今一度地面の血痕に目を落とす。
これは多分、間違いなく則子の落とした血。あのよくわからないことで泣き、泣くだろうと思うところでは泣かない意地っ張りの痛みに鈍い馬鹿な女が残した血痕。
飛段があの人につけた傷の跡。
「…飛段」
「あん?」
何とか身体を起こして座り込んでいた飛段の肩に片足をかけ、腰を屈めてその顔を覗き込む。
「急いでいるから見逃すのです。本来ならただでは済まさないところですよ?私に借りがひとつ出来たと覚えておきなさい」
「は?何が借…ぅうお…」
忌々し気に目を細めた飛段を肩にかけた足でどんと押し倒して、腰を伸ばした。指先の血痕を見、目を眇める。
まだ遠くに行っていない。必ず見つかる筈だ。
いや、見つける。
血痕が幾つか点々と落ちるその先を目指して走り出す。飛段の罵り声が追って来たが無論無視する。後は自分で何とかしろ、馬鹿め。
方角から人里に向かった様子はない。何か目的があってこの荒れ地に出たのだろう。土地の下見か植物の採取か、飛段の口振りからすると一人で出歩いていたのだろう。馬に乗るでもなくここまで歩いて来たところを見ると、本人が言い張っていた通り意外に体力はあるのかも知れない。そもそも普通の人間を忍の基準で測るのが間違いなのだ。
荒れ地のところどころにぽつぽつと森のような木立が見える。あのいずれかを目指して歩いているのだろうか。折れた歯で、出血したまま?
…やりかねない。
辛味調味料で爆弾を作ったときの、その余波で辛味にやられたときの則子を思い出して、顔が歪む。
無謀で無頓着、意地っ張りで痛みに鈍いあの人なら、手当てをさておき目先のしたいことを優先しそうだ。ーというより、する。恐らくする。
考えながら走るうち、ふと煙草が匂った気がした。足を弛め、大岩が幾つかかたまってある、その先へ回り込んで息が詰まった。人影が在る。が、ひとつではない。ふたつ。
足を止める。目を眇める。
煙草が匂う。
ああ。見つけた。
手前側の人影に重なるように、岩に腰かけて煙草を燻らせている。地味な色味のマントを纏い頭巾を被った染みのような恰好をして、軽く足を開いて腰を屈めて、目の前の人影を見上げて何か話をしている。
遠目にもわかる細身の体と煙草の香りに腹がぎゅっと縮まるような感覚がした。
煙草を咥えたまま、風に嬲られる頭巾の端を手繰り寄せるその仕草。目の前の相手をじっと見て話す、その様。
言い合いしながら見合ったあの切れ長の黒い目が、抱き上げたときのあの心許ない軽さと硬さと柔らかさが、そこに在る。
その傍にいるのが誰かも気付いてはいる。
大蛇丸。
見間違いようのない圧と独特の気配が後ろ姿だけで十二分に察せられる。角都の懸念は正しい。”ヤマダ”は大蛇丸といる。
矢張り二年前のあのとき則子を攫ったのは大蛇丸。霜に関わっておかしげな術を張ったのも大蛇丸。
何もかもわからないまま対話を続けた則子の、そして私の知りたかったことに最も近い者。
ふいに大蛇丸が横顔を向けた。振り返りはしない。
ただ横顔を見せた。
その口元が僅か、歪むように上がっているのがわかった。
「…ふ…}
頭に血が昇って、こちらの口角も上がった。まるでそれを見透かしたように大蛇丸が一、二歩動いて則子が視界から消え、喉が詰まる。
足を踏み出そうとしたとき、則子が大蛇丸に抱え上げられた。
そこでふと、則子が私を見た。
確かに見た。私を。
踏み出しかけた足が止まり、ただ則子を見返した。両の手が脇に垂れる。ただ、遠く定かではない則子の目を捉える。
則子が動いた。こちらに向かって手を伸ばすような仕草。
「……ッ」
堰が切れたように足が動いた刹那、則子を抱えあげた大蛇丸の姿が消えた。
瞬身か。
頭が痛いように冴えている。自分も走る動作を即座に瞬身に切り替え、音へ舵を切った。
大蛇丸が向かうのは音。よもや私が安易に追うとは思わず、アジトへ向かう筈。
逃さない。
頭がふつふつと煮え立つ音が聞こえるような気がした。冷え冴えながら煮え立っている。
目の前にぶら下げられた餌を追う犬のように動く自分に嫌悪感がある。なのに止まろうと思えない。
色彩の筋が流れて行く。在り来りの景色さえまともに見る術を当たり前に失くすこの私のいる場所。木も花も草も鳥も人でさえ、ただ流れ去る一縷の色。
今まで考えたこともなかった。この自分の生きる世界に、ただそこにあるだけの、だからこそ忘れられない何かがあることなど。
同じく高速で動く大蛇丸を目が捉える。大蛇丸がちらと振り向いて笑うのが見えた。
あの人は大蛇丸の背中に顔を伏せてしがみついたまま。
2年前、離れ離れになる前、瞬身で移動すればその負荷に自分は耐えられないと則子は話していたが、それを聞き流したことを後悔している。
チャクラの干渉範囲を広げて保護すれば何の問題もなかったのだ。そうすれば少なくともあのとき大蛇丸に則子を掠め取られる隙は生まれなかった。
瞬身での移動を退けるように則子の話を受け入れたのは、何故か。
則子との時間を引き伸ばしたかった自分の弱さ、弱さを言い訳にした望み、望むことを拒絶しなければ自分を否定することになると思い込んだ行き詰まった偏狭な思い込み。
都合よくいたかった自分の甘えだ。だがもういい。それが何だ。
それは全部、全部が私のもの。
どれひとつ譲らない私のものだ。取りこぼす時は自ら取捨選択したときだけ。