溜め息を吐いて腕組みを解いたそのとき、角都の光彩のない目が私の目を捉えた。
「鬼鮫」
元から表情の読み辛い目の、瞳孔の存在すら感じられない瞳を見返す。人の範疇を越えて生き永らえるその目。ー私のいる救われない世界の、一部分を象徴するかのような不自然で無慈悲、かつ先鋭化した思考の具現。
「ー何です」
引き戻されそうな何かの手綱を取って目を逸らす。
「疾く努めろ」
それだけ言って、角都は苛立たし気に墨壺の蓋を閉めた。
「デイダラから赤の墨汁を回収しなければ。イタチよ、早速団子の為にひと働きしないか。初回限定奉仕で、デイダラから上手く墨汁をせしめてきたらふた串分のポイントをつけてやる」
…どこまで通用するか知らないが、角都はイタチを上手く利用出来るシステムを手に入れてしまったようだ。
イタチが考え込む気配を後に書庫を出た。この団子複利システムのせいでマンセルを組むこっちにまでとばっちりが来なければいいが。
四尾を狩ることが一義であるようにまたヤマダを連れ帰るのも一義。かといってそれに足を捕られてはならない。深追いと長期滞在は避け、最悪現状のみ持ち帰る。つまり様子見。大蛇丸との直接的な摩擦を生んではならない。政治的な表向きの測り合い、距離の取り合いを軽んじて迂闊に状況を動かすことは回避すべき。
大蛇丸は今更言うでもないが、暁もまたこのところ目立ち始めている。列国がこちらの動向に注視している。当然だ。国の守りの要である尾獣を狩り回っているのだから。今大蛇丸相手に無闇に状況を刺激する対立を生むべきではない。他国に過度の警戒心を抱かせる理由を与え、互いに様子見している現状のパワーバランスに干渉すれば暁の活動に不具合が生じる。故に事を荒立てず、動かねばならない。
しかし、この混乱が大戦を引き起こしたその後、角都の言うように戦後処理に目を向ければーいや、戦後どころかこれまでも今このときも、国の口を養うことに四苦八苦している国は多い。それらがもし角都のようにヤマダに目を付けたらば?
ややこしい巴戦に巻き込まれる前にヤマダを確保したい。そもそも水面下の巴戦を起こし得るその芽を摘むべきだ。
ヤマダを囲ってしまえばいい。保護すればいい。
しなければならない。
表に出ると、湿り気の多い風に乗って青臭い植生の匂いと土の匂いがした。薄寒く骨身に染みる長雨が続くこの時期の、ちょっとした晴れ間の空が色濃く青い。
迷ったところで気持ちは変わらない。会いたい。顔を見たい。言葉を交わしたい。ならば行くしかないのだ。縁を嗅ぎ付けてしまった以上見なかった振りが出来ないことはわかっている。
あのときの続きが手に入ると思うほど甘えてはいない。この二年であの人は多分変わっただろう。大蛇丸といたとするならば変わらずにいることは困難だ。
…大蛇丸にもあの減らず口を叩いているのだろうか。大蛇丸はそれにどう返しているのだろう。ヤマダがあの人だとすれば生きていることだけは確かだが、大蛇丸に対しても私にしていたような口を叩いているとすれば、随分危ない橋を渡っているように思える。が、食えないあの蛇はそれも面白がっているのかも知れない。
あの人に自分の欲に敵うものがあると踏んでいればの話だが。
もう行かなければならない。
あの人の名前が書かれた、あの詩集のあの一編が思い出された。
行かなければならない。
会えば何かを変えることになる。今までとは違う何かを受け入れることになるだろう。
だがそれが何だ。今更の話だ。
もうそういう道を自分に敷いた。忘れられないものになると思ったその気持ちが、本当になった。もう追わずにはいられない。
晴れ間の空はあの人と見上げた麗らかな晩春のものより尚青く、風に針槐が香る季節は終わった。
それでも尚あの人を思い、感じているならば、追わずにはいられないのだ。
あの口減らずで強がりの、地味で胃弱の女を。右手に異能と戸惑いを抱えたまま湯気のように笑ったあの女を。
私を好きだと言い、間抜けていろと言った、菅原則子を。