい。

 

どうしようか。

目が覚めなければどうしよう。

全然都合良くない夢か走馬灯の中でも、飢えるし傷付くし死ぬのだろうか。

 

そうすれば目が覚める?

 

試して目が覚めなかったら?

 

私は今ここにいる。

夢だとしてもここにいる。夢が終わるまではここにいるしかない。

 

それなら生きる方向を考えなくちゃならない。

 

「…会社はどうなってるんだろ」

 

勤め先は絵を本を売る飲食店だ。昼はカフェ、夜はバル。絵と本の販売ブースと飲食ブースが分かれていて、私は絵と本を売るブースで児童書を担当している。

 

「…こりゃ昼は定食屋、夜は居酒屋になってても全く不思議じゃないぞ?」

 

小箪笥に頭をついたまま、畳の上に力無く投げ出した掌の中の薄荷油を眺め、溜め息を吐く。

 

それも悪くはないけれど、職場そのものがなくなっていたらどう生計を立てたらいいんだ?

先立つものを稼がなければ、後にも先にも生活が成り立たない。

 

また腹の虫が鳴った。ぐうと力強い鳴き声だ。腹の虫までデシベルを上げてきている。

 

がっくりきた。

 

着替えたら先ず何か食べよう。

 

小屋には缶詰や米もある。

庭の家庭菜園と梅や山椒はあるだろうか。一緒に来ていてくれたら心強いんだけれど。

 

確認しようかと窓に手をかけて止める。

 

窓を開けたら干柿鬼鮫が顔を出してきそうに思えたからだ。

何故かはわからないが、逃がしませんよと言われるような気がする。逃がすも何も、推しに追われる謂れは全くないが、そう言われそうな気がした。

 

よくわからない変な女に興味を引かれているらしい干柿鬼鮫の気をそらさなければならない。

 

だって関係ないからね⁉

推しが私に仕事を斡旋してくれるか?する訳ない。ありゃそういう男じゃない。

なら関わってる場合じゃない。

 

干柿は遠くにありて思うもの。そしてただただ愛でるもの。

 

振り回されて行き暮れる訳にはいかない。

 

台所の修繕の手筈が整ったら早々にお立ち去り願おう。

 

ーいや、その前に色々聞いておかないといけない。

ウォーターサーバーが保温ポットになり、ファブリーズが薄荷油に化けるこの世界の色々を。

 

 

 

 

 

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