「直してくれれば大丈夫」
ぽんと肩を叩いて手を離す。つい手が出た。危ない危ない。これ以上意味ありげに接触してはならない。
「あなたの台所はそれでいいでしょうが、私の方の大丈夫はどういう形になります?」
真顔で聞かれてちょっと引く。
何だこの痴女被害者へのメンタルケア…。
「…大丈夫にしなきゃならないくらい衝撃だったんですか、私の奇行が…?」
申し訳ない。申し訳ないが、どうしよう。
台所を直すみたいにすぱっと解決出来る問題じゃない。
鬼鮫が面白そうに眉を上げた。
うむ。ヤバい。この顔はヤバい気がする。
「そうですねえ。どうして貰いましょうか」
ほら来たヤバい。
完全に失敗した。台所を引き合いに出したせいで足を掬われた。
壊された台所を直して貰うなら、私も私のしたことに対価を払わなければならなくなった。そういう流れを作ってしまった。
何て馬鹿なんだ!
でも。
「私があなたにしてあげられることなんか、何もありませんよ」
正直に言う。
だって実際そうなのだから。
金も力も権勢も、私は何にも持ってない。もとからないが、ここに来てますます何もなくなった。多分。
「あなたは私にどうして欲しいんです?私はあなたに台所を直してくれと提案した。あなたも自分から提案してくれたら助かりますが」
提案がないのが一番助かる。
「提案されても出来ないことは出来ませんから、そこはご了承下さい。何せ私は…」
「平凡な女」
先回りに言われて、頷く。
「出来ることにはかなり限りがあります。あなたの大丈夫を補償出来るように…出来ることは…したいとは思いますけれど」
そもそも、ここは私の世界じゃない。
いつどこで…何ならたった今、夢から覚めたり意識を取り戻したりして、ここから消えるのかも知れないのだから、何かを約束しては不誠実になる。
「確約は出来ません」
その上で。
「あなたはどうして欲しいんですか?」
土下座やビンタくらいですませてくれないものだろうか…。駄目だろうな…。ちょっとそういう空気じゃなさそうだ。
鬼鮫が眉を上げて腕を組んだ。顎を撫で、確認するように私を上から下まで見る。
…何だ?ちょっと気持ち悪いぞ…。あんまりジロジロ見るなよ…。
着慣れない着物で突っ立ったまま見られているのが非常に気まずい。剥き出しの脛や無防備な首元が今更ながら気になる。
さっきまでタンクトップとショートパンツでいたくせに、何たる急転直下の自意識過剰。
意識することが反って恥ずかしい。
だから、目をかっ開いて必死で見返した。
私は全然平気だし何とも思ってませんよアピールをしながら、傷付いた額当てを、青い顔を、頬骨に走る筋を、濡れた外套を、背中に覗く鮫肌の柄を、足先をひとつも守っていない変な地下足袋崩れを履いた大きな足を見る。
丸くて胡乱な目を見る。
そこにまた不可思議な色が浮かんでいる。よほど妙だと思われているらしい。
居た堪れないが目は逸らさない。
負けないからな。
何の勝負をしているのかよくわからないが、兎に角目を逸らしたら負けだと思った。
誰に負けるのか、何に負けるのか、どうしたいのか。
目が痛くなって来た。瞬きすら負けだと思った。
絶対目を逸らさないからな。
だから先に目を逸らして下さい。お願いしますやがるコノヤロウ。
これじゃ猫の喧嘩だ。
鬼鮫がゆっくり腕組みを解いた。
「あなたの名前をまだ聞いていない」
「はい?」
「名前ですよ。先ずそれからです」
値踏みするようにこっちを見ながら、鬼鮫は真顔だ。
「私はあなたの台所を修繕する」
何と。
「それは…本当にそうしてくれるってこと?」
「わざわざ嘘にする程のことじゃありませんよ。台所の修繕くらい」
呆れた様子の干柿鬼鮫をうっかり拝みそうになって、思い留まる。
落ち着け。壊した者が壊した物の責任をとる。至極真っ当なことだ。台所の全壊に私は全く関与していないのだから、尚更落ち着くべき。
「ありがとうございます!」
意に反して元気のいい感謝が勢い良く撒け出た。
いや、これが本音だ。まさか本当に直す気でいてくれるとは。