今年もまた針槐の季節が来た。
針槐の香りを意識するようになって二年。霜の国境の山中で過ごした数日はそれに伴う様々な記憶と共に、日常を浸食するように未だ尾を引いている。
あの家はまだ同じ場所にある。台所も小部屋も、修繕した。いつまた住み暮らしても支障ないように。
持ち主が置いていった荷物は全て家に戻した。持ち主の名前が書かれたあの詩集も、呑気で間抜けな飼い主似の馬も。
二日に一度は様子を見に行く。ほんの僅かな間でも、馬に餌をやり家を見回る。馬鹿げているとは思う。そう思うが、止められない。自分の律義さに反吐が出る。
あれ以来霜に不穏な動きは見られない。霜の背後にいたであろう何者かは未だ確定出来ない。推察するならばその名を上げることは出来るが、暁も目的の為の動きが活発になり、以前のような他愛ない任務に暇を手間をかけることが減った。その忙しなさの中で霜の起こした過失のような術は取沙汰されることもない。
当の則子が消えたのでは取沙汰のしようもない。
露天で枯死した植生を蘇らせた後、連れ立って表に出たその間に則子は消えた。
地図が欲しいと入った食料品を売る小さな商店の、店先にある小さな対面棚を見に出、そのまま消えた。ほんの数分のことだった。荷物も持ち馬の馬刺も宿に置いたまま、
自分の意思で消えたのか、誰かに攫われたのか、未だ定かではない。
「おーい、鬼鮫ェ~」
同じ組織に与するゾンビパンダが能天気な声をあげながら近付いて来た。それだけで軽く殺意を覚えるがいつものことなので、いつものように流した。ちらと一瞥したきり、黙殺する。
「よォ、おめェ、次は土に行くんだっけよなぁ?爺さん討伐によ」
「…それが何か?」
素っ気なく答えて手入れしていた鮫肌に晒しを巻く。
「いやさ。うちのおじいちゃんが今ちっとばっか土に興味があってよ」
「角都が?」
「何か最近土のえー、野菜がいい具合らしいんだよな」
「…何を言ってるんですか、あなたは」
「何って、野菜がいい具合だって言ってんだよ」
「野菜が何だって言うんです?守銭奴の出納係は何時から菜食主義者になりました?仕様もない話をしてないでさっさと消えてくれませんかね。正直顔も見たくない」
「…いきなり気持ちいいこと言いやがんな、この鮫」
「大体土の農作物がいい具合になる筈がないでしょう。あそこは土地が痩せているし岩雨が降る。耕作に向かない土地柄だ」
「向かなくたって食ってかなきゃねえだろ、住んでる連中はよ」
「珍しく真っ当なことを言いますね。角都の受け売りですか」
「よくわかったな。ご名答だぜ」
「あなたに感心されても嬉しくも何ともない。むしろ苛々するのが凄い」
「褒めんなよ」
「褒められたと思うんですか?本当に凄いですね…。角都の苦労が偲ばれる…」
「苦労してんのは俺の方だっての。まあ年寄りと女にゃ優しくしてやんねェとな」
「年寄りや女性に優しい?誰が?」
「俺が」
「…戯言は死に際にして下さいよ。聞き苦しい」
「残念でしたァ。俺ァ死なねえモンねー」
「ああ、そうでしたね。忘れてましたよ。どっちでも良すぎて」
「…ホントやな鮫だな」
「で?何の話です?土の農業事情に何で角都が興味を持つ必要が?」
「うん。ちっと見てみてェんだって」
「老後を一次産業に捧げるつもりですか、あのヒジキは」
「さあ?まあ俺は農業なんか真っ平だけど。土いじりなんか一個も興味ねえや」
「でしょうね」
「丁度おめェら、岩の四尾の討伐に行く予定になってんだろ?こっちの雲の二尾と交換しねえか?」
「あなた何を言い出すんですか。馬鹿らしい。それを私に持ち掛けてどうします。ペインに話を通しなさい」
「固ェこと言うなって。どっちみち何処の尾獣をヤろうが、最後にここに集められりゃいんだろ?誰がどれをヤったって大して違いはねえよ」
「岩の農業を視察して何になるんです?角都の老後なんか知ったこっちゃありませんよ、こっちは」
「尾獣のついでにもひとつ金儲けの元を引っ張って帰りてぇんだ」
「まだ金儲けするつもりですか。もう資金稼ぎは十分でしょう」
「資金が出てく一方じゃ困んだろ?実際俺らがやってるこたァいつまでって期限が切れる程度のことじゃねェ…ンだよな?」
「帰って角都に聞きなさい。私に聞くんじゃない」
「どっちにしろ嵩が減るだけの金は価値がねえって言うからよ。おじいちゃんが」
「角都の使いっ走りをしているわけだ」
「そうなるか?あれ、何で角都の使いっ走りなんかしてんだ、俺ァ?」
「言い包められたんでしょうね」
「何だよ。言い包められのか、俺ァ。だははッ」
[新興宗教の狂信者に守銭奴の傀儡、属性が増えてますよ飛段」
「増えんのはいいことだ」
「金銭と違って属性過多はロクなことになりません。収拾がつかなくなって破綻します」
「そう?俺はなんぼあっても構わねぇけどな。俺を持ち上げるモンなら」
「狂信者や傀儡が持ち上げになりますかね」
「で?どうよ。代わりに雲に行かねえか?雷ンとこで猫狩りしねえか?」
「しませんよ。猿も猫も変わりない。何でわざわざあなたたちの都合に合わせて任務を代えなきゃならないんです」
「岩の人柱力は綺麗な姉ちゃんだぜ?爺さんよか甚振り甲斐がある…」
「そう思うなら尚更あなたが行けばいい。せいぜい女性に”優しくして”楽しんで来なさい」
「はーん。しょうがねえなぁ。ま、いっか」
「…その程度の話なら始めから振らないで貰えますかね。煩わしい」
「いや、後は角都に任せようかと…」
「角都が出張れば私が話を吞むとでも?」
「さあ?そら俺の知ったこっちゃねえよ。取り合えず角都が話があるって呼んでるぜ。そういうことになったから、行って来いよ」
「そういうことになった?」
「俺で話がつかなけりゃそういう、えー、次案の策ってのになるって話?」
「話?って何で私に聞くんです。下らない用を足しになど出向きませんよ」
「一応仕事の話だからよ。出納係のお話はちゃんと聞きましょうねってことだァ」
「老後の見通しをですか?馬鹿らしい」
「だから皆が皆尾獣狩りに出払ってたら身銭は減る一方だろが?俺らが動いてる間にも金が入ってくるようにしてえって角都は言ってんだ。こいつは一応ペインも小南も知ってることだからよ。任務の交代は別だとしても、金の話はちゃんとお仕事の内ってこと。わかる?」
「あなたにわかるとか言われると死にたくなりますね」
溜め息が出る。
「イタチさんに話は通ってるんですかね」
「ペインから話が行ってる筈だなぁ」
「…何で私だけあなたから雑で下らない伝えられ方をしなきゃならないんですかね」
「だってお前、なかなか捕まらねえからよ。何処行ってんだ?チョロチョロとよ?」
「何処だっていいでしょう。それこそあなたに関係ない」
「確かに俺にゃ関係ねえよ。興味もねえし?でもま、そのせいでおめぇは俺から雑で下らねえ伝えられ方ってヤツをされてんだ。俺にあたんのは筋違いだかんな?」
「わかりましたよ」
話を切り上げたくて立ち上がる。これ以上話す気になれない。
鮫肌を背中に背負って角都がいるであろう書庫へ向かう。多分そこで算盤を弾いている筈だ。守銭奴と言う性分に相応しく、完全に暁の番頭と化している。出納係や番頭に五つも心臓がある必要があるのか?
苛立ちのまま書庫の戸を力任せに開けると、中に角都とがいた。
「戸の開け閉めは静かにやれ」
角都が算盤から目も離さずに苛々した様子で言う。
「何の用です?任務の交代なら私ではなくペインや小南に話を通して下さい」
「アイツらが了承すればお前も問題ないということか」
赤い筆が入りまくった出納帳が痛々しい。そんなに金を食っているのか、この組織は?
「事情次第でしょうね。無為に受けるつもりはありません。そんな義理はありませんから」
「ならば話すが、お前、土の農業生産についての知識はどれくらいある?」
「あまり芳しくないという程度にしか知りませんがそれが何か?」
「原因は何だ?」
「土壌が痩せていることと岩雨のせいでしょう」
「そうだな。それで土は国の口を賄うことが出来ないでいる」
「自給率が低いのは土だけじゃないでしょう」
私の在郷、水の国とても群島という土地柄故耕作に適した平地が少なく、霧が多いという気象条件を抱えている為日照時間は短く。とても恵まれた環境にあるとは言えないし、砂隠れのある風も風食や砂害、砂漠化の拡大で農作物は育たず、どちらの国も財政は逼迫している。軍事国家である雷とても似たようなもの。市井の口は力では潤わない。
「これは金になる」
「…あなたたちは本当に揃って戯言が好きですねえ…。私たちが農産業に介入して何になります?農業機関でも作る気ですか?」
「馬鹿はすぐ話を小さくまとめて短絡的なことを言う」
「ほう。ではあなたにはどういう大局的で思慮深い構想があるんですかね?」
「それを考えたいから土に行きたいと言っている」
「その程度の説明で私が話を呑むとでも思いますか」
「ヤマダハナコを知っているか?」
「ヤマダハナ…子?」
眉根が寄った。…珍しい名前。
角都が帳簿をバンと閉じて顔を上げた。
「ヤマダ。覚えは?」
「…さあ?何者です?」
「よくわからないから土に行くと言っている」
「そんな暇な時期じゃないでしょう、今は」
「だから尾獣狩りのついでに行かせろと言っている。いいから黙って任務を代われ。お前に説明する手間が勿体ない」
「代わりませんよ。人にものを頼む態度ですか、それが」
「そうか。ならお前が俺の代わりにヤマダハナコを連れ帰るんだな?」
連れ帰る?ヤマダハナ子を?何の話だ。
「だから何なんです?ヤマダハナ子ってのは?」
「土の農業効率を爆上げしたヤツだ」
「誰が農業効率を爆上げしたところでそれが私たちに何の関係があります」
「資金の底上げに繋がる。何より使い方次第では金の生る木に化ける可能性がある」
「どうもよくわから…」
言いかけて、口を噤む。引っ掛かる。考え過ぎか。しかし引っ掛かる。
「…どうやって生産効率を上げたんですか?そのヤマダハナ子は?」
「それを見る為に土に行かせろと言っている。話のわからん奴だな」
「農業視察の為に土に?」
「他に使い出があるかも知れん」
「…それは、木遁に似たような力が関わっている?」
「何だ?何故そんなことを言う?」
「いや…植物に関わる力なら木遁かと」
「とも限らん。今はっきり言えることはない。だから尾獣狩りのついでに行けるのが手っ取り早くていいのだ。わざわざ不確定な情報の為に土へ行くよりついでがあった方が効率がいい」
その程度の話か。
そうか。
「何となくと言う話ですかね」
「何となくとまでは言わんが、何気なくはある」
「…ああ、そうですか」
「だから…」
「代わりませんよ。しかしご希望とあれば探りは入れてみましょう。…その、ヤマダハナ子とやらについて」
「適当な真似はするな。万一金が動く話になるのであれば、粗末に扱っていいものではないからな」
「引き受けたからには適当な真似などしませんよ。資金の底上げに繋がる話は暁をあげて公認になっているんでしょう?ならば是非もない」
「そうだ。是非もない」
ヤマダハナ子。
子のつく、珍しい名前。農作物の、植物に関わるこの話題。
「そうですね。是非もありません。確かめてきましょう」
確かめてみなければならない。
この引っ掛かりを。