スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
穏やかな午後の日差しが、磨き上げられた王城の回廊を白く暖かく照らし出している。
公務の合間を縫った、ほんの少しの気分転換。
窓から吹き込む柔らかな風に銀糸の髪を揺らしながら、エミリアは一人、静かな廊下を歩いていた。
すれ違う文官たちと軽い挨拶を交わし、目的もなくただ足の向くままに進む穏やかな時間。
こうして城内を歩くようになったのはいつ頃からだろうか。
すっかり散歩がエミリアの趣味になってしまっていた。
そうして歩いて城の中でも少し奥まった、普段はあまり人が通らない区画へと差し掛かったその時。
(ラムとペトラ……? 二人でなんのお話してるんだろ?)
ふと、エミリアの視界の先に二つの人影が映った。
桃色と黄色の髪。見慣れたメイド服に身を包んだ二人が、何やらひどく深刻そうな様子で顔を寄せ合い、ひそひそと声を潜めて言葉を交わしている。
純粋な興味が、エミリアの足を自然と彼女たちの方へと運ばせた。
二人がこの城の中で、あんなに強張った顔をして何を話すことがあるのだろうか。
声をかけるタイミングを窺いながら、エミリアはそんな疑問を抱いて、気がつけば足音を忍ばせて少しだけ距離を詰める。
すると微かにラムのひどく冷ややかな、それでいてどこか周囲への警戒を促すような声が聞こえてきた。
「――だからバルスの動向には気をつけなさい」
その言葉の意味を正しく咀嚼できず、エミリアは頭の上にふわりと疑問符を浮かべた。
あんなに深刻そうな表情の次に出てくる名前が、よりにもよってスバルのものだったからだ。
突拍子がなくて、思わず目を瞬かせてしまう。
平和になった城の中で、彼が一体何をして警戒されているというのか。
エミリアは隠れていた壁の陰から躊躇うことなく歩み出て、真っ直ぐに二人の元へと声をかけた。
「こんにちはラム、ペトラ。スバルがどうかしたの?」
声をかけた瞬間だった。
常に冷静沈着なラムの肩が微かに跳ね、ペトラに至ってはびくりと全身を大きく震わせ、弾かれたようにこちらを振り向いた。
いつもなら元気いっぱいに飛びついてくるはずの少女が、今はさっと血の気を引かせた顔を伏せ、自身のメイド服のエプロンを両手でくしゃりと強く握りしめている。
その明らかに普通ではない怯え方に、エミリアの胸の奥で小さな違和感が芽生えた。
「それが……その……」
ペトラが微かに震える声で言いよどむ。
普段ならばどんなことでもはっきりと答えてくれる彼女が、視線を彷徨わせ、ひどく言いにくそうに唇を噛んでいる。
いったいスバルに何が起きたのか。その答えを求めようとエミリアが一歩前に出たのと同時に、ラムがペトラを背後に隠すような立ち位置へと滑り込むように移動した。
「バルスが城のみんなにドッキリを仕掛けており、我々も気をつけようという話をしていました。またいつ何時、狙われるとも限りませんから」
すらすらと、淀みなく紡がれるラムの言葉。
いつもの彼女らしい言葉に、エミリアは自身の記憶の中から一つの単語を拾い上げる。
「どっきりって、あれよね。スバルがお屋敷でもたまにやってた、びっくりする箱とか用意して驚かせるやつ!」
ぽん、と手を叩いて無邪気に声を弾ませるエミリア。
過去にスバルが仕掛けてきた、誰も傷つかない子供のような悪戯。
その記憶が、エミリアの胸に芽生えかけていた警戒を一度だけふわりと解きほぐした。
だが、視界の端に映るペトラの指先は、依然としてエプロンを白くなるほど強く握りしめたままだ。
スバルの悪戯の話をしているのに、どうして彼女はまるで怯えているようなのだろうか。
「そうですね。城の人間相手に無差別でやっているようなので、エミリア様もどうかお気をつけください」
エミリアの小さな疑問を塗り潰すように、ラムが淡々と事実の一部分だけを切り取って告げる。
しかし、スバルの悪戯を平和な日常の延長だとしか思っていないエミリアには、その警告はひどく魅力的な遊びの誘いのように響いてしまった。
「すごーく楽しみ。もうドッキリされた人は居るの?」
「……私とペトラ、それにガーフィールとメィリィ。オットーもそうみたいですね。他にも何名か居そうですが」
「ペトラもドッキリを受けたのね。どうだった?」
純粋な好奇心から向けられたその質問に対し、ペトラはすぐには答えなかった。
しんと、暖かな日差しが差し込む廊下に、ひどく冷たい沈黙が落ちる。
ペトラはきつく唇を引き結び、浅い呼吸を何度か繰り返した後、絞り出すようにぽつりと呟いた。
「…………すごく、ビックリしました」
そこでついに、エミリアも先ほど覚えた違和感を無視できなくなる。
ただの悪戯を受けたにしては、ペトラの落とした声はあまりにも暗く、重すぎた。
楽しかった思い出を語る響きではない。何かに酷く怯え、思い出すことすら拒絶しているような痛々しい強張り。
そして、彼女を庇うように立つラムの目にも、これ以上は決して踏み込ませまいとする明確な壁の気配があった。
二人が何かを隠している。
ただ、何を隠しているのかまでは分からない。
でもそれはきっとスバルに関係するなにかだ。
エミリアが次の言葉を探そうと息を吸い込んだ瞬間、ラムがすかさず会話を引き取った。
「エミリア様にも、いずれ仕掛けるつもりでしょう。……当日まで詮索なさらない方が、バルスもやり甲斐があるというものです」
これ以上の追及を避けるため、ラムが意図的に用意した防壁の言葉。
その理路整然とした響きは、エミリアの追及の矛先を逸らすには十分すぎるものだった。
エミリアは二人の態度に拭いきれない疑問を残しながらも、ペトラの白くなった指先へもう一度だけ視線を落とし、それ以上踏み込むのをやめた。
「そうね。スバルがどんなドッキリをしてくるのか、楽しみにしましょう」
今はまだ、二人が隠したがっている理由が分からない。
なら、信頼している彼女たちを無理に問い詰めることはせず、今は待とう。
エミリアは表面上だけ微笑んで了承を示すと、静かにその場を後にした。
歩き出した彼女の足は、自然とスバルの部屋がある方向へと向かっていた。
ドッキリの種を探ろうと思ったわけではない。
ただ、ラムとペトラの不自然な様子を思い返しているうちに、無性に彼の顔が見たくなったのだ。
思えば最近、スバルとゆっくり話をする機会が減ったように思う。
もちろん王の騎士として、彼とは毎日顔を突き合わせているので、会っていないわけではない。
だが公務として民草の前に出ている時や、執務室で書類仕事に追われている時など、基本的にそこまで楽に、他愛のない話ができるはずもなかった。
それでも少し前までは、スバルが巧みに隙を伺い、ちょっとした冗談や他愛のない話題を振ってきてくれたのだ。
そうやって少しの間に言葉を交わすのが、エミリアにとっては凄く心地よくて、大好きな時間だったはずなのに。
気が付けば、いつからそうした小さな言葉の応酬が消えてしまったのだろうか。
城中の人たちへ大掛かりな悪戯を仕掛ける時間はあるのに、自分とは他愛のない話をしてくれなくなった。
そんな小さな寂しさと、二人から感じた違和感が重なり合う。
距離が開いてしまったことに気が付いたのなら、待っているだけでは駄目だ。
今度は自分から歩み寄らねばならない。
かつて彼が、心を閉ざしていた自分にそうしてくれたように。
「ねぇスバル、開けてもいい?」
見慣れた頑丈な扉の前に立ち、エミリアはそっと声をかけた。
返事はない。人の動く気配も感じない。
それでも、ドアノブに手をかけると、すんなりと音もなく回った。
「入るわね」
もう一度だけ声をかけてから、エミリアはゆっくりと重たい扉を押し開けた。
室内に足を踏み入れた瞬間、エミリアはわずかに目を細める。
外の暖かな午後の日差しとは裏腹に、部屋の中はひどく薄暗く、空気が淀んでいるように重たかった。
分厚いカーテンが外光を完全に遮り、わずかな隙間から細い光が一本だけ、埃を照らしながら差し込んでいる。
その頼りない光を辿った先。部屋の主であるスバルは、大きなベッドの上で静かな寝息を立てていた。
彼の胸元には、ドレス姿の小さな精霊、ベアトリスが抱きかかえられている。彼女もまた、スバルの腕に包み込まれたまま、穏やかに目を閉じていた。
起こしてしまわないよう足音を殺し、エミリアはベッドの傍まで静かに歩み寄る。
眠るスバルの顔はいつもより青白く、目の下には、いくら眠っても消えそうにない疲労の影が濃く張り付いていた。
けれど、苦しそうではない。
彼の胸元にいるベアトリスを抱く腕には、まるで彼女が命綱であるかのように、決してこの温もりを離すまいとする強い力が込められていた。
そこでようやく、スバルの腕の中にいたベアトリスが、気配を察して薄く瞼を開く。
「……んみゅう、誰かと思えばエミリアかしら。静かにするのよ。スバルはようやく眠ったところなのかしら」
その声はひどく小さく、深い慈愛と、彼を案じる労りに満ちていた。
「ごめんなさい。起こすつもりはなかったの」
声を潜めて謝りながら、エミリアは近くにあった木製の椅子を、音を立てないようにベッドの横へと運ぶ。
ゆっくりとそこに腰を下ろして、小声で眠気眼のベアトリスに尋ねた。
「最近、スバルとお話ししてる?」
「もちろんかしら。昨日は久しぶりに、ベティとスバルが出会った頃の話をしたのよ」
ベアトリスの声には、誇らしげな響きと共に、彼との絆を確かめるような安堵が混じっていた。
きっとお互いを慈しむようなそんな時間だったのだろう。
「そっか。私、最近スバルとあんまりお話しできてないの。だからちょっと、羨ましい」
エミリアが自分だけが遠ざかっているような寂しさを吐露して小さく笑うと、ベアトリスはすぐには答えなかった。
ーー数秒の、ひどく重たい沈黙。
ベアトリスはスバルの胸元へそっと頬を寄せ、彼の規則正しい呼吸を確かめるように小さく身じろぎをする。
彼女もまた、スバルの抱える不調を感じ取り、彼を案じているからこその間だった。
「……なら、話せばいいかしら」
「うん。だから来たの」
エミリアが短く答えた、まさにその時だった。
ベアトリスの小さな身じろぎで眠りが浅くなったのか、スバルの閉じられた瞼が微かに震え始めた。
ひどく重たそうに片目が開かれる。彼はまず腕の中のベアトリスを確認し、それからようやく、ベッドの傍らに座るエミリアへと焦点の合わない視線を向けた。
「……ベア子? って、エミリアたん?」
「おはよう、スバル」
エミリアは、いつも通りの優しい微笑みを浮かべて挨拶をした。
普段なら、ここですぐにでも大袈裟な喜び方をして、エミリアが部屋まで会いに来たことを騒ぎ立てるはずだ。
エミリアもまた、彼のそんないつもの軽口を待って、一拍の間を置いた。
「おはようって……今、何時だ?」
だが、返ってきたのは眠気の残る掠れた声だけだった。
スバルは空いている方の手で自身の目元を擦り、驚いたように何度か瞬きをするだけで、気の利いた冗談の一つも口にしない。
期待していた軽口が返ってこない事実が、エミリアの胸の奥にある違和感を一段と強める。
「ラムから聞いたの。スバル、城のみんなにドッキリをしてるんでしょう?」
会話の糸口として、エミリアは廊下で聞いた話を無邪気に切り出した。
だが、その言葉がスバルの耳に届いた瞬間。
「……ラムが?」
スバルの顔から、先ほどまでの眠気が一瞬にして完全に消え失せた。
見開かれた黒い瞳の奥で瞳孔が収縮し、鋭い警戒が走る。
彼の肩がびくりと跳ね、無意識のうちに、胸元のベアトリスを抱きしめる腕に強烈な力が加わった。
ベアトリスが微かに顔を顰めるほどの一瞬の強張り。
その尋常ではない反応に、エミリアは彼が悪戯がばれたと思って焦ったのだと、最初は軽く受け止めようとした。
「私には、いつしてくれるの?」
「しない」
返事はあまりにも早かった。
問いかけの意味を考える時間すらなく、最初から絶対に揺るがないと決められていた答えが、そのまま零れ落ちたような即答だった。
予想外の冷たい拒絶に、エミリアは呆気にとられてしまう。
だっていままで彼がそんな事を口にしたことはなかったから。
「どうして?」
「どうしてって……王様相手に、そんなくだらない悪戯できるわけないだろ」
視線をふいと逸らし、スバルは不自然なほど早口でそう言った。
それはいつもの冗談めかした口振りではあったが、やはり拒絶には違いなかった。
だからエミリアも冗談で返すことにした、そうすればきっと彼が乗ってくれると信じて。
「でもスバル、昔は私にだっていっぱい悪戯してたじゃない。王様になったからって、今さらそんなの気にするの?」
そんなエミリアの言葉にスバルは目線をそらす。
その先には胸元に抱かれたまま、じっと二人のやり取りを見上げているベアトリスがいた。
はじめから分かっていた。立場の問題ではないのだ。
だが未だ確定していないそれを確かめるために、エミリアは問いを重ねる。
「じゃあ、ベアトリスには?」
「しない」
「どうして?」
「…………ドッキリを期待してるからだよ。ドッキリってのはいきなり来るからいいんだぜ? 知ってたら面白さ半減だろ。だからだよ」
それはただ悪戯の対象から外すというだけの言葉であるはずだった。
だが、二度目の拒絶の響きは、一度目よりも遥かに重く、そしてひどく悲痛なものだった。
恐怖に怯える子供のような、それでいて全てを失った老人のような、ひどく虚ろで悲痛な表情。
スバルの喉が微かに引き攣り、ベアトリスを抱く手が震えているのを、エミリアの目ははっきりと捉えていた。
理由は分からない。だが、これ以上この話題に踏み込めば、目の前の少年を決定的な形で傷つけてしまう。
そんな直感が、エミリアに続く言葉を呑み込ませた。
「そっか。それじゃあまた私達が忘れた頃にドッキリをしてね? 約束よ?」
「…………あぁ、ごめんな」
しかし、スバルからの謝罪は蚊の鳴くように小さく、力のないものだった。
彼はベアトリスを抱きしめたまま、頑なにエミリアから目を逸らし続けている。
「謝ってほしいわけじゃないの。ただスバルとお話がしたかっただけだから」
返事はなかった。
重苦しい沈黙が、薄暗い部屋の中にどこまでも降り積もっていく。
正体が分からなくても、何もしないよりは自分から近づくしかない。
エミリアは木製の椅子から静かに立ち上がり、俯いたままの彼へいつもの笑顔を向けた。
「今度からは、私の方からいっぱい話しかけるね」
「……お手柔らかに。エミリアたんから急に声かけられちゃったら緊張しちゃうからさ」
数秒の空白の後、やがてスバルからいつものような軽口が返ってきた。
「ふふっ、いっぱいしゃべりかけちゃうんだから」
声の調子だけは元に戻ったが、それだけだ。彼の表情は依然暗い。
エミリアはそれ以上何も言わず、静かに微笑んでベアトリスに手を振ってスバルの部屋を後にした。
重い木製の扉を閉め、エミリアは一人、日差しの差し込む明るい廊下へと戻る。
入る前は暖かく感じたはずの午後の陽光が、今はひどくよそよそしく、冷たいものに感じられた。
廊下で聞いたラムの言葉、ペトラの怯えきった表情、そして、先ほどの暗い部屋で見せたスバルの悲痛な顔が、脳内でぐるぐると渦を巻く。
ドッキリを仕掛けて、城のみんなを驚かせているのはスバルのはずだ。
それなのに、どうしてあんなに辛そうなのだろうか。
きっと、ダメなことが起きている。
見逃してはダメなこと、彼がみんなのために我慢していること。
エミリアはそれに気がつけたことに少しだけホッとした気持ちを胸に抱きながら、ラムを探しに向かうのだった。