スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
昼下がりのロズワール邸。窓から差し込む暖かな陽光を浴びながら、メィリィ・ポートルートは小さなあくびを一つ噛み殺し、退屈そうに廊下を歩いていた。
大罪司教という世界の脅威が去り、平和を取り戻したこの屋敷での生活。かつて裏の世界で生きてきた彼女にとって、それはひどく居心地が良い反面、時折こうして手持ち無沙汰になってしまう時間でもあった。
「……はぁ。本当に、救いようのない馬鹿ね」
ふと、前方からやれやれと深いため息を吐きながら歩いてくる桃色の髪のメイド――ラムが姿を現した。
すれ違いざまに聞こえた呆れ声に、メィリィは三つ編みを揺らして小さく首を傾げる。
「あらあ、メイドのお姉さん。どうしたのお? そんなに難しい顔をして」
「……メィリィ」
声をかけたメィリィを見て、ラムは足を止めた。そして、何か思いついたように、ほんのわずかだけ意地悪な光を瞳に宿す。
「ちょうどいいわ。暇を持て余しているなら、バルスの部屋へ行ってきなさい」
「えぇー、お姉さんが自分で行けばいいじゃないのお。私、これからお庭でお花でも摘もうかと思ってたのに」
「ラムはこれからエミリア様のティータイムの準備で忙しいの。それに……」
言葉を切って、ラムは廊下の奥――スバルの部屋がある方向へと冷ややかな視線を向けた。
「どうせ今頃、碌でもない馬鹿騒ぎの準備をしているはずよ。適当に水を差してきなさい。……サボって遊んでいるようなら、容赦なく魔獣の餌にする、とでも伝えておくことね」
「はいはい、わかったわあ」
押し付けるようにそれだけ言い残し、ラムは足早に去っていく。
どうやらメィリィの庇護者であり、この屋敷で一番のトラブルメーカーでもあるおにいさんが、自室でまた何か馬鹿なことを企んでいるらしい。
メイドのお姉さんの思惑通りに動かされるのは少し癪だが、退屈しのぎには丁度いい。
そんないつものやり取りを経てメィリィはパタパタと軽い足音を鳴らしながら歩き出した。向かう先はもちろんナツキ・スバルの自室である。
窓から差し込む陽光は暖かく、屋敷を包む空気はどこまでも穏やかだ。
かつて魔獣使いとして暗躍し、血と死の匂いに塗れた裏の世界でしか生きられなかったメィリィにとって、この平穏な日常は未だにひどく脆い夢のように感じられる時がある。
いつか覚めてしまうのではないかという恐怖。だが、そんな彼女を強引に光の当たる場所へと引っ張り上げ、この屋敷に居場所を作ってくれたのは、他でもないあのおにいさんだった。
(おにいさん、また何か変なこと考えてるのかしらぁ)
弱くて、不器用で、どうしようもない人だけれど。それでも、メィリィの命と心を繋ぎ止めてくれた、たった一人の恩人。
呆れ半分、期待半分の笑みを浮かべながら、メィリィは一切の遠慮のない動作でスバルの自室の扉を開け放った。
「おにいさーん、さっきメイドの怖いお姉さんが……って、あらあ?」
間延びした声を掛けながら部屋に足を踏み入れた瞬間、メィリィの口の動きがピタリと止まった。
視界に飛び込んできたのは、乱雑に荒らされた室内の惨状。ベッドのシーツは引き剥がされ、椅子は蹴り倒され、床や壁にはおびただしい量の赤黒い血糊が撒き散らされている。
そして、その血溜まりの中心。腹から凄惨に内臓をぶちまけ、白目を剥いて横たわる見慣れた黒髪の少年の姿があった。
(――――おにいさんが、死んでいる)
その事実を脳が理解した瞬間。
メィリィの世界から、一切の色と温度が消え失せた。
悲しみではない。驚きでもない。脳の奥底からドロリと溢れ出したのは、純粋で絶対的な、底知れない殺意だった。
誰がやった? どこから侵入した? 目的は何だ? まだこの近くに潜んでいるのか?
音もなく気配を殺し、姿なき外敵を求め、メィリィの漆黒の瞳が部屋の隅々を舐め回すように這う。
奪われた。許さない。
おにいさんを傷つけた存在を、絶対に、絶対に許さない。
四肢をもぎ取り、生きたまま魔獣の腹に放り込み、肉切れ一つ残さずこの世の全ての苦痛を与えて惨殺してやる。
幼い少女の皮を破り捨て本物の暗殺者としての防衛本能と絶大な殺意がメィリィの全身を支配した、その時だった。
極限まで研ぎ澄まされたプロの嗅覚と観察眼が、部屋に散らばる数々の違和感を拾い上げたのだ。
(……あれぇ?)
鼻を突くのは、人間から流れる生々しい鉄の匂いではない。厨房から漂ってくる、見知った豚肉の匂いだ。
散らばる腸は太さが均一すぎて、まるでぬいぐるみに詰め込まれた綿か何かのよう。壁の血も、時間が経っているはずなのに黒ずむことなく、あまりにも鮮やかすぎる。
そして何より――血溜まりの中心に横たわる死体の胸が、極限まで浅く抑えられてはいるものの、ごくわずかに上下して呼吸を保っているではないか。
(…………なんだぁ、ただの悪ふざけじゃないのぉ)
ふっと、メィリィの中で限界まで張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。
同時に湧き上がってきたのは、足から崩れ落ちそうになるほどの強烈な安堵。そして、こんな手の込んだ悪趣味な冗談に一瞬でも騙され、本気で世界を呪いそうになった自分への呆れだった。
気付かれないよう薄く目を開けてこちらの反応を窺っているスバルの顔を見ていると、狂うほど心配した自分が馬鹿みたいに思えてきて、無性に意地悪をしてやりたくなる。
メィリィは漆黒の瞳に光を戻すと、いつものほんわかした笑みを貼り付け、仰向けに倒れるスバルの傍らへと歩み寄った。
そしてそのまましゃがみ込むと、一切の躊躇なしにスバルが作ったダミーの臓物をむんずと掴む。
ぐじゅり、と嫌な音を立てて腸を引っ張る。当然それはスバルの体から離れ、あっけなくポロリと外れた。
「うーん、お部屋の散らかし方は百点満点だけどお、散らばってる腸の太さが均一すぎて不自然だわあ」
「…………っ」
「それにぃ、血の色も鮮やかすぎるわあ。時間が経てばもっと黒ずむはずだしぃ、何より血の匂いじゃなくて、厨房の豚肉の匂いがプンプンするものお」
わざとらしいくらいに間延びした声で、プロの暗殺者としての容赦ない品評を下してやる。
スバルの体は、何か薬でも飲んだのか異様に体温が低く、筋肉も強張っていたが、それでも『本物の死体』の硬直とはまるで違う。
「あ、それとぉ。お薬で誤魔化しているみたいだけれど、死んだ後特有の筋肉の硬直もないしぃ。ちょっとおにいさん、お仕事が雑よぉ」
息継ぎの隙すら与えず、完璧な技術的ダメ出しを連打する。
ここまで言われれば、さすがの彼も諦めるしかないだろう。案の定、体の自由が少し戻ってきたのか、スバルは不満げな顔を作ってメィリィを見上げた。
「……わーったよ、降参だ。結構本格的にやったつもりだったんだけどな」
「ふふっ、私を騙すならもうちょっと本気出さないとだめよお」
くすくすと笑いながら、メィリィは寝転ぶスバルの両頬にそっと両手を添えた。
ひんやりと冷たいその頬の感触に、先ほどの殺意の名残りがチクリと胸を刺す。
もう二度と、本当にこの頬が死体のように冷たくなってしまう日が来ないようにと、ほんの少しの祈りと強い警告を込めて、メィリィは至近距離からスバルの瞳を覗き込んだ。
「死んだふりなんて悪趣味なことしてるとぉ、本当に動物さんたちの餌にしちゃうわよお?」
(だから、もう二度とこんな心臓に悪いこと、しないでよねぇ)
声に出さなかった本当の思いは、いつもの笑顔の裏側にそっと隠す。
スバルが「悪かったよ」と苦笑いするのを見届けたメィリィは、「お片付け、がんばってねぇ」とだけ言い残し、自室を後にした。
◆
「おにいさんのばか。もう知らないんだからぁ」
スバルの部屋を後にし、バタンと背後で扉を閉めたメィリィは、そのままズルズルと扉を背にして座り込んだ。
誰の目もない廊下で、彼女は自分の胸ぐらをギュッと強く掴む。
ドクン、ドクン、ドクン。
スバルの前では平然を装っていたが、心臓は今になって、肋骨を突き破りそうなほど激しい警鐘を鳴らしていた。
(あんなの、心臓に悪すぎるわぁ……)
額に滲んだ冷や汗を拭いながら、メィリィは小さく息を吐き出す。
平和ボケしているのは自分の方だ。たかが悪ふざけ一つで、あれほどまでに取り乱し、世界を壊してしまいたい衝動に駆られるだなんて。暗殺者として、いや、魔獣使いとして、あまりにも致命的な『執着』だった。
「本当に死んじゃったら、私、どうなっちゃうかわからないじゃないのぉ……」
声に出さなかったその本音は、静かな廊下に溶けて消える。
まだまだ一日は終わらない。