そう考えたら、自然に身体が一歩引いた。
この人は怖い人。
本人の気持ちがやっていることと違うところにあったとしても、この人は怖い人だ。
実際向き合ってみれば、それを捻じ伏せて簡単に好きだの何だの言えないくらい重い人だ。
ー本人の気持ちが行為に背反しているからこそ、重くて怖い人。
孤独で寂しいんだろうな。
だからあんなことになってしまった。
単純に切ない。報われたような報われていないような、息苦しい切なさ。
この人の最期はこの世界では公平じゃないと思う。
人体実験に血道をあげて人殺しを繰り返したオネエの蛇男や長過ぎる反抗期を拗らせた無愛想なブラコンは赦されて、何事もなかったかのように第二の人生を歩んでいる。家族を作ってそれぞれ新しい生活を築いている。
なのにこの人はどうして?
…漫画の話をこんな風に熱く考えても仕方ないけれど、それこそ今の状況じゃこれも仕方ない。
夢だか何だか知らないけれど、目の前にいるんだから。
怖くて重くて、寂しい人が。
ちょっと吐き気がした。
空腹のせいかも知れないし、現実を…現実ではないとしても目の前に干柿鬼鮫がいるという、この状況を改めて受け入れ難いと認識したせいかも知れない。
「…何て顔してるんです?具合でも悪いんですか?」
鬼鮫が目を眇めて、私の顔を覗き込む。
「いや…あの…。ちょっと離れて頂けます?」
薄ボケた薄墨色の着物の袖が纏わる手を振って、また一歩下がったら干柿鬼鮫はその一歩分詰めてきた。
「どうしました?今になって私が怖くなりましたか?好きだと言って抱きついてきたのに、薄情なことですねえ?」
楽しげに笑う鬼鮫に胃が引き攣れた。
馬鹿者。
あれは黒歴史化したと言っただろうが。アンタッチャブルなんだよ。黙ってくれ。
「…恥のかき捨てですから、そうそうに忘れて下さい。状況が読み切れなくて混乱してました。あんなことするべきじゃなかった」
「忘れようったって忘れられませんよ。あんな真似をされたのは初めてですからね」
は…初めてかぁ…。それはそうだろうな。それくらい異常なことをした。
最悪だ。
凶悪犯罪者担当の痴女を爆誕させてしまった。
「…あなた、何故私なんかにあんな真似をしました?」
「え?」
不意に、真面目に、静かに、思いがけない問われ方をして、間抜けた声が出た。
見れば鬼鮫が不可思議な目で私を見下ろしている。
皮肉でも怒りでも苦々しさでもない、甚振って楽しむのでもない、曰く言い難い目。
本当に不思議がって、本当に知りたがっている…ように思える目。
「…それは…」
生唾を飲み込んで言葉を絞り出す。飴玉みたいに唾が飲み辛い。
「それは?」
重ねて静かな声が追って来る。
それに反って圧を感じる。
干柿鬼鮫が意図して与えてくる圧ではない。私が勝手に引き受けている圧だ。自責故に。
「…あなたがうちの台所を壊したのと同じことです…」
「…は?」
怖い男が間抜けた声を漏らしている。さっきの私と同じだ。
思いがけない答えを聞いて、予期せず出てしまった間抜け声。
「敢えて詳細は聞きませんが、あなたにはあなたの事情があって、その為に私の台所を壊さざるを得なかった」
「…ではあなたにもあなたの事情があって、その為に私に抱きつかざるを得なかったと?更には詳細は聞くなと、そう言ってますね?あなた」
流石干柿鬼鮫。頭の回転が速い。
「そういうことです」
夢から覚める前に推しに触れてみたかったという切羽詰まった欲が私を過剰な行為に走らせた。
そんな説明出来る訳がない。
多角的に無理。多面的に無理。全方位万能に無理。
せめて応援しています、握手して下さいくらいにしておけばここまで絡まれなかったろうと思ったが、それはそれで過不足なく珍妙なので、"孵らなくて良かった黒歴史の玉子"として、心の引き出しにそっと仕舞い込む。
二度とこの引き出しは開けない。
「どんな事情があればそうなります?」
眉を顰めて理解に苦しむ様子の鬼鮫の肩に、思わず手をかける。
「大丈夫。私の台所だって、どんな事情があればそうなるんだって話です」
力強く請け負って頷いて見せる。押し切りたい。この話はこれで終わりだ。
「どういう大丈夫ですか、それは…」
肩にのせられた手をまた不思議そうに見ながら、鬼鮫は眉間の皺を深めた。