布団から這い出て伸びをした則子が、今一度戸口を見、窓を見、私の様子を窺うように見て息を吐いた。
「うん。買い物に行きましょう。早く行って早く帰る。山の日暮れは足が速い。心細くなる前に帰りましょう」
「日が暮れた程度で心細くなるんですか。あなたは」
「なりますよ。それって人間の帰巣本能みたいなものだと思うんだけど」
「ならない私は人間ではない?」
「また極端なことを言う。もしならないのであれば、それはそうならないようにしてきただけじゃないんですか?夕ご飯の匂いを嗅いだら、早くうちに帰ってのんびりしたくなるもんだし、それって悪いもんじゃない」
そう言って笑った則子の目が、仄かに温かな湯気の風情。立ち上り揺らいで、温かく即座に消える。
「そういうものも、あなたのものであっていい。そうであればいいですね」
目を伏せた則子が独りで笑う。
何か言いたかったが、何も言えなかった。
「さあ、行きましょうか。ちょっと楽しみです。何があるのか、何がないのか、温泉街ってそういうところ、面白いですよね」
危なっかしく立ち上がって、則子がまた窓表を見た。
「あ、でもその前に忘れ物…」
言いかけて、則子がハッとした様子を見せた。左の手首を見て首元をまさぐり、指輪を連ねた鎖を確かめて息を吐き、また焦った様子で周りを見回す。そして卓の上、ふたつの腕守りに目を止めて、芯から安堵したように肩を落とした。
「植物性のものに見えたので念の為外しましたが、不都合ありましたか?」
見咎めて声をかければ、硬い声音でややよそよそしい答えが返ってきた。
「お気遣いは有難いですがこれは大事なものなので断りなく外されては困ります。申し訳ありませんけれどもう触らないで下さい」
「大事なもの?」
「祖父母からの貰い物なのです。お守りみたいなものですから」
左手で腕守りを摘み上げ、則子が溜め息を吐いた。余程大事なものらしい。
「そうですか。知りもせず勝手に外して悪いことをしましたね」
触るなと言われたのを敢えて無視し、則子の手から腕守りを取り上げて左の手首に嵌めてやる。則子が眉を顰めて見上げてきたが、目は合わせない。
「とは言え、迂闊に触ればどうなるかどうなるかわからないものだ。扱いには気を付けて下さい」
「わかりました」
「で?忘れ物というのはこれのことでしたか?」
「…いや…。私、露天の様子を見て来なきゃならないんで、ちょっと待ってて貰っていいですか?」
「露天の様子を見る?何を忘れて来て露天の様子を見る必要が?」
「手袋を…」
「脱衣所に忘れたんですよね?」
「ですね」
「あなた露天で何をやらかしました?」
最早尋ねると言うより確認するように聞くと、則子は首を傾げて困った顔をした。
「……。実は脱衣所の戸から杉の木が…」
「成る程。杉の木製だった訳だ。脱衣所の引き戸は」
「杉の木は優秀な建築素材ですねえ。どこにでもある」
「何故そういうことになりました?何に興奮したんです?」
「そういう言い方されると私が公衆浴場で興奮する人みたいじゃないですか…。止めて下さいよ。他に誰も入浴してませんでしたし?」
「一人で興奮してたんですか」
「…その言い方もまた誤解を招くだろ…?」
「誤解を招こうが何だろうがそんなことはいいんですよ。何故そういうことになったかを聞いている」
やや語気を強めて尋ねると、則子は言い淀んで腕組みした。考え込んでいる。何を言うか、言わないか。何を知らせるか、知らせないか。
もどかしい思いで見守っていると、やがて腕組みをといて口を開いた。
「…感情が昂ると私の右手は暴走する?」
「私に聞いてどうするんです。私があなたに聞いているんですよ」
「必ずしもそうではないとしたら?」
「それはあなたが制御し始めているということになるんじゃないですか」
「感情の昂りもなく無意識に出るものがあるとしたら?」
「危険ですね。だだ漏れってことですから」
「暴走より悪い?」
「暴走より悪い」
「…ですよね…」
「何がありました?それでなくてもあなたとは話にならないことが多い。今の段階では互いにわからないことが多くて開示が不可能だからと、そう理解しているつもりですが、もしあなたが何かを隠蔽する為に誤魔化しを繰り返していると言うのなら話は変わってくる。今起きて目に見えることは隠さず共有しなさい。私はあなたに譲歩している。あなたも私に譲歩すべでしょう」
「…言う程譲歩してましたっけ?」
「…してますよ。わかってないんですか」
「全然」
「私を干柿鬼鮫とわかった上でそう言う?」
「何ソレ?新しい決め台詞?」
「…決め台詞ってなんですか。別にそんなつもりはありません」
「あなたも中二の春を長く患ってらっしゃるんですねえ…。意外です」
「私は何も患っていません」
「ええ、ええ。わかります。大丈夫です。中二の春はどれだけ患ってもお身体には障りませんから心配には及びません。何時の日か我に帰ったときちょっとばかり黒い歴史にハートがブレイクして地味な打撃を受けるだけで…」
「何を言っているのかわかりません」
「適齢期を過ぎた青い春に身悶えするくらい羞恥心を覚えると言うことです。甘酸っぱいですね。あはは」
「あははじゃありません。露天で何をやらかしました?」
「だから杉の木を…」
「それだけですか?」
「それだけって、いや、結構大事でしょう?自分でやらかしといてこう言うのも何ですけど」
「まあ確かに尋常じゃありませんね」
「…あなたに言われたくはありません」
「私だって言いたいわけじゃありません。大事かどうかあなたが聞くから答えたまでです」
「兎に角、杉の木で露天が壊れてたりしたら賠償問題です。だからそれをちょっと確認に行きたい…」
「私も行きます」
「だからさ。何で女湯について来たがるの?混浴じゃないでしょうが、ここの露天は。どいつもこいつもどうかしてる。公共マナーはどうなってんだ、一体」
「どいつもこいつも?」
「干柿鬼鮫の公共マナーはどうなってんだ」
「…嫌な言い直し方しますねえ。怒らせたいんですか?」
「待ってる間ひとりで怒ってて下さいよ。退屈が紛れるでしょう?」
「また引っ叩かれたいんですか?」
「今度引っ叩いたら殴り返しますからね、私は」
「ほう?面白い。やってみたらいい」
「ええ、お楽しみに。やると言ったらやりますからね」
「わかりました。楽しみにしておきましょう」
「ちょっと!だからついてくんなって!」
「何処に行こうと私の勝手です」
「アンタ自分の言ってることわかってんのか?女湯を覗きに行くのは私の勝手ですって言ってるんだぞ?そのデカいなりで白昼堂々女湯の様子観察に行くつもりか?通報されるぞ?」
「人が入ってなければただの湯溜まりです。何か問題が?」
「…うぅわ、居直りましたよ、いい歳したおじさんが」
「いい歳のおばさんがよく言いますねえ?」
「そのおばさんの尻を追っかけて女湯まで来る気ですか?止めて下さい。気持ち悪い」
「何ならあなたがここで待っていなさい。私が露天を見てきます」
「ちょ…ひとりで女湯に行く気ですか?止めて下さいよ。まずいですって。あなたがしようとしていることは完全な痴漢行為ですよ」
「話にならない。いいから来なさい」
業を煮やして則子の手を掴み、居室を出る。引き摺られるように歩きながら則子がそれを振り払おうと藻掻いた。
「引っ張らないで下さいよ。歩き辛いし、危ない…」
「だったら文句を言わないでさっさと歩きなさい」
「何でついて来るの?必要ある?」
「あなたが何か隠しているからです。情報を共有する気がないなら自分の目で確かめるまで」
「杉の木を生やしたって言いましたよね?」
「それだけじゃないでしょう?」
右手の力について、漠然と問いかけてきた則子の様子が引っ掛かっている。
感情の昂りもなく無意識に発現し始めるならそれは制御以前の問題だ。もしそれが起こったのならその程度を見たい。家で栗の木が生えたときと同程度なのかどうか。所構わずあんな力を出し続ければ、則子は早晩削れて死ぬ。
露天についたところで則子が手を振り払って女湯に駆け込んだ。
「…この…」
思わず走って追おうとして、振り払われた手を握り締め踏み留まった。何も走ることはない。露天が消える訳でも…
考えかけて、走り出した。
露天は消えないかも知れないが則子は消えるかも知れない。ここで逃げられた日には目も当てられない。
女湯に駆け込む自分、というあり得べからぬ光景については深く考えないようにして脱衣所の下足棚を見れば幸い入浴中の客はいない様子。
露天に続く引き戸は確かに損壊して木っ端みじんになっていたが、則子が言うような杉の木は見当たらない。
「則子さん…」
露天の前に佇む則子の後ろ姿を見止めて、思わず安堵の息を吐く。声をかけて肩に触れれば、僅かな震えが伝わって来た。
「……」
目の前の、露天周りの植生が枯れていた。9尺ほどの半円を描いて触れれば崩れて粉になりそうな壊滅的に枯死している。
その枯れ果てた植生の半円の、露天のすぐ傍に残る焦げ付いたような黒く小さな手形。三指の部分が殊に黒い。間違いなく則子の残した手形だとわかった。
「…ひどいな…」
則子が呟いた。
「……」
隣に立って則子を見下ろし、枯れた植生を見る。
「…これはあなたが?」
「そう。私です」
目を見開いて答え、則子は足を踏み出した。露天を迂回して、枯れた植生の縁に立つ。屈み込んでカサカサに枯れ切った下生えの、その下に右手を潜り込ませる。
ー何をしているのか、理解した。
「引っ叩いて差し上げましょうか?」
声をかければこちらに顔を向け、泣きそうな苦笑いを見せた。
「殴り返すと言いましたよ」
「湯呑をひとつ割れば効きますかね」
「止めて下さい。あれも大事なものなんですから」
「…あなたは大事なものが多くて不自由そうだ」
「そうですか?ふふ。そうかも知れないですね。まあ構いません。良い不自由です。私はそういう不自由は嫌いじゃない」
泣き笑いの顔を下生えに向けて、則子は目を細めた。
「…大事なものがあって不自由になるのであればそれも悪くない」
右手で何かを探るような仕草。
「そのせいでしんどい思いをしても」
則子が動きを止めて深く息を吸った。生き残った何か。根か、胞子か。胞子。それを感じられるのか。だとすればこの力の植物への親和性は想像以上に高い。
「それはむしろ誇らしいことです」
背中の鮫肌が身動ぎした。それに気を取られてほんの少し目線がぶれた、その刹那、露天から立ち昇っていた湯気が則子の方に向かっって流れ寄った。意思のあるもののように則子を取り巻き、右腕を伝い枯れた植生の下に吸い込まれていく。
そうと見届けたそのとき、則子の右手を始点にざぁっと新芽若芽が広がった。黄緑、緑、濃い緑、深緑、柔らかな苔の床が瞬く間に枯死した植生を駆逐して生え延べて行く。
背中の鮫肌が半ば跳ねるように反応している。何に反応しているのか、興味深いがそれは今突き詰めることではない。柄を握って鮫肌を押さえる。邪魔をしたくなかった。
則子は俯いて動かない。また気を失っているのか。露天の泉水から嫋やかに湯気が立ち昇っている。が、その湯量が著しく減少していた。植生の生成に泉水を使ったのだと察した。意図したかどうかはわからないが。
則子が顔を上げて、肘で目元をぐいと拭った。恐る恐る生え伸びた苔に触れ、溜め息を吐く。
「…枯らした償いにもならないけれど」
呟いて立ち上がった則子が、右手を押さえてこっちを向いた。
「干柿さん。ご飯を食べに行きましょう。お腹が空きました」
眉間に皴しながら笑うその顔を見て、ああ、こういう顔で笑う女だったなと改めて思った。どこか困ったような顔で笑う。それが癖。
そういう、女。