ふと則子が右手につけていた羊革の手袋が見当たらないのに気付いた。脱衣所に置いて来たのか。
いよいよ何かあったのだろうと確信する。則子は間抜けだが、用心深くない訳ではない。用心深いからこそここまで私を煙に巻いて対話し続けてきている。
胡乱な予感がした。宿払いを考える。
とは言え野宿が安全だとも思えない。それを測るには用心すべき相手の力量を知る必要がある。
わからないのが一番怖い。
その通りだ。それを解消する為に私は動き、考える。そうし続けて来た。その都度とらざるを得なかった最良、最適な道を自ら選んで今こうしている。信じたことも裏切られたことも、また裏切ったことも切り捨てたことも、皆その都度判断した最適解。ついた傷の痛みは飲み込み、つけた傷の恨みは薙ぎ払い、ただ目の前の目的を遂行する為に生きて来た。
卓に肘をつき、額を片手で覆う。
やり方は変わらない。ただそこに他人が関わる部分が生じただけのこと。則子という脆弱で厄介な他人が。暫くは是非もなくこの女の面倒を見る。私が納得いく答えが出るまでは。
ふと傍らに置いた鮫肌が蠢いているのに気が付いた。物思いしていた分、過剰な反応が起きて身内に緊張が走る。咄嗟に柄に手を伸ばし、なのにその手が空握りした。
「……?」
鮫肌が身を捩るように蠢いている。
「…何をやっている…」
言いかけて晒しの隙から鮫肌がささくれのような棘に似た刃先を伸ばして則子に這い寄るのに目を見張った。
「……」
則子にチャクラはない。チャクラの有無が認識の大部分を占めている鮫肌、その則子に何の興味を示すのか。
右手を下に庇うように蹲る則子の背中を越えて鮫肌が向こう側へ身を伸ばした。
「止めなさい。その人にお前の可食部はない」
柄を掴んで引き戻すと、鮫肌は大人しく刃先を縮めて晒しの下に身を潜めた。
則子は相変わらず体を静かに上下させて寝入っている。この傾眠状態はいずれ落ち着くものなのか、それともずっと続くものなのか。情報が得られないことがもどかしく、話が出来ないことが物足りない。
そう思うことが不快で、不快なのに奇妙に心地よく、身内がざわめくような不可思議な期待がある。この感じは何なのか。
明日が楽しみで疼くような、今ある楽しみが終わらないで欲しいと願うような。
則子が誰に生きて欲しがっているのかはわからないが、それはいずれ大事な相手なのだろう。その為に自分も生きようと思うような。
それを思うと一層身が疼く。
それが、知りたい。そして欲しい。その庇護が、欲が、必死さが。それがもし自分に向けられたなら。
「…干柿さん?」
声をかけられて引き戻された。
「お腹空いてませんか?」
寝惚けた様子の則子が布団に肩肘をついて振り向いている。
「いえ。私は特に…」
減っていないわけではないがまだ食べずとも構わない程度のこと。それより則子が目を覚ましたのに驚いた。
最初に倒れるように寝入った、そこから数えて考えてると、徐々に目を覚ます速度が上がっている。
「しかしあなたは何か食べるべきですよ。朝食べてから何も食べていないのですから」
その上色々やらかして消耗している。
「え?」
則子が不思議そうにこっちを見た。
「私は…食べなくていいんじゃないかな」
「は?」
「あ…いや」
則子がパチンと目を瞬かせて切り替えた。それが目に見えた。
「ご飯、食べましょう。干柿さんあなた宿の食事を断ってましたよね?なら食材を買いに行くか、外で食べるか…」
「食べなくていいというのは体調的に食べられそうにないということですか」
「いいえ。湯中りしてちょっとぼうっとしてるだけです。ご飯は食べられます。ええ、食べますとも。がんがん食べます」
口早に答えた則子が戸口を見、窓を見た。
「私、どれくらい寝てました?」
「半刻も寝ていませんよ」
「半刻…そうですか」
呟いて右手で目を額を覆い、ビクッとその手を顔から離す。そして離した右手をまじまじと見て、顔を顰めた。腹立たし気なその表情から手袋を忘れた自分に憤っているのがわかる。が、則子はすぐに諦めたような顔をして窓表に目を走らせた。
「雨は止んだようですね。外に出ますか?」
「宿に食事を頼んでもいいんですよ」
「無理を言ってはいけません。それでなくても飛び込みで泊まらせてて頂いているんですから」
「…宿なんてものは大概飛び込みじゃないですかね?」
「あー。そういう感じ?そうですか。でもだとしても、唐突に予定を変えてそれを押し付けちゃいけないですよ。宿を営む方にも都合があります。傍らに人無きが若しじゃ頂けない」