スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
自室の頑丈な扉を内側からきっちりと施錠し、スバルは薄暗い部屋の中で一人、ひっそりと息を吐き出す。
肺の底に溜まった泥のような空気を絞り出すひどく重苦しい呼気。
一人で使うにはやたらと大きすぎる豪奢なベッドに、糸が切れた操り人形のようにどさりと体を預ける。
そうしてスバルは焦点の合わない目で装飾の施された高い天井をぼうっと眺め続けた。
いつからだろう。こうして何もせず、ただ死んだようにジッとしているだけの空白の時間が、これほどまでに増えてしまったのは。
ふと、左腕に嫌な生温かさを覚える。
着慣れたジャージの袖を無造作に捲り上げれば、乱雑に巻かれた包帯にじわりと禍々しい赤い染みが広がっている。
塞がりかけていたはずの傷口が、先ほど仕掛けた悪趣味なドッキリの最中、激しく動いた拍子に再び開いてしまったらしい。
「……っち、また開いたか」
渇いた唇から舌打ちを一つ落とし、スバルはのろのろと身を起こして戸棚から真新しい包帯を引っ張り出す。
古い血の染み込んだ包帯は剥がさず、その上からさらにぐるぐると雑に、乱暴に巻き付けていく。
そうしてきつく結び目を作り、力任せに引っ張って強引に止血を試みる。
当然、そんな無茶な処置の仕方をすれば、傷口は悲鳴を上げるものだ。ジワリと本物の血が滲み、肉を裂かれるような鈍い痛みが脳髄を揺らす。
「痛ぇ……」
しかし、その確かな痛覚こそが、今のスバルにとっては自らの役割と存在意義を繋ぎ止める細い鎖だった。
痛みが、自分がまだこの世界で生きているという事実を容赦なく叩き込んでくる。
スバルはゆっくりと立ち上がり、次なるターゲットをひび割れた思考の中で探り当てていく。
衝動の赴くまま選び出したのは、この屋敷の中で誰よりも頭が回り、誰よりもスバルの行動に疑いの目を向ける毒舌な先輩メイド――ラム。
当然彼女にはドッキリを仕掛けるのがバレているので、死んだふりをすればすぐにバレるだろう。
だが、だからこそ、やる意味があるのではないかとスバルはひどく歪んだ確信を抱く。
見え透いた嘘など通用しない相手。
自分の欺瞞を冷酷に暴き立てる彼女の鋭い視線を真っ向から騙し切ってみたいという、倒錯した欲求。
あるいは、誰かにこの狂った行いを完膚なきまでに叩き壊してほしいという、声にならない悲鳴なのか。
「ラム相手に手抜きは絶対に通じねぇし、本腰入れてやらないとな」
呟く声には、ひどく暗い熱が篭っている。
スバルは机の引き出しを乱暴に開け、最近やたらと使う頻度の増えた道具箱を取り出す。
洗面台の鏡の前に立つと、冷たいガラス越しに疲弊しきった己の顔と対峙した。
自らの頭部に、特殊な硬質パテと人工皮膚を何層にも重ねていく作業の始まり。少しでも境目が浮いていれば、あるいは肌の質感が違えば、ラムの鋭敏な目は瞬時にそれを見破ってしまうに違いない。
息を殺し、瞬きすら忘れ、恐ろしいほどの集中力で偽物の傷跡を作り込んでいく。
かつての自分が味わった凄惨な光景を思い出すように。
かつて死の淵に立たされた自分に少しでも近づけるように。
冷や汗を流しながら化粧を重ねていくうち、あっという間に時間は過ぎ去り、気が付けば鏡の中には、スバルの思い描いていた完全な死』が出来上がっていた。
巨大な質量を持つ鈍器で容赦なく殴打され、頭蓋の左半分がひしゃげて陥没したようなおぞましい造形。
さらに、首から肩口にかけては、太く重い鎖で力任せに締め上げられ、無理やり生肉を削ぎ落とされたような赤黒い裂傷と深い痣。
吐き気を催すほど念入りに施された死の化粧である。
「……よし。上出来だ」
鏡の中に映る凄惨な死体の姿を見つめ、スバルはひどく満足げに、そしてひどく虚ろに口角を上げる。
部屋のカーテンを隙間なく閉め切り、窓の鍵も完璧に施錠されていることを二度確認。完全な密室の完成である。
きっとラムはその内、いや、すぐにでもこの部屋にやってくるだろう。
鍵が閉まっていることに気づき、声をかけても反応がないことを不審に思い、をこじ開けて入ってくる光景が目に浮かぶ。
スバルは部屋の中央に歩み寄り、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
背中が床にぶつかると同時に、頭の横と背中に仕込んでおいた大量の血糊の袋を、躊躇いなく静かに握り潰す。
ブチャッという、耳障りで生々しい水音。
生温かく、むせ返るような鉄の匂いのする赤い液体が、ひしゃげた偽の頭部から冷たいフローリングへと一気に広がっていく。
固い床に後頭部を預け、スバルは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら暗い天井をぼうっと見上げる。
血生臭い匂いと、背中を濡らす偽物の血の嫌な温かさ。
本物の痛みなど微塵も感じていないはずなのに、スバルの精神は、すぐそこに抗いがたい死の気配があるのをはっきりと感じ取っていた。
誰かの期待に応えなければならないという重圧も、呼吸をすることすら辛いほどの息苦しさも、今は不思議なほど感じない。
ただの物言わぬ、価値のない肉塊として冷たい床に沈んでいく感覚だけが、スバルの擦り切れた精神を甘く、優しく麻痺させていく。
あと一歩、指先一つ伸ばせば、あっという間に飲み込まれる絶対的な暗闇。
それを前にして、自分の口角が微かに上がりそうになっていたことに、スバル本人はまったく気が付いていない。
あとはただ、この狂おしいほどに心地良い死の静寂の中で、ピンクの髪をしたメイドが扉を叩く音を待つだけだ。
どれほどの時間が経過したことか。
まとわりつく血生臭い匂いと、背中を濡らす偽物の血の嫌な温かさ。
その暗く心地良い泥の中へ、スバルがすっかり意識を委ねかけていた、まさにその瞬間である。
コツ、コツ、と。
張り詰めた静寂を切り裂くように、廊下から規則的で一切の迷いがない足音が近づいてくる。
足音の主が誰であるかなど、確かめるまでもない。城の中でこんなにもブレのない、堂々とした歩みをするのはたった一人。
その足音はスバルの部屋の前でぴたりと止まり、コンコン、と控えめに、それでいて有無を言わさぬ響きで扉がノックされた。
「バルス。中にいるのね」
扉越しに響くのは、ひどく平坦で聞き慣れた声。やはりラムだ。
スバルは呼吸を極限まで薄くし、己の心臓の音すらも殺す勢いで一切の物音を立てずに入ってくるのをひっそりと待つ。
返答がないこと、そして何より鍵が内側から頑丈にかけられている事実を確認したのだろう。扉の向こうの気配が、ふっと薄れたように感じる。
諦めて戻ってくれたのか。一瞬そう期待しかけるが、相手が相手だ。
それで素直に引き下がるような殊勝なメイドではないことなど、スバルには痛いほど分かっていた。
直後、チリッという微かなマナの気配が空気を震わせたかと思うと、ガチャリ、と重苦しい音が部屋に響き渡る。不可視の風の刃が、鍵の内部構造だけを外側から精密に断ち切った音。
ゆっくりと、重い木製の扉が開かれていく。
部屋の中に満ちていた強烈な鉄の匂いが、廊下から流れ込んできた新鮮な風に乗って大きく揺らぐ。
頭を砕かれ、首の肉を削ぎ落とされた凄惨な死体。どれほど冷静沈着なラムであっても、突然この地獄のような惨状を目の当たりにすれば言葉を失うはず。
スバルは薄闇の中で、彼女の小さな悲鳴か、せめて息を呑む音を期待して待つ。
己の作り上げた死が、彼女の冷静な仮面をどう歪めるのか。
(音がしない……?)
しかし、部屋に入ってきたラムは一切の音を立てない。
悲鳴どころか、衣擦れの音さえ最小限に抑え、静かに扉が閉められる。再び部屋が密室へと戻る音。
微かな衣擦れと、柔らかなメイド靴がフローリングを叩く音だけが、血の海に倒れ伏すスバルのすぐ傍まで近づいてきた。
「……いつまで息を止めているつもり、バルス」
頭上から降り注いだのは、驚きとも焦りとも無縁の、氷のように冷ややかな声音。
一瞥しただけで、この部屋の惨状がスバルの悪ふざけであると完全に見破っている揺るぎない証拠。
どう反応したものか。ここまであっさりと見抜かれては、道化の演じようもない。スバルが必死に次の手を思考するよりも早く、ラムは心底呆れ果てたように、そして僅かな苛立ちを孕んだように短く息を吐き捨てる。
「……はぁ」
直後、スバルの腹部に容赦のない、重く鋭い衝撃がめり込んだ。
「ーーぐえっ! 痛い痛いギブギブ!」
肺から空気を強制的に絞り出され、物言わぬ死体を演じていたはずのスバルは無様なカエル声で身悶えする。
堪らず目を開けるスバル。見てみればラムがメイド靴の硬い踵で鳩尾を一切の躊躇なく踏みつけているのだ。
スバルの叫びを聞いてもラムは力を緩めるどころか、むしろ更に強く踏みつける。
「いい気味ね」
「悪かったって! ドッキリ仕掛けてる側にドッキリ仕掛けるのもやってみたかったんだよ!」
必死に痛みを逃がそうと身をよじるスバルを、ラムはさらにグッと力を込めて強く踏みつけにかかる。
「冗談は顔だけにしなさい」
「辛辣ぅ!」
凄惨な殺人現場を偽装した血だまりの中で、小柄なピンク髪のメイドが、頭のひしゃげた男を踏みつけたまま見下ろすという、ひどくシュールな絵面。
作り上げたはずの密室トリックも、おぞましい死体の特殊メイクも、ラムの研ぎ澄まされた視線の前では、ただの出来の悪い三文芝居の舞台装置に過ぎなかった。
ここまで底が見透かされてはもうお手上げだ。
スバルが観念して大きく息をつこうとした、まさにその瞬間。
自分を冷たく見下ろすラムの視線が、わずかに別の場所へと動く。
「……包帯、解けてるわよ」
スバルの肩が、びくりと大きく跳ねる。
腹を踏まれた衝撃で暴れたせいだろうか、先ほど雑に結び直したばかりの真新しい包帯が、だらしなく緩んでいるのが目に止まった。
自らの手で刻み込んだ生々しく痛々しい傷跡。
それが、血の滲んだ布の隙間から無惨にも露出してしまっている。
見られたくない。隠さなければ。
だがスバルが慌てて腕を引っ込めようとするより早く、ラムの静かな声が降ってくる。
「爪が甘いわね。知られたくないなら、ちゃんと隠しなさい」
ラムはスバルの腹から静かに足をどけると、そのまま彼の傍らにしゃがみ込んだ。
床を汚す血糊や、スバルが精魂込めて作り上げた凄惨な偽物の傷には一切の目もくれず、真っ直ぐにスバルの左腕を引き寄せる。
緩んだ包帯を迷いのない手つきでほどき、手慣れた様子で綺麗に巻き直し始める彼女。
その指先の動きは、先ほど腹を踏みつけてきた時とはまるで別人のように、ひどく繊細で、どこまでも丁寧なものだった。
何もかも、見透かされているのだ。
自分が一体どんな思いで、この冷たい血の海に寝転がっていたのかも。
その腕に刻まれた本物の傷が、どうしてできたのかも。
ラムは、嘘の死には決して付き合わない。
だが、彼が必死に隠そうとしている本物の痛みだけは、こうして不器用に肯定してやる。
「……悪かったよ」
痛いところを正確に突かれたバツの悪さと、それを黙って手当てしてくれる優しさ。
その二つが入り混じった感情の奔流に耐えきれず、スバルの口からはぽつりと、素直な謝罪がこぼれ落ちていた。
そんなスバルを前にラムは包帯の端をきっちりと止め、立ち上がりながら静かに冷たい視線を落とす。
「そう思うなら、ラムが知らないところで勝手にドッキリなんて仕掛けるのは控えることね」
スバルは思わず目を丸くして見上げる。
先ほどのペトラたちへの悪趣味な悪戯のことも、その結果として彼女たちがどれほど悲痛な思いで泣き叫んだのかも。
この毒舌メイドはすべてを完璧に把握した上で、この密室に乗り込んできたというのか。
「知ってたのかよ……まさか、ペトラが?」
「ええ。目を真っ赤に腫らして、ラムのところに泣きついてきたわ。ガーフはどうでもいいけれど、あの子の純情をあんな悪趣味な手品で弄んだ罪は、決して軽くはないわよ」
ラムは静かに告げると、スカートの裾を軽く払い立ち上がる。
完全に最初から最後まで先回りされていたのだ。
スバルは床に寝転がったまま、バツが悪そうに視線を逸らすしかない。
己の衝動的で倒錯した悪ふざけが、結果としてどれほどペトラの純粋な心を切り裂いてしまったのか。
それを改めて真正面から突きつけられ、スバルの胸の奥に冷たく重い泥のような罪悪感が沈み込んでいく。
「……面目ねぇ」
「本当にそう思っているのなら、さっさと起きてその見苦しい姿を片付けなさい。これ以上は悪趣味が過ぎるわ」
ラムの言葉は相変わらず辛辣だ。だが、先ほど腹を踏みつけてきた時のような暴力的な怒気はもう欠片も含まれていない。
むしろ恐ろしいほどに静か。
それはスバルがただの悪ふざけでこんな狂った真似をしているのではないと。彼が自分自身の心を持て余し、限界まで摩耗して壊れかけていることを、彼女が完全に理解しているからこその静けさなのだろう。
スバルは何も言い返せず、ただ無言で床に広がる血糊を見つめるしかなかった。
そんなスバルを冷たく見下ろし、ラムは小さく息を吐く。そして、踵を返して部屋の出口へと歩き出した。
魔法で壊された扉の前に立ち、そのまま廊下へと出て行くかと思われた彼女の足がふと止まる。
振り返ることはなく、華奢な背中を向けたままラムは言葉を続けた。
「……バルス」
「……なんだよ」
「エミリア様やレムの笑顔を、あなたの下らない自傷で曇らせるような真似は、ラムが絶対に許さない」
それはいつもの彼女らしい厳しい警告。
だがその直後に続いた言葉は、スバルの急所を正確に、深く、そしてひどく優しく貫き通す。
「だから……どうしても辛くて、馬鹿な真似をしたくなった時は、せめてラムの見えるところでやりなさい。バルスに頭を下げられたところで誰も嬉しくなんてないもの」
スバルが抱える異常な衝動がこれ以上周囲の大切な人たちを傷つけないよう、自分が逃がさず監視して一緒に謝ってやるという残酷で優しい宣言。
スバルが致命的な一線を越えてしまう前に。彼自身が完全に壊れ果ててしまう前に。
せめて最後の防波堤になってくれようとしているのだ。
「……ラム、お前……」
「勘違いしないで。ラムの可愛い妹と、主であるエミリア様の平穏を守るための監視よ。バルスの命なんて、ラムにとっては毛ほども価値はないわ」
冷たく言い捨てて、ラムは今度こそ静かに部屋を出て行った。
開け放たれた扉から、王城の平和で退屈な日常の空気が流れ込んでくる。
先ほどまでこの密室を満たしていた、死に直結するような異常な心地良さは、もうどこにも残っていない。
代わりに満ちているのは、強い力で首輪を引かれたような、ひどく不格好で、それでいて確かな安心感。
スバルは血の海の中からゆっくりと身体を起こし、綺麗に巻き直された自分の左腕をじっと見つめる。
偽物の血糊に塗れた惨めな身体の中で、ラムが巻き直してくれた真っ白な包帯だけが、唯一の綺麗なものに見えた。
ズキズキと脈打つ本物の痛みは、その確かな温もりによって、今はしっかりと保護されている。
「……敵わねぇなぁ、本当に」
誰もいなくなった部屋で、スバルはぽつりと呟いた。
そこに浮かんでいるのは、いつもの空虚な道化の笑みではない。
泣き出しそうなほど歪んだ、けれどどこか心の底から安堵したような、ひどく不格好な笑み。
スバルはゆっくりと立ち上がり、雑巾を手に取る。そして、床にこびりついた冷たい偽物の血を、黙々と拭き取り始めた。